倍速批評Ver0.2 倍速記

‘blind’という語が私の思考の内で反芻される。

昨年、アニメ批評同人誌『ブラインド』の「リコリス・リコイル」特集に「日常という斜塔」という論考を寄稿した。「リコリコ」は真島というテロリストのキャラクターが登場する。彼は、かつて盲目だった。

私の関心は自らになにが見えていて、なにが見えていないか、というものになった。

キャラクターでなく、物語でなく、主題でなく、社会でなく、アニメーションなのだから画面を見ろ。もっと言うと、カットなり、シーンなり、シークエンスなりの映像を見ろ。そのような助言に私は従った。

私はサブスクリプションサービスをよく用いる。アニメーションが流れるスマホ画面をじっと見る。飽きる。タップするとシークバーが顕れる。シークバーは等速で進んでいる。

シークバーはなんのメタファーだろう。モザイクはなんのメタファーだろう。レターボックスはなんのメタファーだろう。字幕はなんのメタファーだろう。

スマホで映像作品を観る際は、それを立てたい。実家ではダイニングテーブルに置いてあったデジタル時計に立てかけていたな。そこにおいて、いくつかの時間感覚が複雑に共存していた……気がする。いまは机に置いてある鏡に立てかけている。私の顔が映る。

私はモキュメンタリーが好きだ。液晶に顔を近づけると、画素と画素の間の闇に、なにか見える気がする。モキュメンタリー的な批評はありえるのだろうか。もしくは、批評はモキュメンタリー的でしかありえない?

アニメ「僕の心のヤバイやつ」第1話を観た。市川京太郎の一人称視点の画面に彼の前髪が映った時、私の目には久しく切っていない自らの前髪も映っていた。彼の覗き趣味とそれへの自己批判は、そのまま私にも適用された。私は作品を殺したい。きっと死体になっても美しい。

漫画家の芦原妃名子さんが自殺した。私はこの問題を無視する気はないが、いまは沈黙したい。それとは関係なく私が考えるのは、ひとは実写化を恐れている。そこに自らの顔を見るのを恐れている。

「神は死んだ」、まあ、そうだろう。「作者の死」(ロラン・バルト)、これは広く共有されていないらしい。作者を神と仮定するなら、批評とは供犠であろうか。作品を殺そうとした私はズタズタにされ、バラバラにされる。

「僕ヤバ」を観て、「おやすみプンプン」の片目を潰されたプンプンを思い出した。両目でもない、盲目でもない、私は片目を探している。斜塔を探している。斜塔はどこにもない。先日、初めて登ったスカイツリーの螺旋状のスロープ、その不安定さは心地良かった。

ずっと中間項を探している。第三項を探している。それが目的化してしまっている以上、なんの意味も無いと知りながら。作品の内容への興味なんて、とっくに失われていた。

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