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毒の始まり:ならえ編

とりあえず、毒の総本家、私の曽祖母の話から書き始めることにしよう。


私にとってはとても可愛い曽祖母

物心ついて、祖母の家にいくと曽祖母がいつも遊んでくれた。よくデパートに一緒に買い物に行き、とにかく私の欲しいものを買ってくれた。一番甘やかしてくれたのが曽祖母だった。でも、この「甘やかし」が彼女の狡猾な作戦だったと知るのは彼女が亡くなってからだった。

お嬢様は手に追えない

曽祖母の生まれた家は広島の地主で、T家が所有する土地を通らないと、町の外には出られない?とかいう話があったくらいお金持ち。そんなお家に1903年に生まれた。ちょーお嬢様で育った曽祖母のならえは家族からも厄介者扱いされており、どうにか結婚で嫁に出すも、3回くらい出戻って帰ってきていたらしい。

彼女は1度目の結婚で、太郎ちゃんという男の子を出産するが、息子を捨てて実家に帰ってきてしまっている。もう随分昔のことなので、理由はわからないがとにかくわがままだったらしい。嫁ぎ先で姑とそりが合わないことが多く、ことごとく実家に戻ってきてしまう。さて、どうしたものかと考えあぐねたならえの両親は「外国在住の男性のところに嫁がせたら簡単には戻ってこれないのでは?」と考え、当時日本が統治していた台湾で刑務所の看守をやっていた曽祖父のところに嫁がせた。そしてそれが功を奏し、その後彼女は曽祖父と一生をともにする。

ただし、それでもやっぱりお嬢様だったのは変わらず、浪費癖がすごく、持って帰った給料は1週間くらいで使い終わってしまう。曽祖父もお金を工面するのが大変だったらしい。また、気に食わないことがあると皿を投げたりして暴れたりしたらしい。私はその話を母から聞いたのだが「なんでそんな女と結婚してるのよ?」という問いに対し母は「まぁ、おじいちゃんはおばあちゃんのことよっぽど好きだったんだろうねえ」というしかないくらい訳がわからなかったらしい。

ならえの生存戦略=人への依存

そこに生まれたのが3人の子供。長男のぞむ・長女のぶよ・次男ひろしの3人である。
(この3人はそれぞれかなり違った道を歩むので、また別の回で紹介する。)
まず、先ほど言及した通りお嬢様で浪費癖が強いということは、家は常にお金がない。太平洋戦争があったせいもあり、お金もなく、次男のひろしは小学校までしか卒業できなかった。ちなみに私の祖母ののぶよは高校まで出ており、頭もよくとても器用な人間だったそうだ。ただし、その時代は女性が外で働くということはほぼなく、ならえものぶよも基本的には主婦稼業である。というわけで、基本的にはならえの浪費癖のせいで子供達はずっと貧乏な生活を送っていた。むしろ、長女のぶよは次男ひろしの母のような状態であり、ひろしはずっとのぶよには頭が上がらなかったという。

戦後は台湾から日本に帰国、広島で一家で生活するようになる。祖母ののぶよは小学生以降はほぼ広島で育ち、祖父のいさおと結婚する。他の兄弟もそれぞれ結婚し、自分の家庭を持って、次第に広島から離れていく。それを機に、曽祖父母夫婦も曽祖父の出身の北海道に拠点を移すことになる。

一見、とりあえず浪費癖が強くわがままでありながらも、曽祖父の支えのもあり、なんとか暮らしてきた曽祖母。きっとある程度は幸せだったんだろう。でも、曽祖父がなくなってからが問題。誰がこの傍若無人なならえを引き取るかというので、私が物心ついた頃には3人の子供の家を転々とするならえの姿を見ていた。

ここまで書いてきて気づいたが、曽祖母は一度も働いたことがない。自分で資産を築いたこともない。常に人に依存して生活してきている。
実家がお嬢様なのだから、遺産とかあったんじゃないの?と考えたが、実は曽祖母のお兄さんが事業で失敗し、資産は全て失ってしまい、曽祖母のところには何も残らなかったそうで、そもそも資産もない。もちろん、曽祖父もそんなに資産を築いていたわけではない。築くどころか入ってきた端から全部奥さんが使ってしまうのである。というわけで、曽祖父が亡くなった後、曽祖母は自力で暮らしていくことができなくなったのである。年金はあったけれども、それで足りるわけがない。

孫を人質にする祖母という構図

まだ曽祖父が生きている時代、ならえ夫婦は北海道に住んでいた。祖母ののぶよの家庭の事情もあったが、祖母は末っ子の息子が生まれた後、息子をならえに預けた。当時祖父母の家は食い扶持が苦しかったのである。その時、ならえは孫を甘やかすだけ甘やかして育てた。それがその後のこの孫の人生を狂わせる一端となっているが、それはまた別の回で。
そして、孫を預かっているのだからとお金を要求。まぁ、食い扶持がなくて預けてるので、助けてくれるのかと思いきや、孫を人質にとって何かにつけては金品を要求してくるのである。預けるとは一体?

ちなみに、うちの家庭に限らず毒家族・DQN系の家は度々この「家族に金品を無心する」という行為が多発する。遺伝か?というくらい多発する。まぁ、そういう環境で暮らしてきたから当たり前なのかもしれない。

実はこれと同じことを他の家庭でもやっている。彼女が子供たちの家を転々とするようになると、自分の部屋がないので、必ず子供の部屋に居座る。そして、その娘・息子と仲良くなり、徹底的に甘やかす。そして、孫を手なづけて、孫たちに自分がいて欲しいと思わせる。そして、孫が成長してそれがうまくいかなくなると、違う子供の家に移動する。これを繰り返してどうにか生存していた。まぁ、彼女が75歳を超えたあたりから、子供たちの家が潤ってきたので、彼女を養うことは経済的な負担ではなくなってきていた。浪費するといっても高齢者なのでたかが知れているし、流石に現代のようなアクティブシニアではなく普通のヨボヨボしたおばあちゃんになっていたので、そこまでお金もかからなくはなっていた。ただ、わがままなのは変わりなく、みんな手を焼いていたようだ。

もちろん、この手に引っかかったのは孫だけではなく、ひ孫の私も同じくである。ただし、流石に同居していなかったので、私にはいい思い出しかない。当時ならえが住んでいた祖母の家にいくと、毎回一緒にデパートに行き、好きなものを買ってくれた。今思うとあのお金は曽祖母のお金ではなく、他の人のお金だったかと思うと少し申し訳ない。おまけに、母親がめっちゃ「あまりたくさん買い与えないで!」って目くじら立てて怒ってた気がする。でも、見た目はすごく可愛らしく、いつも櫛で髪を綺麗に梳かしてサラサラショートヘアだった。あぁ、それに男たちもみんな騙されたんやな。

私を救ってくれた曽祖母

これだけ評判が悪い曽祖母だし、きっとその時の行動も何か裏があったのかなと思うけど、その時に本当に私は助かったので、これだけは救われたという曽祖母の行動があった。

私の父と母は私が7歳の時に離婚。そこから生活は一気に苦しくなり、母はもちろん働きに出ることに。夏休みは母は日中働いて不在、私は家にいるという状況になってしまうので、自宅から電車で5駅ほどのところにある祖母の家にいることが多かった。当時祖母の家には、祖母・叔父2名・曽祖母が暮らしていた。小学校3-5年生くらいまでは夏休みは祖母の家で1.5ヶ月ほど滞在することになっていた。

確か、小学校4年くらいのことだったろうか。その時会社社長をやっていた叔父のよしたかが母と喧嘩になった。
「そんな稼ぎじゃ、じゅんこのことを幸せにはできない。俺が引き取る。」
と突然叔父が言い出した。もちろん母は猛反対。
私も正直叔父はいい金蔓だけどヤクザみたいだからイヤだと思っており、母が私の手を引いて祖母の家を出て帰ろうとした。そしたら、なんと叔父が私のもう片方の手を掴んで、母と叔父で私を引っ張りあうことに。
ドラマかよ、これ!と思ったけど、↓みたいな感じに。

人は引っ張り合うものじゃない!

小学生の私はそりゃ泣くわよねぇ…。
でも、そこで助けてくれたのが曽祖母のならえだった。2人から引き離して、彼女の部屋に引き上げて、その後私が2人の喧嘩をみないようにしてくれた。
これだけは一生忘れない。その時曽祖母80代とかだった気がするんだけど、すぐに割って入ってくれて、私のこと引き剥がしてくれた。救世主だと思ったね。彼女にどんな意図があったかはわからないけど、その時だけは本当に助かった。

彼女は私が中学1年生の時、88歳で亡くなった。それからしばらく、彼女の写真を財布に入れてずっと持ち歩いてた。大学生くらいまでずっと。そのくらい私は曽祖母のこと好きだった。そうやって孫やひ孫に取り入ってきた人生だったかも知れないけど、私は彼女のいいところしか見ないで終わったので良かったと思ってる。そして、そのわがままっぷりと浪費癖、確実に私に受け継がれてる気もするんだけどw。遺伝って怖いなぁ。

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