正月とか小説について、少々/石浦めめず

正月とか小説について、少々
石浦めめず

 
 新年あけまして、おめでとうございます。   

 なんて。

 あまり二〇二〇年になったという感覚はなかった。というのも、私は年越しの際、とくに誰に挨拶をするでもなく、ただひたすらに机に向かって就職に向けた勉強をしていから、単に日付が変わった程度の認識しかなかった。まだお餅も食べていないし、実家に帰って親戚と会うこともない。冬休みは勉強漬けの毎日で、ひたすら法律の条文を読んだり判例の要旨を覚えたりと、いつでもできることに身を投じていた。

 私はあまりに季節感を無視した生活をしていたため、こうやって文章に「新年あけまして、おめでとうございます」と文字を起こしてみてはじめて年が明けたんだなぁという自覚を持つに至ったくらいだ。


 毎年この時期になると、正月とか冬とか、そういった季節の事は置いといて、間近に迫った四月の事にばかり注意が向いてしまう。今を楽しむというより差し迫った未来を心配してしまう性分だから、私は正月と相性が悪い。

 四月になると、遂に四年生になってしまう。しまう――と消極的なのは、私が四年生になるのを潔しとしないから。というのも、それは就職の事だったり、膨れ上がった借金みたいになった卒業に必要な単位の数だったり、いろいろな環境の変化に耐えられそうもないから、といった理由もあるが、一番の理由は、四月になってしまうと昨年度に経験したあらゆることを他人事のように感じてしまうからだ。

 どうしてだろう、私は暖かい春の風を全身に浴びると、それだけですべてがリセットされてしまうのか、まるで自分には過去など存在しないかのように認識を改める傾向がある。きっと私は四月になってしまえば、二〇一九年度に起きたあらゆる経験を記憶の隅に追いやり、心機一転と意気込んで経験の断捨離を行うのだろう。

 これはとっても寂しいことだけど、でも自分にできることはないから受け入れるほかない。こういう人間だから、と早めにあきらめることで何とか傷が広がるのを食い止めることしかできないのだ。

 だから正月は憂鬱になる。

 でも伊達巻は食べたよ。スーパーで売れ残りだったからね。


 おめでたいなんて、とんでもない欺瞞だ。

 新年早々、自分を騙すことからはじめなければならないなんて。


○森見登美彦『太陽の塔』新潮文庫 
「ユーモアと切なさに満ちたストーカー日記」
 
「何かしらの点で、彼らは根本的に間違っている。なぜなら、私が間違っているはずがないからだ」

 『太陽の塔』は主人公のこの独白で幕を上げる。

 何という不遜な態度! おまけに彼は京大生なのだ。これはエリート層の尊大な主人公が私のような下々の大学生に教訓を垂れる厄介な小説に違いない! と思い、警戒しながらページを繰ると、どうも勝手が違うようだ。警戒どころか、読み進めていくうちに主人公を愛おしくなっていく自分に気が付いた。

 さて、これはどうしてだろう。私は東京のおこぼれをいただく立場の埼玉にある無名大学の生徒、かたや彼は京都市左京区に鎮座している日本最高の大学の生徒。同じ大学生とはいえ、これほどまでに身を置く環境が異なれば世界に対する認識も異なるだろう。認識が異なればおのずと分かり合える範囲も狭まっていくだろう。なのに、これはいったいどういうことだ。

 これは、私じゃないか! 私が京大にいるぞ!

 もちろん私は京大にいないのだが。だが私とある部分、それも大学生という人間的に未成熟な期間を通じてしか分かち合えないデリケートな性質が、彼と私を別人とは思えないほどに結び付けているのだ。

 その性質とは何か。

 それは、胸を突く切なさに対してどうやって立ち向かえばよいのかわからない、という問題を抱えていることだ。


 主人公は休学中の大学五年生。彼のいうところの「大学生の中でもかなりタチの悪い部類」に属している。が、彼のもっとも特筆すべき点は、下宿先の自室に積もり重なった原稿用紙換算二百四十枚のレポートである。

 彼は日課としてこのレポート制作にせっせと取り組んでいる。しかし、大学の研究室から逃亡して休学中のいま、一体何のレポートを書いているというのか? 

 実は、これはある特定の女性、それも彼の元カノについての研究であり、恐ろしいことに「彼女がなぜ私のような人間を拒否したのか」という疑問の解明を目的とした実地調査、つまりストーカー行為の一環に他ならない。

 彼は「ストーカー行為ではなくあくまで研究であり、犯罪とは根本的に異なる」と読者に対してさんざん注意喚起をするが、どう見てもストーカーである。

 また、彼は水尾さん(彼の元カノだ)の習慣を克明に記録した文書を作成しており、それを基盤として元カノの追跡を行うのだ。

 ここまで説明すれば、主人公がエリート街道まっしぐらの無敵人間でないことは理解できるだろう。彼も傷を負った一人の学生なのだ。だからといって、彼女に振られたからといってストーキングに邁進する彼にいったいどんな読者の好感を得られるというのか、と思うかもしれない。

 『太陽の塔』にいたく感激した私でさえ思う。彼はやっぱりストーカーだ。しかし、この本を読んでみるとわかるが、彼はただのストーカーではない。

 とても愛らしいストーカーなのだ。

 読者が彼に愛しさを感じる最大の要因は、この小説が採用した一人称形式、つまり主人公の語りにある。


 彼は物語中のありとあらゆる場所(もしかしたらすべてのページ上といっても差し支えないかもしれない)で饒舌に語る。夏目漱石を彷彿とさせる文学的な言い回し。必要以上に誇張してほとんどギャグの領域に入り込んでいる豊富な比喩。そして何よりこの作品の白眉である、これらの超絶技巧を尽して生み出された、多彩な見苦しい言い訳の数々。

 これはやはり本をとって読んでもらい、その目で確かめてほしい。作者の森見登美彦氏はいったいどれだけ頭が良いのか。そしてどこでその頭の使い方を誤ってしまったのか。

 これだけ褒めちぎると、未読の方はかえって敬遠するのではないか、と心配になったので一言いっておきたい。

 私が作者の饒舌な語りを真に愛しているのは、単に優れた技術だから、という理由ではない。私はミーハーな小説愛好家なので、作家の技術がどう優れているかを深く考察することはできない。むしろ表面的に楽しいと思えるところを愛しまくるタイプの読者だ。だから他の作家の文章と比較することなんてもってのほかで、作品の面白さというのは個々の作品の内部で決定している。

 私が真にこの主人公の語りを愛している理由。それは彼がどうしてこういった珍妙な言い回しをするに至ったのか、言い換えればこの語りの目的にある。

 作者が持てる限りの技術を使って作り上げられたこの語りの目的。それは、主人公が、大好きだった彼女に振られて傷ついてしまった男の子が、自分の傷に触れないように生きていくための手段だったのだ。


 誰でも失恋くらいするものだ。しかし、その傷にどう対処したかについては多種多様だろう。友人に相談して慰めてもらったり、忘れるまで酒におぼれたり、新しい恋を探すことで傷を癒すのかもしれない。いずれにしても、恋の傷は胸の痛みなしには越えることのできない人生の障壁だ。どんな人間でも経験することには共感もしやすい。

 だけど、失恋に傷ついていない振りをする、それも自分を騙すために傍から見れば馬鹿馬鹿しい様々な努力を惜しまない男がいるとしたら、どうだろう。もう可愛くてしょうがないじゃないか。愛おしくて仕方がないじゃないか。

 恋の悩みに苦しんだことがあるなら彼の必死さに覚えがあるのではないだろうか。傷ついたことをひとたび認めれば、もう人生はめちゃくちゃだ。いっそのこと恋していたことも、出会ったことさえ無かったことにしてしまいたくなることだってある。彼の馬鹿げた言い訳の数々は私たちの延長線上にあるのだ。

 それがこの小説の『真実』だと思う。

 小説は架空のものであっても、読者の私たちが真に信じられるものを発見していくことで、架空以上のものに、『真実』に到達できる、と私は考えている。

 というか、この文章を必死にタイプしている最中に思いついた。
 

 それでも主人公であるストーカーの彼は、薄々気が付いていることと直面する時が来る。

 物語の終盤、ついに彼は自分が見ないふりをしていた切なさの正体を、自分が深く傷ついていることを認める。

 彼女はもう帰ってこない。その代わりに彼女と別れたときの一日を回想する。

 彼は極めて冷静なふりをして別れの挨拶をした。しかし、どうしたらいいのかわからないのでとりあえず酒を飲んだ。そして何が原因で破局に至ったのかについてしばらく思索にふける。夜明け前の街に出て寒さに震えながら「独り身も悪くない。かえって自由だ」なんて得意の韜晦で誤魔化そうとする。いつの間にか明け方の濃紺の空から雪が降っていた。

 そういえば、彼女と一緒に雪の降る中で散歩したことがあった。彼女の前髪に雪が積もり、彼はそれを優しく払った。

 あのときと同じように雪が降っているのに、隣にいた彼女はもういない。

 彼は自分が泣いているのに気が付く。

 そして最後に彼はこう独白して『太陽の塔』を、切ない冬の小さな冒険の幕を下ろす。

「何かしらの点で、彼らは根本的に間違っている。そして、まあ、おそらく私も間違っている」


 ○J・D・サリンジャー 野崎孝=訳
 『ライ麦畑でつかまえて』白水Uブックス
 「ホールデンという悩み」

 舞台は戦後間もないアメリカ。語り手である主人公のホールデン少年が昨年のクリスマスに起きたことを聞き手に(読者に)向かって延々と一方的に話しまくる、というのが『ライ麦畑でつかまえて』の基本的な構造である。

 彼は三百三十二ページの間、休むことなく喋り続ける。それも、ほとんどが「いかに社会というものが救い難い存在なのか。そしてそんな社会にもがき苦しんでいる自分の滑稽さ」についての愚痴だ。

 彼は去年の冬の小さな冒険を通して自分が感じたことを、ユーモアと彼独自の比喩で表現する。

 話し方はフランクなもので、読者は彼との距離の近さに面食らうかもしれないが、それは彼が同じ病室の誰かに話しかけているという設定だからだ。彼は一年前の出来事の結果として、おそらく精神病棟の一室で話をしている。

 彼は「去年のクリスマスの頃にへばっちゃってさ」と世間話をするみたいにいう。読み続けていけばわかることだが、確かに彼の経験談にはさほど劇的なことは起こらない。不運は続いても悲劇というにはあまりに日常的にすぎるエピソードばかりだ。

 それでも彼が感じたことは切実すぎるほどに悲しいものばかりだ。だからこそ寂しさと失望の奔流の中で、彼の信じる世界でもっとも美しく純粋なものが煌めくように輝きの光を放つのだ。

 どうだろう、これとよく似た小説を連想しないだろうか。軽妙な語りとユーモアあふれる表現。青春時代に苦しむ若者の切実な痛み。そして極めつけは、クリスマスを目前にした、冬の小さな切ない冒険。

 そう、これは『太陽の塔』と非常に似通った性質を持つ小説なのである。というか、『太陽の塔』があからさまに『ライ麦畑で』の影響を受けているのだ。

 それは次の引用で誰の目にも明らかなところとなる。

 『ライ麦畑で』冒頭。

「もしも君が、ほんとにこの話を聞きたいんならだな〈中略〉僕が生まれる前に両親は何をやっていたかとか、そういった《デーヴィッド・カッパーフィールド》式のくだんないことから聞きたがるかもしれないけどさ」

『太陽の塔』冒頭。

「この手記を始めるにあたって、私はどこで生まれたとか〈中略〉いわゆるデビッド・カッパーフィールド式のくだんないことから始めねばならないかもしれないが」


 一年前、クリスマス休暇をすぐ先に控えたある日、彼はペンシルヴァニア州の高校を退学した。そして自宅のあるニューヨークへ向かい(ニューヨーク州はペンシルヴァニア州の東に隣接している)、寂しさを紛らわすために少年ホールデンは夜の街を当てもなくさまよい続ける。

 いってしまえば『ライ麦畑』のストーリーはこんなものだ。しかしこの小説が現代に至るまで世界中の若者の共感を呼び、そしておそらく文学というものが死に絶えるまでは輝き続けるだろうと確信できるのは、主人公ホールデンの、社会と理想のギャップに苦しむ若者ゆえの苦しみが普遍的なものだからだ。


 ホールデンは退学した高校の友人にも、ニューヨークで出会った人たちにも同じような嫌悪感を抱き、そして侮蔑の言葉を吐きかける。当然向こうのほうも嫌悪を隠さない。ホールデンを気取ったガキとなじり、彼を見下して軽蔑する。

 彼はいったい何が嫌なのか。

 それは大人と、大人になりたい若者の持ついやらしさだ。彼らの欺瞞や、立場を守るために取り繕う事の醜さに耐えられないのだ。

 その反動として彼は子供を愛する。歌を口ずさみながら舗道を歩く子供に、大人や同年代の少年に対して見せなかった表情を向ける。

 彼は子供を、子供だけを唯一世界で純粋な存在として価値づけている。それは彼の妹や、死んでしまった弟への態度にも顕著に表れている。

 だから小学校に卑猥な落書きがされているのを見つけた時には烈火のごとく怒った。子供に、世界で一番美しい存在になんてモノを見せるんだ! 
彼は妹のフィービーを溺愛するが、彼の異常な潔癖さを不快に思った彼女に問われる。

 兄さんは世の中の何もかもをいやに思っているんでしょ? 好きなものがあるなら、なりたいものがあるならひとつでもいってみて、と。

 彼はしばらく考えた。そして彼の口から出たのはこうだ。

「とにかくね、僕にはね、広いライ麦の畑やなんかがあってさ、そこで小さな子供たちが、みんなでなんかのゲームをしてるとこが目に見えるんだよ。〈中略〉僕はあぶない崖のふちに立ってるんだ。僕のやる仕事はね、誰でも崖から転がり落ちそうになったら、その子をつかまえることなんだ。〈中略〉ライ麦畑のつかまえ役、そういったものに僕はなりたいんだよ」


『太陽の塔』の主人公との決定的な違いは、ホールデンのほうは自分自身が寂しいことにはじめから気が付いていることだ。

 社会の作り上げたまやかしに悩む自分を理解してくれるひとが何処にもいないことに、寂しさを募らせる。 

 切なさを胸に抱えたまま語り続けるホールデン少年には常に影が差している。どうしようもないことを理解しつつ周りに毒を吐きながら、それでも人恋しさに、理解者を求めて夜のニューヨークを放浪する彼の姿が私の心を捕えて離そうとしない。

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