悪友以上、/上坂 英

悪友以上、
上坂 英

 加山夕が紀野奈都海と出会ったのは、高校生活も残り一年となった始業日だった。氏名順、という無難極まりない形で席が埋まっていく中、始業式への集合を促すチャイムが鳴っても自分のすぐ後ろに人は来ない。何となく気がかりに思っていると、去年も同じクラスだった女子に肩を叩かれた。見ればクラスメイトの殆どが廊下に出ており、喧騒がそちらへと移りかけていた。

 慌てて体育館用のシューズを持ち、彼女に背中を押されドアを開ける。瞬間、視界一面にセーラー服が広がったかと思えば、背中じゅうに痺れが走った。呻く隙も無く、今度は腹部を圧迫される。漸く出たヒキガエルのような声に、すんでのところで避けたらしい女子の悲鳴が重なる。加えて耳に入ったのは、自分に負けず劣らずの間抜けた唸りだった。

 こうして加山と紀野は、出会い頭にぶつかり縺れ込むという、少女漫画も真っ青な邂逅を果たす。心理的にも物理的にも、これまでには無い衝撃があった。


 紀野奈都海、という名前自体は以前から度々耳にしていた。県内でも偏差値トップスリーを争う本校では珍しい赤点常習犯、悪い意味での有名人だからだ。特に数学は再々々試まで食い込んだこともあったようで、教師が授業中に愚痴ってきたほどだ。自主的な勉強を当然と考えてきた加山からすれば、別の生き物にさえ見える。ただ向こうはそう思ってくれなかったようで、「暇な時でいいから勉強教えてくれませんか!」と頭を下げられた時は眩暈を覚えた。

「別の人でいいじゃない」

「けど皆、頭いいって言ってたから」

 誰だ言ったの、爆弾を私に処理させるつもりか。強めに断ろうと口を開いたが、捨てられた子犬のような表情に言葉が出ない。気付けば首を縦に振っていて、自分は将来甲斐性の無い異性と結婚するだろうと確信した。

 試験には文系教科しか使うつもりはないと言ったので、取り敢えず英文法から始めた。とはいえ加山も、英語はどちらかといえば自信が無い。数回それなりに相手すれば満足するだろう、そう高を括っていたが。我に返ったのは、火曜の放課後に教える、と本格的に定めてからだった。帰ろうぜ、と加山の教材を勝手に鞄に放り込んでくる紀野を諫める傍ら、内心では頭を抱えたかった。自分はこんなにお人好しだったか、とこれまでを顧みる。分かったのは、彼女にまんまと絆されたということだった。

 この高校に入れた時点で地頭は良かったのだろう、理屈を噛み砕いて説明すればすぐに吸収した。自分に合った勉強法や、分からない部分を見つけるだけのやる気が欠けていたのだ。例題の答案を緊張した面持ちで見せてきて、全て合っていると言ったら諸手を上げて喜ぶ様には、心がじわりと温かさを覚えた。何より、知識で頭を一杯にすべく部活にも属していなかった加山にとって、特定の人間とこれだけ時を同じくするのは初めてに近かった。将来教師になるのも悪くないと思えるくらいには、加山の方もこの小さな勉強会が楽しくなっていた。

 分かってからは何かが吹っ切れた。紀野に連れられるまま時にはカフェの新作を食べ、時には巷で話題の映画を観に行った。娯楽のための寄り道など時間の無駄に過ぎないとしていた石頭が、彼女の豊かな反応を前に氷解していく。自然とファーストネームで呼び合うようになってからは、周囲にも紀野の世話係と認知された。英語教師に期待の籠った手付きで肩を叩かれた時は、本来は貴方の仕事なんですがね、と苦み走ったが。

 そんなこんなで五月の末、勉強会を古文に切り替えた日、いきなり教卓側のドアが開いた。紀野が僅か肩を跳ねさせるのを見て、存外怖がりであることを知る。

「おーいたいた」

 そう顔を出したのは担任だった。曰く、プールサイドに溜まった落ち葉を掃除してほしいとのことで。「お前ら部活ないし暇だろ」と付け加えた彼に、分かりやすく不機嫌になる紀野を宥め、頷いておく。こういうのは素直に聞くのが吉だ。加山の態度に安心したのか担任は笑みを深め、じゃあ任せたぞ、と顔を引っ込める。その足音が消えたところで、頭一つ分低い旋毛に「行こうか」と声をかける。紀野は依然唇を尖らせたままだった。それは廊下を半ば進んでも。

「勝手にやるって言っちゃったのは悪かったよ。何なら私だけでいいからさ、機嫌直してよ」

 そう言うと紀野は、

「夕一人にやらせたら、私が意地悪みたいじゃんか」

 と呟く。生来の掠れも相俟って、聞き取りにくかった。

「それに、私が怒ったのはそこじゃないし。部活ないってだけで暇って決めつけるなんてどうかと思わない? 絶賛べんきょーちゅーだったってのー」

 また赤点取ってやろーかー、と両手を握り拳にして掲げる。子供じみた口調と仕草に思わず笑いを零すと、案の定せっつかれた。

「それくらい私との勉強楽しんでくれてたんだったら、教師冥利に尽きるなぁって」

 そう誤魔化すと、そういうことでもないっての、と照れたように視線を逸らされた。そこで更衣室に辿り着き、ジャージに着替える。今日体育があったというのも、担任の決め手の一つだったのだろう。プールサイドをぺたぺたと踏みしめ、加山は少し不思議に思った。さぞ苔の温床となっているだろうと思ったプール内が、きちんと本来の薄青色を示していたのだ。それこそ、掃除したばかりのように。もう二年生あたりがやったのだろうか、ならば何故サイドにだけ手が入っていないのだろう。その答えは、つと現れた体育教師によって明かされた。

「いやーごめんな。二年がやってくれたはいいが、彼奴らふざけてばっかで授業内に終わらなくて。君らの担任にそれを話したら、気ぃ遣ってくれたみたいだな」

 その気遣いが生徒の時間を奪ってますけどね。言ってやりたいのを堪えていると、紀野が

「せんせー私ら受験生ですよ! ちょっと酷いんじゃないですかぁ」

 と茶化すように抗議した。気持ちを代弁してくれた彼女と、「悪かったって。飲み物買ってやるから、な」と心底申し訳なさそうにする教師に、溜飲が下がる。

「しかし紀野、お前から受験意識した言葉が出るなんてなぁ」

「どんだけ馬鹿にしてんですか! 掃除やーめた」

「やーめたってまだ始めてもいないだろう! ちょ、待て、頼む」

 漫才のようなやり取りに、自然と頬が緩む。あまり無かった現象に我ながら驚き、切り替えるようにモップとホースを取り出した。

 落ち葉から現れたミミズの群れや、隅にこびりついた泥汚れに奮戦し、全て終わった頃にはすっかり日が傾いていた。シロップに漬けられふやけた杏子のようなそれを眺めていると、紀野が「しょうもない質問していい?」と尋ねてきた。ホースを握る手は勿論、脚からも水を滴らせている。

「夕って名前、夕焼けから来てんの」

 丁度その夕日によって翳った顔の中で、小動物のような双眸が浮き出たように見えた。引き寄せられるように視線を合わせ、首肯する。

「生まれた時、丁度夕日が見えたんだって。単純だよね」

 勿論、その夕日みたいに綺麗な心を持ってほしいとか、雄大な存在になってほしいとか、意味が込められているのは分かっている。それでも単純なものは単純だし、素直に認めるのが気恥ずかしく思われて、自嘲っぽくなってしまった。

「んじゃあ私とお揃いだな。私も夏、海に近い病院で生まれたからってさ。流石に漢字はちょっと捻ったみたいだけど」

 そんなもんなんじゃない。加山とは違い屈託なく笑う。丸っこい瞳を三日月にし、惜しげもなく歯を見せる。至極純粋な笑みに、頬に血が上るのを感じた。今度は何の現象だ、なんてどぎまぎしていると、「終わったかー」という通りの良い声を浴びせられる。紀野がまた肩を跳ねさせた。体育教師が買ってくれたスポーツドリンクを、一息に呷る。二人からナイス飲みっぷり、などと茶化されたようと、体温を下げることに専念した。お陰で、今の感情が何だったのかは、すっかり分からなくなった。

 余談だが、プールは下級生の女子たちが揃って日焼け止めを使ったために、みるみる白濁したらしい。教師たちが禁止令を出そうとしたものの、下級生だけでなく同輩の多くも異議を申し立てた。結果、加山たちのクラスは一度も入らないままプールの授業自体が無くなり、二人の小さな苦労は見事水の泡となった。とても品行方正とは言えない紀野の嘆きに、その時ばかりは同意した。


 夏休みに入り、とはいえ受験生に遊ぶ暇は与えられない。本校では、復習や難関大学への対策を主とした講習が行われる。さすが自称進学校、と言いたいところだが、正直教師側は迷惑しているだろう。どの教科を取るか、またそもそも参加するかも自由のため、加山は不安要素の強い理科と英語を取った。紀野はと言えば、「また赤点を取りたいかー」と担任に脅され、文系教科に丸を付けていた。その時の顔が、臭い物を嗅いだ子犬のように悲愴を極めていて、悪いと思いつつ小さく吹き出してしまった。

 二コマ連続の講習を終えた加山は、暑さで僅かにふらつきながら教室に入る。流石に疲れた。空調が利くまでの間、とへたっていると、首がいきなり冷たくなった。思わず驚嘆を上げながら振り返ると、すっかり見慣れた顔がにやにやとしている。もう、とこちらも困ったように笑ってみせると、紀野は半分こにできるアイスの片割れを差し出してきた。幼子のような笑い声は、この暑い空間の中では風鈴にも思える。お疲れ、と気紛れに頭を撫でてくる手が恥ずかしく、しかしそれ以上に心地よくて身を委ねた。再びせり上がる睡魔に負けぬよう、そっちこそ、と返す。そこで、彼女の首筋が普段より汗ばんでいることに気付いた。加山の視線に気付いたのか、少し恥じらうようにそこを撫で、しかし次には「そうだよ!」と目を猫のようにする。変化の激しい表情は、本当に幼子を相手取っている気分にさせられる。どうしたらそこまで表情筋が発達するのかと、羨ましくもある。

「日本史の教室、クーラー途中で壊れちゃってさ。扇風機あったけど、あんなの役に立たないの丸分かりじゃん。なのにあと三十分だからって、教室も変えないでさあ!」

 むくれる彼女を宥めるが、勢いは止まらない。これがマシンガントークか。

「もう辛抱たまらんね! なあ」

 ずいっと寄せられる顔に、体温が上がる。暑さのせいだと思いたかったが、あの時と同じだ。そうだ、距離が近いからだ。そう理屈を捏ねているところに、第二の爆弾が投下された。

「今からいけないこと、しようぜ」

 これまで見てきたドラマや漫画でも早々目にしなかった俗っぽい科白に、思考回路はショート寸前だ。脳裏に浮かぶのは、パソコンの読み込みマークだけ。そんな加山に焦れたのか、紀野は

「返事しないなら肯定とみなすぞ」

 と遠慮なく腕を引いてくる。未だ読み込みを終えない脳は、引き留める言葉も動作も出してくれず、結局ただ連れられるのみとなった。働き出した空調は、ボタン一つで再び眠りに就かされた。 

 結構歩くな、もしやこのまま外に行くのだろうか。ふわふわする脳は、突如白けた視界で正気に戻った。

 ぷーる、と覚えたばかりの単語であるかのように発音すると、そうだぜ、と愉快そうな返事が来る。

「一回も入れないまま終わりじゃ、あまりに報われないっしょ」

 え、それはつまり。問い質す前に、隣人は何の躊躇いもなく飛び込んだ。高い飛沫に目を瞬かせる。やがて、海月のようにふわりとセーラー服が浮上してくる。その隙間から肌色が窺えて、何となく視線を逸らした。    

 いやいや、と狼狽する。同性の、しかも体育なんかで幾度も着替えを見てきた相手に何をそんな。不自然な挙動を訝しんだのか、髪の毛まで濡らして歓声を上げていた紀野が、「入らないのか」と小首を傾げる。咄嗟に「汚いでしょ」と反論すると、今度は口を猫のようにして笑いかけてきた。水泳部が練習のために、水を入れ替えたらしい。言われて初めて、少し羽虫が浮かんでいることを除けば清い水であることを知る。そこまで余裕が無かったのかと、益々暑くなる。

 そうと言えど、流石に制服を水浸しにする勇気は無い。

 寧ろ本来なら紀野を説得して引き上げるべきなのだろうが、彼女が身を挺して、かどうかは微妙だが取り付けてくれた納涼の機会を逃すのも惜しい。
葛藤は、紀野の手招きを前にあっさり砕けた。足だけを浸し、容器の底に残ったままだったアイスを吸い出す。やれやれ、これでは友人というより、悪友だ。熱を失いゆく足と、指からの体温でぬるくなったアイスの温度差は不思議な感じだ。と、

「うわっ」

 びちゃり、という音と共にスカートの裾が重みを増す。弾みで容器を落としてしまった。丁度空になった時で良かった。悪戯の主を見やると、例の笑顔を浮かべながら第二波を用意している。その小憎らしさに、とうとう吹っ切れた。こちらも顔に水をぶつけてやったのを皮切りに、何とも幼稚な水かけ遊びが始まる。大人になりきってもいない内から童心に返った感覚は、騒ぎ声を聞きつけた用務員の一喝が入るまで続いた。慌てるあまり足を縺れさせる紀野に手を貸してやり、フェンスの隙間から撤収するまでの間、笑いが途切れることはなかった。箸が転がっても笑うお年頃、を自らの身で体感した。

 しかし、冷めてみれば笑い事ではない。寧ろ笑えない。今日のことで、本心を自覚せざるを得ないと気付いた。折角できた悪友と、それ以上になりたいという本心を。相手はあくまで純粋に自分を一友人と見ていることと、世間の持つ「常識」から来る罪悪感が、悪霊のように肩に伸し掛かる。悪霊は、この国では、いや世界では多数の価値観に沿わぬ者を色の付いた目で見るぞ、そう囁いてくるようだった。自分こそが色眼鏡で物を見ていることに他ならないのだろうが、一度固められた思考はそう変えられそうにない。彼女との関係に罅が入ることを考えただけで、肌が粟立った。それを見て、更に恐ろしくなる。もう引き返すことも出来ないようだ。

 生来、嘘を吐き続けるのには堪えられない性分である。だから、この関係自体を終わらせることにした。夏休みが明けた頃、受験勉強の本格化を理由に勉強会を断った。

「一人でやりたいの」

 自分でも驚くほど冷たい響きだった。紀野も丸い目を更に見開き、そして伏せる。瞳にかかる睫毛は、寂寥を覆い隠しているように見えた。都合のいい解釈かもしれない、いやきっとそうだろう。

「そっか、そうだよな。今まで有難うな」

 こんな時にも気丈な声が、寧ろ胸に刺さった。

 また一人になった。これを機に新たな関係を作ろうかとも思ったが、彼女の代わりにする気がして止めた。反対に、紀野の傍にはいつも誰かいた。頭の固い高校における異端児は、周囲に刺激を与えるのだろう。自身が何より体感した。加えて、明朗かつ寛容な態度は人を惹きつける。それも、自分が誰より実感した。あぁ、何て未練がましい。人目を避けるようにして零した自嘲は、惨めったらしく震えていた。


 受験に翻弄され、季節は次々過ぎ、あっという間に高校最後の日を迎えた。加山は第一志望だった県内の国立大学に受かり、紀野も去年であれば無謀と一蹴されただろう、都内の私立大学に受かった。式を終えてからが本番、というように三学年の廊下はごった返していた。ある者は友人と肩を組んで写真を撮り、ある者は恩師に謝辞を述べ、またある者は後輩に釦をねだられて笑っている。自分も担任に挨拶しようかと、談笑の波を掻き分ける。その腕を、かしりと掴まれ、僅かにつんのめる。直感し、振り返りたくないと目を瞑る。しかし身体は言うことを聞いてくれなかった。振り返った先に、鼓動が跳ねる。だって、今まで見たことのない真剣な面持ちが、そこにあったから。

「やりたいことがあるんだ。来てくれる?」

 表情とは裏腹に優しさをはらんだ声も初めてで、耳に浮き立つような違和を残す。赤べこのように首を振るばかりの自分は、さぞ間抜けていただろう。

 四階をも通り過ぎたところで、加山は首を傾げた。校舎に五階は無い、つまりこの先は屋上だ。多くの高校がそうであるように、ここでも正当な理由の無い生徒の立ち入りは禁止されている。紀野もそれを知らない訳ではあるまい。他はといえば——そこまで考えたところで、屋上に続くスペースに辿り着いた。そう、他はと言えば、この乱雑に積まれた予備の机たちくらいだ。

「一年の時、屋上の鍵が盗まれたって騒ぎあったろ」

 言われて初めて思い出す。生真面目で、言われずとも常識的なルールを守る生徒が多いここでは、まあまあ異例の事態だった。ましてや屋上、私物化かそれ以外か、どちらにせよ良い想像はし難い。とは言え生活指導の先生が目も肩も怒らせ、執拗に犯人捜しをしていたのには辟易したものだ。あれだけ言われれば根負けしそうなものだが、犯人は沈黙を貫いた。その内職員たちは諦め、スペアキーを使うことで手打ちとなったのだが。

「あれやったの、同じ中学の先輩たちでさ。卒業んときこっそり教えてくれたんだよ」

 あっさり白状しながら、屋上に続くドアのすぐ横にある机を掴む。よっこいしょ、という古風な掛け声と共に降ろされる。見通しの良くなった壁には、指三本が入るかという程の小さな穴があった。まさか、と紀野を見やると、彼女は悪戯っぽく笑って手を入れる。引き抜かれた指先には、少し赤茶けた鍵がぶら下がっていた。

 ドアを開けると、少し肌寒い風が出迎えてくる。このぽかりとした空間に来たのは初めてで、何となく落ち着かない。軽やかに先を行く紀野は、きっと何度も来ていたのだろう。もしかしたらあの友人たちとも——。

 湧きかけた奇麗でない感情は、紀野の呼びかけで蓋をされた。彼女は白い柵に寄り掛かり、こっちに手招きしている。危ないよ、と返しつつ駆け寄ると、今度は下を指差してきた。初めて俯瞰で見る校舎前には、まだ多くの生徒が残っている。鼠色の地面は、学ランの黒とセーラー服の白に埋められてあまり見えない。改めて見ても、個性の無いことが個性というような制服だ。それでも最後と思うと寂しいものなのだな、茫洋と思う。

「すごいなー、蟻んこみたい」

 無言を貫く自分とは反対に、素直に感嘆する紀野が、言葉を続ける。

「最初はさ、先輩の真似して後輩に言おうかと思った。伝統みたいで面白くなるかなぁって。でも独り占めしたかったし、何よりあんま仲いい子できなかったから止めた。それなりの仲じゃなきゃ話せないだろ、こんなの」

 身長の割には長い指が軽快に鍵を回すのを見つめ、小さく頷く。自分だったら話すどころか、職員室に直行するだろう。

「だから決めたんだ、たった一人にだけ話そうって。口が堅くて、ノリが良くって、何より一番付き合いが多かった人」

 前を向いていた顔が、こちらを捉える。目を細める笑い方はいつも通りだったが、何処となく大人びた柔らかさを感じた。

「そう、君みたいな」

 きっと、不自然なほど赤くなっていただろう。また何かの機会に来ようよ、と言うだけだった彼女の鈍感さに、この時ばかりは救われた。


 それからの二人は、再び淡白な関係に返った。連絡は度々取り合っていたが、お互い課題やアルバイトに追われて間隔が広がっていき、夏頃には何となく途絶えてしまった。だが、加山はそれでいいと思っている。負担が少なそう、という理由ではあれ写真部に入ったし、講義を共に受ける友人も出来た。それらに集中すれば、あの感情は風化するだろう。それを寂しく思う自分には首を振り、口の中で勘違いだと呟く。

 そう、それでいいんだ。夏も盛りとなった今日にも、加山はカメラを調節しつつ独りごちる。場所は南伊豆の海、県外の風景を切り取るという名目の観光旅行……否、合宿だ。一応活動もきちんとする。各自一枚風景を撮り、後のコンクールに送るのだ。自分は日が傾き人も減るだろう浜辺を狙うこととする。夕と海、凡庸だろうが何より感情を籠められるものだ。

 今から構図を考えておこう、そうファインダーを向けると、ふと一人の海水浴客に目が行った。黒のレースで縁取られたダークブルーの水着は、加山にある一枚の画像を想起させた。青地に黒のレースがあしらわれたドレスが、人によっては白地に金レースにみえるというものだ。写真で切り取ったことで光量が分かりづらくなり、脳が誤って補正を掛けることがあるために起こるらしい。写真を嗜む者として、気を付けようと思ったものだ。
あの水着もカメラ越しではああなるのだろうか。だとしたら撮りづらいとぼんやり考えたが、視線が向いたのはそれ以上の理由がある。何となく懐かしい感覚がしたのだ。悪いと思いながらもズームしていくと、ファインダー越しに視線がかち合った。驚いてカメラを取り落としそうになり、咄嗟に身を屈めてしっかりと掴む。安堵しつつ姿勢を戻すと、件の女性はこちらに向かってきていた。不明瞭だった顔がはっきりとした瞬間、彼女もそうだったのだろうか、ぱっと表情が華やぐ。

 黒目がちな双眸を細め、上がった口角から僅かに歯列を覗かせる、何処かあどけない笑顔。改めてこれに弱いのだと、思い知らされる。

「よお、そちらも合宿かい」

 少しハスキーな声に似合った強気な口調も変わっていない。胸に何かがせり上げ、つかえるような感覚は、プール掃除の時と全く同じだ。

「私らあそこのホテルに泊まってんだけど、そっちも同じ?」

 苦しいくらい波打つ鼓動を抑え込みたくて大袈裟に頷く。歓声が上がるが、こちらはそれどころじゃない。出会いに続いて再会までこんな劇的なんて、神様はある意味残酷だ。こんなの、期待を捨てる方が無理だろう。

「じゃあさ、またいけないことしようぜ。今夜十二時、ここで待ってる」

 深夜の海って楽しそうじゃん? からからと笑う声に、ただがくがくと首を振った。

 悪友以上、続く文字はこれから考えるということで。

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