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妄想キッチン  チキンソテーと鶏の川

 今日はチキンソテーを作ります。軽く塩コショウした鶏モモ肉を焼くだけです。皮を下にして、低温でじっくり焼きあげます。フライパンにひいた油と、チキンから出る脂で皮をカリッと揚げるように焼くのがポイントです。皮をフライに、肉を蒸し煮にするイメージです。これ、けっこう時間がかかります。フライパンを動かしたり、出てくる脂をすくって肉にかけたりと体を動かしつつ、しかし味つけなどの繊細な感覚はいらないので、容量の少ない我が脳にも暇ができ、恰好の妄想タイムが生まれます。

「excuse me」
 近所のスーパーの精肉コーナーでふいに声をかけられる。スカーフで頭髪を包んだ若い女性だ。彫りの深い大きな目がまっすぐ見つめてくる。海外で長く暮らしてきた人特有の、直進する視線が痛いような心地よいような。
「is this chicken?」
 鶏レバーのパックを指さして聞いてくる。おお、これは半世紀の昔、中学1年の最初の英語授業で習った構文だ。『Is this a pen?』 自明の事象を問うこの疑問文はさんざんネタにされているけれど、きっと笑われすぎて今の英語教育では教えなくなっているかもしれないけれど、50年の時を経て、下町の個人スーパーの精肉コーナーの片隅で、こうして使われているよ、近森先生。学びは大切である。近森は中学の時の英語の先生だ。お元気だろうか。
私A「そう、あなたが指さしているのはチキンよ。イエス、イッツチキン、でいくか」
私B「でも、これは肉ではなくレバーだから、「イエス、イッツチキン」より「イッツチキンレバー」と言ってあげるべきじゃない?」
私A「いやいや、肉とレバーの見分けくらいできるでしょう。そこまで言うのは余計なお世話よ」
私B「でもこの女性、年恰好から察するに近くにある大学の留学生なんじゃない?勉強ばかりして肉とレバーの違いなど知らないのよ」
私A「それはいくらなんでもないわー」
私B「ないわーって言い切れる?考えてみて。遠い故国の親が貧しい生活の中工面して送ってくれたお金をやりくりする日々。その中で、今日は月に一度だけ自分に許したごちそうの日で、さあ、鶏肉だ!って思って食べたらレバーだった、その絶望にあなたは責任を負える?」
私A「いや、レバーの方が調理によってはおいしいし栄養価も…」
私B「ふっ。非論理的な人ほど理屈で言い勝とうとするよね」
私A「ウっ…」
私B「じゃあ、イッツチキンレバーでいいわね?」
私A「まあ、そういうなら。あ、でもレバーって確かliverよね。私エルの発音自信ないよ」
私B「ううむ。そいつは困った。うっかりエルをアールで発音したら、イッツチキンriverになるか」
私A「はい、これは鶏の川です、って答える変なおばさんになっちゃうわ」
私B「そこはもう、鶏がどんぶら流れるシュールな光景を謳う詩人、というていで」
私A「なんで私がスーパーの精肉売り場で前衛詩をうたうのよ。それも鳥じゃなく鶏肉。川上から腿やら胸やら手羽先やらがどんぶらこ。って、シュールというよりスプラッタだわ」
私B「あれ?でも『とりのかわ』って鶏皮みたいね。チキンレバーを指さして鶏皮です、っていうのもオツね」
私A「どこがよ。馬を指さして「鹿です」っていう故事のまんまじゃない。チキンレバーを指さして「鶏皮です」って、相手をバカにするにもほどがあるわ」
私B「いやいやいや。ちょっと落ち着こう。川が皮になるって、日本語の話だから。レバーはスキンにはならないから」
私A「おお、なるほど。あれ?そういえば、鶏皮ってチキンスキンでいいの?」
私B「いいんじゃない?」
私A「じゃあ、鳥肌は?」
私B「チキンス…。う…。どうなんだろう…。sabuibo?」
私A「オイ、それ英語ちゃう。サブイボは日本語じゃ」
私B「コホン。あ、イボといえば、先日立ち寄った博物館の仏像の展示解説で、『頭のイボイボはイボじゃなくて髪の毛だよ』って書いてあって、何とも言えない気分になったわ」
私A「博物館も最近、子どもにターゲットを絞り始めているからねぇ。サスティナブルな博物館になろう、的な?子供に『螺髪』は難しいと思ったのかしらねぇ」
私B「でも、イボイボはないわよ。いや、受け狙いか?」
私A「まあ、シッタールダさんは眉間に白い毛が生えていたり全身が金色に輝いていたっていうから、頭にイボイボがあっても驚かないわ、私」
私B「いやいや、頭にあんなにびっしりイボがあったら、驚くわよ、というか『髪の毛だよ』って解説してるんだから、あんたまでイボってどうする」
私A「そういえばシッタールダさんはインド出身?」
私B「ネパール国境の小国だったかと」
私A「あの辺の人たちはムスリム?ヒンドゥ?」
私B「ヒンドゥかと」
私A「そっか。ヒンドゥは牛肉が食べられないのだっけ。」
私B「そう。あ、そうそう。肉の話よ。この子に返事を…」
私A「この子って?あ、チキンの子!なによ、もう質問されてから3秒くらい過ぎてるわ。陸上なら50人くらいに抜かされる時間差よ」
私B「何の競技よ。いや、そう、この子の話よ。あなたは脱線しすぎるのよ。この子は、きっとムスリムよね」
私A「脱線するのはあんたがチャチャ入れるからでしょ。なんでもかんでも私のせいにして。ずるいんだから。まあいいわ。ムスリムが食べちゃいけないのは豚だっけ?」
私B「そ。精肉コーナーでこの子が知りたいのは、このリバーは確かにチキンか、ということね。そういえば、同じ棚に豚の川、いやリバーが並んでいるものね。間違ったら大変。異国に来てもきちんと教えを守って、偉いわぁ」
私A「単に鶏が好きなだけかもしれないけれど」
私B「その点を明確にする必要があるわね」
私A「でも『あなた、ムスリム?』なんて聞くのは踏み込みすぎよね?宗教ハラスメントとかなんとかコンプライアンスとかにひっかからない?」
私B「企業じゃないんだから。でもまあ、プライバシーに踏み込みむのはよくないわ」
私A「『宗教的な問題ですか?』だけでもダメ?」
私B「こらこら。宗教ってreligionよ?RとLが両方あるのよ。Liverでびびっている人があえて火中の栗を拾うつもり?」
私A「確かに、宗教はプライベートな問題かしらね。年寄はずかずか踏み込みすぎる、って思われたくないわねぇ」
私B「…、ねえ、人の話聞いてる?まあ、聞かないっていう結論にたどりつくのなら結果オーライだけど」
私A「そういえば、このチキン、豚肉を処理したのと同じ奥の調理室でパック詰めとかされているよ。その辺は大丈夫かしら」
私B「あの例の調理法で調理されたものでないことは確かね。あれじゃなくていいの?って聞く方がいいかしら」
私A「そうね。あれ?あれ、なんて言うんだっけ。お祈りしながら食材を処理するやつ」
私B「そうそう、あれ、あれ。なんだっけ。あー、思い出せない。途中に音引きが入ってたわよね…」
私A「そうそう。言葉は思い出せなくても、どこかに音引きがあったなぁ、っていう形だけ思い出すことあるよね。こういうのを形状記憶っていうの?」
私B「それ、違うから。でも確かに、『フリーメーソン』って言葉がどうしても思い出せなかった時も、どっかに音引きが入っていたってことだけは覚えてたわね」
私A「そして、はじめの音が『ザ』だ、って思ったのよね」
私B「いったいどこから『ザ』が」
私A「フリーメーソンに関係が深いって言われているモーツァルトの、中でもこの組織を意識して作られたっていう『魔笛』に出てくるラスボス的な登場人物の名前が、我が海馬をかすめたのだ、と私は思っている」
私B「ザエストロの『ザ』ね。」
私A「そう!それでね、『途中に音引きのーが入って―。うーん、うーん』」
私B「『ザから始まって―。うーん、うーん』」
私A「『あ!ザーメン!』ってひらめいちゃったのよ。そして口走っちゃったのよ」
私B「いい年して情けなかったわ。あれは」
私A「申し開きもございません」
私B「で、なんだったかしらね。この調理法は」
私A「ええい、もういいわ。思い出せないのは仕方ない。ザーメンって口走る前にあきらめましょう」
私B「ええ。昼下がりのスーパーの精肉コーナーでムスリムの若い娘を前に口走るにはパワーワードすぎるわね。じゃあ、無難な範囲でこの子に返事しますか」
 こうしてようやく私は口を開く。
「イエス」。
 中学1年生だって、もうちょっと長い文で返事するわ。
 この間約6秒。会話にしては長すぎる沈黙だ。日本人が英会話苦手なのって、こうやっていろいろ考えすぎるせいなのだと、鶏の川からザーメンの旅の果てに1ワードを絞り出した私は思うのであった。日本人の問題というより個人的な問題では、ということに私Aも私Bも考えが至らない。
 ちなみにイスラム教の「あの調理法」が「ハラール」だと思い出したのは、スーパーを出て100歩ほど歩いた後のことだった。もちろんスカーフの女性はもういない。それでも、その日のうちに思い出せて、ちょっとうれしい私であった。
 
 さて、そろそろ肉の厚み八分目の高さまで火が通ってきました。あとはひっくり返して肉の表面を焼いて仕上がりです。ひっくり返してみて皮がパリッとなっていたら、成功です。
と言ってみたものの、正直に言いますと私、皮がパリッと仕上がったことは一度もありません。チキンソテー、成功したことがないのです。おいしいことはおいしいのですよ、鶏モモ肉をまずく仕上げる方が難しいですからね。でも、あの秋の日の木の葉のような水分が抜けきった硬質の感触をかの鶏皮に再現することは、私の手ではできないのです。温度、油の量、塩の振り方、いろいろ試してきましたが、皮はいつでもボロボロに依れて脂っぽくねちっこい塊になるか、びろんと水っぽく柔らかいままか、その両極に振り切ります。最近ではyoutubeという便利な動画集がありそれも参考にするのですが、やはり成功したことはありません。鳥皮の呪いでもかかっているのでしょうか。
月に1,2度は作るチキンソテーの、香ばしい脂と白く柔らかいモモ肉は、いつも挫折と妄想の味がします。


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