『僕は美しいひとを食べた』感想

カニバリズムについて記述しています。詳細に説明はしておりませんが、人肉嗜食と愛を扱った作品であることを念頭に置いてお読みいただきますよう。
苦手な方はご注意ください。
あとめちゃくちゃネタバレしています。

帯の文句が奮っている。
「人を喰うことは、常に神を喰うこと」
いい惹句だと思う。少なくとも私は、タイトルとこの帯で購入を決めた。
カニバリズムと愛はよくセット売りされている。戯曲然り小説然り漫画然り。
しかし、愛した者の一部を口にしたという話は現実では滅多に聞かない。
現実における「死者と愛」のエピソードといえば、コーゼル事件、本邦においては阿部定事件が有名だろう。
人肉嗜食ではパリ人肉事件、アルミン・マイヴェスによる事件などが話題となった。なお、緊急事態における人肉食は除外する。
しかし、これらはそれぞれ愛する者を手にかけその体を愛好したが食べてはおらず、また人を食べたが愛してはいない。その間に引かれた一線、「己の愛を喰う」というタブーは現実の人間には超えられない、それゆえに人を惹きつけるテーマとなるのかもしれない。

この作品は書簡形式で綴られる。手紙の受け取り手はいるものの、存在感は薄い。物語の中心は彼の妻とその不倫相手、手紙で《僕》と称する愛人である。

この直後に読んだガブリエル・ヴィットコップ『ネクロフィリア』では、屍体愛好家の破滅に至るまでの日々を淡々と描いている。しかし、語り手は本作の《僕》ほどの熱狂を持たず、逸脱した快楽に身を委ねながら冷めた視点で現実を俯瞰している。
屍姦と食人、どちらも猟奇とされる分野ではあるが、語り手の温度差がよくわかる。この熱こそが愛なのだろう。

冒頭でこの手紙を受け取ったのが死者の夫で、死者の愛人が手紙の主であることが明かされるが、この時点でだいぶ(イカれてんのかこいつ)という印象を持つ。実際、現代に生きる我々の価値観からすると彼ら相当にイカれているのだが、死者(イザベルという)と愛人《僕》の間ではそれがむしろ尊いものとして共有されている。夫、サー・ジョージも妻が死んだ後なんでこんなものを送りつけられなければならないのだろうか。作中での影の薄さも含めひたすら不憫である。

中国に由来するイザベルの出自が語られるが、私はそれなりに昔の舞台設定かと思っていたので、ピジン・イングリッシュと出てきた時に上海租界時代なのかと驚いた。結構最近。
そして本番はその後である。《僕》とイザがいかに愛し合っていたかを語っていた手紙だが、やがて本性を表し食人についてめたくそ熱のこもった記述が怒涛の如く展開される。
現実なのか彼の見た幻覚なのかその境さえ曖昧な、とんでもない世界に読者も絡め取られていくが、それに関しては語るよりもぜひ読んで確かめてもらいたい。サド公爵の悪徳への情熱と憧憬を思わせる論は一読の価値がある。
二人の愛はやがて死によって分たれるが、そこから《僕》によるイザの肉の嗜食によってクライマックスを迎える。

最後、解説の段で中野美代子『カニバリズム論』が紹介されていたので読もうと思いつつ読めていない。積んでいる。

お前死んでも寺にはやらぬ
焼いて粉にして酒で飲む(詠み人しらず)

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