光る春、二人の現色/保須都・速水朋也

光る春、二人の現色
保須都・速水朋也


【起】保須都

 西日が差し込む廊下を歩く。窓の外、校庭で練習をする野球部の声がここまで届く。暦の上ではもう春だけど、大昔に決められたカレンダーはもうあてにならないみたいだった。日の当たらない足元はとても冷たかった。

 いつもなら家に帰る時間だけど、今日は特別。明日のための準備がある。大切な式典のために、手を貸してほしいと生徒会から呼び出しを受けた。随分前に引退した身としては、久しぶりにメンバーと再会できることがちょっと嬉しかった。

 教室を出てから五分をかけ、ようやく集合場所に着いた。長い廊下の終点にある、大きな扉。その高さは俺の身長なんかよりずっと高く、全身の力を込めて引っ張らなければ開かないようなやつ。それは明日、高校生活最後の舞台となる場所。そこへの扉だ。

 日本全国には数えきれないほどの子供がいて、それを収容し得るだけの学校がある。それぞれの学校の施設に特徴はあっても、この場所は、体育館だけはどこも大体同じ形をしていると思う。たぶん。そして掃除をしていても埃っぽく、足を踏み入れた瞬間に空気の重さを感じるのも同様に。

 今日の体育館はいつもと少し違った。何十年もの間多くの生徒が走り回ってボロボロにした床には緑色のビニールシートが敷かれ、その上にずらっとパイプ椅子が並べてられていた。座面の青色が鮮やかで、いつもとはどこか違う場所にいるような気がした、が。

「ありゃ、間に合わなかったか」

 人海戦術で椅子を並べるから、と呼び出されたのに、既に終わっているではないか。卒業生とその保護者達五百人分、日が沈む前にやり遂げた後輩たち。彼らに後継を任せてよかった。しかし、せっかくここまで来たのに何もしないで帰るのはなんだか気分が悪い。まだやることが残っていないかと探していると、久しぶりに見る顔があった。


「ああ、間に合いませんでしたね、先輩。ちょうど今椅子を並べたとこです」

「随分仕事が早いじゃないか、感心感心」

「いえいえ、まだ他の作業も残っているので……飾り付けとか、照明のチェックとか、最後に上から見てオーケーならそれで終わりです」

「ギャラリーに登るのか?」

「はい。あそこからなら全体がよく見えますから」

 ギャラリーとは体育館の二階にある細い通路のことだ。ここではそう呼ぶ。体育館を使う部活なら、コートを仕切るネットを張ったり、ミスカットしたボールを取りに行ったりするおなじみの場所だ。卒業したら、もう行く機会も無くなるだろう。

「俺もついてっていいか?」

 最後なら、あの埃まみれの通路も愛おしく思えるか。


【承】速水朋也

「先輩、そこじゃないです。もうちょっと下に……そこですね」

 長谷川晴香の澄んだ声が体育館にゆらゆらと響く。俺は手にした紅白幕の布用両面テープを剥がし、指示通りに壁に固定した。鮮やかな赤と白が眩しく目に刺さる。振り返ると彼女はほかの役員に指示を出しているようで、横顔にかかった髪のすき間から時折真剣な表情が覗いている。この様子なら安心して卒業できる。ふいに、彼女の透きとおった目がこちらを向いた。どうやら話が一段落したらしい。

「残りは照明確認だけなんですけど、たいしてかからないと思います。待っててもらえますか?」

 そう言うと近くにあったパイプ椅子を指した。お言葉に甘えて座って待つことにする。真っ青な背もたれの冷たさがブレザーに滲んできた。まるでもうここにいてはいけないと諭されているような感覚。明日卒業することへの、やけにはっきりとした実感。ステージの明かりがついたり消えたりとを繰り返し、その度に舞台上の人間の顔に影がかかった。ふと、右端の蛍光灯が他の明かりとは違った明滅を続けていることに気づいた。切れかけているのだろうか。長谷川の姿を探すと、明滅の合間に彼女の顔が見え、驚いたことに、向こうが先にこちらを見つめていた。目が合った彼女はまるで撃たれた人のような顔をしている。俺が上の方を指で示すと、故障した照明に気づいたのか、教師のいる方へと駆けて行った。


 男子と女子との間に一定の線引きがされる高校生活において、生徒会の空気もその例外ではなかった。決して仲が悪いわけではなく、そこにあったのは一定以上距離を詰めると「友人」ではなくなってしまうような、周囲からそのときを期待されているかのような緊張感。ただその線を難なく越えられる人間も世の中にはいて、そのことを教えてくれたのが長谷川だった。妙に口笛が得意で時々雑学を披露することが好きな、人と話すときにまっすぐに目を見る後輩。趣味も性格も離れていたが、同じものを見て笑ったし、よく同じことに対して憤った。彼女の前では学年も性別も関係なく、友人になるにはそれだけで十分なのだと知った。誘われて流行りの映画を見に行ったこともあったし、気に入った本を貸したこともあった。


「先輩、終わりましたよ。電球が切れてたんですけど、先生がこのあと変えてくれるみたいです」

 友人であることに年齢も性別も関係ない。関係ないけれど、それが違うだけで友情を維持することは格段に難しくなる。面倒な噂も何度も立ったし、受験をしている間に会う機会もほとんどなくなってしまった。上に登ってもよいかと聞いたのは、正確にはあそこに行きたいのではなく、彼女に聞きたいことがあったからだった。


【転】保須都

 もう一年半も前のことだ。文化祭。暗幕を全部締め切って、ここに即席のライブハウスを作った。

 生徒会は何でも屋だという認識が一般生徒の中にはあるようで、会場の準備から誘導、ステージに向ける照明まで手伝うことになった。事前に渡されたセットリストを見ると分刻みでタイムテーブルが組まれていたから、舞台以外のところに割く人員を確保出来なくて俺達を頼ったのだろう。

 俺はギャラリーにあるスポットライトを担当した。光源の前にある三色のセロファンを入れ替えながら異なる色の光を当てるやつだ。どこの体育館にも大体ある。

 軽音部、ギター部、ダンス部……他にも多くの団体が出し物をする。

「一人で全部やるのは大変だし、退屈でしょうから」

 と言って長谷川はついてきた。当時はまだ親しい関係ではなかったから、どうして自分の仕事を増やすような真似をするのか分からなかった。


 初日の昼、出し物のない三十分間が休憩時間となった。他の係のやつらは模擬店に昼食を買いに出て行ったが、俺と長谷川はギャラリーで食べた。二人とも校門を出てすぐのコンビニで買った弁当を持っていて、笑い合った。誰かと顔を突き合わせて食っているとき、沈黙は一番つらい。何か話題はないかと辺りを見回す。

「このセロファン、なんでこの色なんだろうな」

 赤、緑、青、黄色の四色のセロファンがライトを覆うようになっていた。もっとマシな会話はなかったのか。これだけ有れば大丈夫だろうというメーカーの優しさなんだろうか。

 長谷川は答えに困ったようで、しばらく考え込んだ後、ペットボトルのお茶を一口飲んでから言った。

「分かりません」

 だよな。

「でも……ありますよね、光の三原色ってやつが」

 ん? なんの話?

「赤と緑と青……その組み合わせで光に色がつくってやつですよ。テレビとかには小さい光源が沢山付いていて、それが三色の光を出すことで画面に映像が映るんです」

「そうなのか、知らなかったな」

 ここにあるのは四色だけどな。

「今見てるこの景色も……光の集まり、ですよ」

「それは分かるよ」

「私、思うんです。ここに自分がいる意味ってなんだろうって」

「……何の話だ」

「目の前の世界は、光の反射によって得られた刺激で私の脳が創り上げたもので、聞こえる音も、押し寄せる波の振動に過ぎない。私じゃなくても見えるし聞こえるんです。だから、私は何のためにここにいるのか、生きてるのかって話です」

「そうか、よく分からんな」

「そうですか」

 軽く流した会話が自然と終わる頃、午後のステージが始まった。

 それから特に話すこともなく、文化祭はいつの間にか終わりに近づいていた。大トリを飾るのは軽音部のライブだった。食品を売り切ったクラスの生徒や脅かすのに飽きてきたお化け屋敷のお化け達が続々と体育館に入ってきて、気温が高くなるのを感じる。入口の周りだけが夕日で赤く照らされていて、後は闇の中、辛うじて輪郭が見える生徒たちが今か今かと待ちわびている。

「もうすぐ、終わりなんですね。」

 隣で長谷川が言った。

「何言ってんだ。お楽しみはこれからだよ」

 そうか、長谷川は知らないんだ。去年までは中学生だったから。前回の文化祭、最後の出し物を見ていないから。


 開始予定時刻を少し回って、一際騒がしくなる場内に、間の抜けた高音が響く。マイクがハウリングした。それを境に客が静かになる。俺はライトを舞台に向けた。その光の中には、MCがいた。彼が台本通りにバンドの紹介を終えてから、ライトを消す。体育館はまたも闇に包まれた。それから数秒、シンバルの短く控えめな音の後、演奏が始まった。


 流行曲のコピーバンドは高校生の心を揺さぶるのに十分すぎる力を持っていた。手拍子をする人、叫ぶ人、感極まって泣き出す人、それぞれが生み出す若いエネルギーがギャラリーにいてもひしひしと感じられる。昨年、俺はあの中にいた。しかし人が多すぎて、演奏しているバンドと周りの人達が見えなかったのが心残りだった。だから今年はこのギャラリーから見ることにした。ここには照明の係しか入れないと知り、たまたま生徒会に来た仕事を手伝うことにした。大正解だった。下で見るより、ずっと楽しい。
 来年は受験勉強で、見に来ることはできないと思っていた。だから、この思い出を、青春の一ページにできてよかった。


 楽しい時間はあっという間に終わった。客がはけて、舞台上の楽器が片づけられていく。暗幕を開けると、すっかり夜になっていた。なんだか、少し寂しいような気がする。こういうときは、誰かと話したくなる。

「楽しかったか、文化祭」

「ええ、最後のでかなりプラスになりました」

「そうか」

 会話が止まる。

 ここで終わりにはしたくない。今日という日に、もう少し、記憶に残ることを。

 そういえば、なんか言ってたっけ。

「生きる意味、見つかったのか」

「いいえ、まだ」

 だったら。

「いつか来る終わりの日に、思い出を沢山持って旅立つことができるようにする……そのための準備なんじゃないか」

 長谷川は笑った。そして。

「どうしたんですか、先輩。随分感傷的じゃないですか。……でも、そっか。そう思われるなら、そうなのかもしれませんね」

 手すりに足を掛け、身を乗り出しながら、続きを口にした。

「しばらくは、そうやって生きてみます」


 その日から、長谷川は俺とつるむようになった。思い出作りのために、色々なところへ行った。映画館に、ゲームセンターに、喫茶店に。しかし、俺が三年生に進級してから、段々とその機会が無くなった。俺は忙しかったし、長谷川も気を遣ってくれたのだろう。部活を早々に引退し、夏休みは学校にいても講習三昧、文化祭も自習室で過ごした。厳しい闘いの末にようやく志望校への切符を手にした時には、すぐそこまで迫っていた。卒業式。


 明日。高校生活の終わりの日。青春に、区切りをつける日。俺の青春は、去年の三月で終わったようなものだ。思い出はあっても、霞がかかっている。だから、聞いてみたかった。俺の青春はこれでよかったのだろうか。長谷川はあの文化祭の後、どこかの部に入部したと聞いた。この三年の間に、一つでも多くの思い出を作ろうと行動した。あの日とは逆に、聞いてみたい。

 これからどうやって、生きていくべきか。


【結】速水朋也

 人気のない体育館に響く口笛は卒業ソングでもなんでもなく、ただ彼女の好きな合唱曲だった。人が頻繁に出入りするわけではない通路は校内でも特に埃っぽく、眼下に広がる紅白の景色にそぐわない空気だった。会場のチェックは早々に終わり、空っぽになったギャラリーで、俺と長谷川は互いに何を話すでもなく、こうしてぼうっとしていた。愛と海のあるところ。隣でサビが終わろうとしているところだった。以前、どうしてこの曲なんだ、と聞いたとき、寂しいのに元気なところが好きです、と言っていた。なるほど、彼女にぴったりだと一人納得してしまったことを覚えている。

「先輩はここに登るのも最後ですね」

「たいした回数来てないけどな」

「ライブ、楽しかったです」

「そういえばお前、どうしてあのときはついてきたんだ」

 思い出したように長谷川が話し始めたので、なんとなく、今まで心に引っかかっていたことを聞いてみた。すると彼女はいたずらっぽく笑いながら、

「どうしてでしょうね、先輩なら友だちになってくれるような気がしたんです」

「なんだそれ」

「勘ですよ。当たってました」

「……なあ」

「はい」

「楽しかったか」

 長谷川はいつもそうするように俺の目をじっと見て、それから笑って言った。

「全部、楽しかったですよ、というか私はまだ終わりじゃないですから。先輩こそ、楽しかったですか」

「俺は」

 これでよかったんだろうか、と聞こうとして言葉に詰まる。彼女と過ごした放課後は間違いなく楽しかった、けれど。三月といえど、日の差さない体育館の空気は冷たく張りつめていて、突然生まれた沈黙はよく響いた。代わりに長谷川が口を開く。

「私、あのあと美術部に入ったんです」

 あのあと、というのはきっと、二人でここから見たライブのあとのことだろう。たしかに、生徒会の役員が兼部するにはちょうどよさそうな部活だった。

「絵を描き始めたんですけど、ほしい色がなかなか作れなくて。知識も浅いし、経験もないし」

 三原色のことを知っていればいいってわけじゃないんですね。長谷川はあの日のように手すりから身を乗り出して、つぶやくように話す。こちらを向く頭がふらふらと揺れて少し危なっかしい。

「でも、その色を作るのは私しかいないし、私の絵にその色を乗せるのは、きっと私にしかできないことなんです。そう思いませんか、先輩」

 その姿に、一年以上前の彼女の姿が重なった。目に映る景色も、耳に届く音も、大抵の人には見えるし、聞こえる。それでは、ここにいる意味とはなんなのか。目の前の友人を見つめ返す。一年生だったころ、まだ中学生のようなあどけなさが残っていたその顔は、今は霧が晴れたあとのような、落ち着いた表情をしていた。言外に、大丈夫だ、と言われているのがわかった。

「ありがとう」

「先輩が教えてくれたんですよ」

 ふいに、ああこうして話すのも最後なのだと思うと、ほとんど無意識に、彼女のほうへ右手を差し出していた。長谷川は驚いたようにその丸い目を見開いて、少しの間黙っていたが、やがて照れくさそうにその手を取った。思った通りに小さい手のひらは、ずっと金属製の手すりをつかんでいたせいか、ひんやりとしていた。この手を覚えておこうと思った。

「お前たち、そろそろ帰りなさい」

 見ると、体育館の入り口から、生徒会の顧問が呼んでいた。外はすっかり夜になっていて、外灯がぽつりぽつりと夜を照らしている。はい、今降ります。そう二人で返事したあと、そっと手を離す。階段を下りていく。高校生活が幕を閉じる。

「そういえば、どんな絵を描くんだ」

「ああ、卒業式のあとに見に来てくださいよ」

 実は先輩の絵を描いたんです。彼女は小声で楽しそうに言いながら、突然駆け足になった。おい、待て。体育館に俺の声と、あはは、と笑う長谷川の元気な声が響く。何事かと戸惑う顧問の脇をすり抜け、二人笑いながら学校を後にした。


あとがき(速水朋也)

 文芸部は毎年、秋の雄飛祭号にリレー小説を何本か掲載しています。四人一組で班を分け、起承転結、それぞれのパートを違った部員が書き、一本のお話を作ります。これは基本的に全員参加の年中行事のようなものですが、今回、春部誌ではそれを実験的に、小説の練習として二人で行いました。
条件

・各パート最低七〇〇字から

・テーマ「埃」「RGB」「元気」

 今回のテーマは部の先輩に考えていただきました。ありがとうございました。テーマというよりキーワードのような扱いになってしまったので、またもし機会があれば、もっとうまく書きたいと思います。また、わたしの思いつきに付き合ってくれた保須都さん(さん?)にも感謝します。一人ではきっと書かないような小説になりました。


(保須都)

 二人で小説を書き上げるという経験が今までになかったので、バトンの手渡し方が分からずになかなか筆が進みませんでした。(新入生歓迎号に載せるからと卒業を話に組み込んだ自分が悪い)こうして作品が完成したことでほっとしています。この経験を、これからの活動に活かせていければと思います。

 話は変わりますが、2020年度新入生の皆様に、この場を借りて一言。ご入学おめでとう。入学式が中止となり、この先の見通しも立たない中ではありますが、皆様とお会いできる日を楽しみにしています。

 最後に、私の遅筆のために重い負担をかけてしまった速水さんへ、ごめんなさい。でも、楽しかったです。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?