夜と松下くん/速水朋也

夜と松下くん
速水朋也


 松下くんの視線がぼくの目を包む柔らかな涙の膜をするりとくぐり抜けたそのとき、ぼくは不幸にも車に撥ねられて死んでしまった、真夜中みたいに黒くて美しい猫を学校の裏にこっそり埋めようとしていたところで、松下くんは土に薄く汚れたぼくのスカートも、猫の腹からこぼれた、秋のひんやりとした風にさらされている赤色も、そこに落ちて濁ったぼくの涙も全部見てしまったのだった。

「それ、なに?」

「猫だよ。ぼくの……」

 ぼくの猫。そう言いかけて口をつぐんだのは、たった今、人生で初めて自分の口から出ていった『ぼく』があっという間に赤茶色に酸化して、土の上に転がってしまったような気がしたからだ。それに、今から土を被せようとしていた猫は、厳密には誰のものでもなかったから、勝手に校舎裏を彼のお墓に決めたことに対してちょっとした罪悪感があった。

 ぼくは、まだ土に落ちた『ぼく』がそこにあるような気がして、それから松下くんに突然見つかってしまったことの気まずさから、うつむいて足元を眺めた。入学したときに買ってもらった紺色のスニーカーは、三年経った今、ほこりをかぶったように白っぽくなってしまっていた。
 
 
 夏休みが明けてから、ついに教室には硝煙の匂いが漂って消えなくなった。同級生は皆赤くて分厚い問題集を銃か何かのように抱えて、『受験戦争』というやつに次々と飲み込まれていった。かくいうぼくは、得意科目もなければ将来の夢すらなくて、最後に抱いた将来の展望といえば、六歳のころ、近所のスーパーに設置された笹だか竹だかよくわからない七夕の短冊に書いた『ケーキやさんになりたいです』だった。

 ぼくはなんというか、生きること、生活を送ることがとても下手な人間で、同級生たちが生き抜くために必死に弾丸を詰め込んでいる間、自分が戦場に送り込まれることを正しく想像できずにいたのだった。


「アンタは大学どうするの」

 台所に立つ母がそう聞いてきたとき、途方に暮れたぼくは、コップに牛乳を注ぎながら、どうすればいいの? と聞き返した。母はため息をつきながらこちらに振り向き、

「自分の人生なんだから自分で決めなさい」

 と言った。ぼくの両親はこのフレーズが好きだった。自分で決めなさい。あなたの人生なんだから。ことあるごとに彼らはぼくにそう言い、ぼくはそのたびに、自分の人生を自分で始めた覚えはないのにな、と思う。いつも思うけれど、口には出さない。ぼくは彼らがどうしてぼくを産んだのかを知らないし、聞かない。ぼくにはその理由を、というか人間が子をなす意味を上手く想像することができない。

 ぼくには両親を理解できない。小さいころから漠然と距離感のようなものを感じていた。おそらくこれは生来の気質のようなもので、今では仕方のないものだと思っている。けれど二人は、血のつながった娘が見ている断絶に全く気づいていない。あの人たちはぼくが『ぼく』であることを知らない。だからぼくはぼくの人生を、少なくともぼくが大人になるまでは、二人の間の子どもという与えられた役割にそって生きることに決めていた。

 志望校は中の下くらいの難易度の国公立を選んだ。すべり止めの学校も適度な偏差値の私立大学を受験することになった。学部や学科にそこまでのこだわりはなかったから、学校を選ぶのはあまり難しくはなかった。進路指導室に山と積まれた参考書の中から、志望校の名前が書かれた冊子を何冊か抜き出し、貸出カードに備え付けのシャープペンシルで名前を書いた。高校のロゴが入った、ひどく安っぽいペンだった。とにかく、これでぼくも立派な兵士だ、多分。何人もの生徒が使いまわした貸出専用の問題集は、ピンク色の蛍光ペンで線が引かれまくっていて、それがたくさんの傷跡に見えた。
 
 
 ぼくは冷たくなった猫にシャベルで土をかけていく。シャベルは畑の脇にずっと置いてある、博物館か歴史資料館に展示されていそうな風貌のそれを勝手に拾ってきた。もう秋だというのに額にうっすらと汗をかいているのは、土が案外重かったからじゃない。先ほどから松下くんがじっとこちらを見ているからだった。

 松下くんは同じクラスの男の子だ。背が高くて、顔のパーツがあっさりと整っていて、大人っぽい子だなあ、というのが、同じクラスになったときの第一印象だった。特に目立つ言動はないけれど友だちは多くて、彼の周りにはだいたいいつも二、三人の男の子がいた。でも女の子と話しているところはほとんど見たことがない。

「松下くんは帰らないの」

「帰ったってすることないから」

「勉強しようよ。受験生だよ、わたしたち」

 今まで教室でうまく発音できていたはずの『わたし』がたどたどしいものになる。返答がないので作業の手を止めて松下くんを見やると、彼は不思議そうな面持ちでぼくのほうを見ていた。

「……なに?」

「いや、ぼくとかわたしとか、忙しい人だと思って」

「さっきのは間違えたんだよ」

「なに、それ」

 松下くんは目を細めて笑った。やっぱり大人っぽいな、と思った。大人の人がする笑い方だった。

 ぼくは何をどう話していいのかわからなくて、そうやって松下くんを観察していると、彼は不意にしゃがみこんだ。うっかり土をかけてしまいそうになり、慌ててシャベルの先を下げる。彼の制服まで汚していないか心配になって覗き込むと、松下くんの顔にはさっきまでの笑顔の代わりに、疲れきったような、それでいてそれにとっくに慣れてしまったことのわかる、おだやかな影が浮かんでいた。

 そのときぼくはふと、ああ、きっと松下くんも兵士なのだなあ、と思った。

「小野さん」

「なに?」

「俺もそれやっていい?」

 そう言ってぼくの握っているシャベルを指した。ぼくはさっきまで半ば自暴自棄になりながら地面を掘っていたので、その穴は猫を埋めるにしてはかなり大きめで、土を被せる段階に入ったものの、普段体を動かさないぼくは疲れを覚えていた。ぼくは、今日初めて話したばかりの松下くんに、なぜだかわからないけれどこの埋葬を任せてもいいような気がして、黙ってシャベルを手渡した。よれたカーディガンの裾で、濡れて冷たくなった目元をぬぐう。松下くんはぼくが泣いていたことに今気づいたように驚き、地面におろした鞄からポケットティッシュを差し出した。ときどき校門の前でスーツを着た大人たちが配っている、成績保証!と妙な字体で印刷された、近くの予備校の広告が挟まっていた。

 松下くんはぼくよりもずっと手際よく土をすくい、穴に落としていく。秋の陽はどんどん傾いて行って、地面に暗い影を落とす。猫の身体が隠れていくのを見ながら、ぼくは、『ぼく』とぼくの猫のことを考える。
 

 ときどき、得体のしれない孤独感に突然しがみつかれるときがある。友だちと正門前で別れるとき。レンタルビデオ店でひとり、無数のパッケージを気の遠くなるような思いで眺めるとき。日曜の午後、まどろんでいる間にすっかり日が暮れて、真っ暗になった部屋で目を覚ますとき。それは突然やってきて、ぼくの首に手をかけ、ぼくはどこにも行けなくなる。

『ぼく』がいけないのだと思う。小学校を卒業したあたりから、同級生の女の子たちのほとんどが自分のことを名前で呼んだり、うち、と自称するのをやめて、『わたし』という一人称を採用し始めた。ぼくはそれがとても怖かった。女の人の一人称の選択肢がほとんどそれ一択であるように感じられ、ぼくを『わたし』と呼ぶことが、なにか大切なものを殺してしまうような気がしてならなかった。いっそ英語みたいに、自分を指すことばがひとつだけだったらいいのに。

 そして、ぼくは『ぼく』を選んだ。男の人になりたいわけじゃない。そのときのぼくは、『わたし』に居場所を見つけられなかったのだ。

 ぼくは『ぼく』だけど、学校生活でそれを表明するのはそんなに簡単なことではないのは知っていた。そこで、ぼくは仮の装いとしての『わたし』も繕うことにした。着心地はよくなかったけれど、皮膚としてまとってしまうよりずっとよいと思った。

 ぼくの中でぼくが『ぼく』になったことで、かえって大多数の女の子と同じ選択ができるようになった。髪を肩の少し下まで伸ばして、ヘアアイロンで毛先を軽く巻いて、色付きのリップクリームをこっそり塗って、スカートの丈も周りに合わせた。だけど、ぼくが『わたしたち』に溶け込もうとすればするほど、例の孤独感が殴りかかってくるようになった。当然だ。ぼくは彼女たちに属してはいないのだから。彼女たちには『わたし』を選ばない、という選択肢がそもそもなかったのだから。


 ぼくが黒猫の死体を発見したのは、六限後のホームルームが終わってすぐ、放課後に浮つく校舎を出発した直後だった。

 高校の正面玄関は大通りに面しているけれど、背後には畑が広がっていて、ぼくの帰り道は校舎とそれらの畑の間の、土っぽく乾いた道路だった。年中なんだかよくわからない野菜を育てている畑の近くで、入学当初から月に二、三度見かける猫がいた。真夜中の空のように深い黒の毛並みで、金色の目を持つその猫を、ぼくはこっそり心の中でヨルと呼んでいた。

 ヨルはいつ見ても一匹で、かといって孤独の影のようなものを感じさせず、野良猫だというのにその姿は美しくかがやいていた。彼は、ぼくが例の孤独にがんじがらめにされているのを横目に、軽やかに生きていた。ぼくは彼に敬意を抱き、その生き方を愛した。陽炎の揺れる夏の日も、霜が降りた冬も、ヨルはときどき通学路に現れては、こちらに見向きもせず畑の向こうに消えていった。

 正門から校舎を出て、裏の道に回り込む。ぼくの友だちは正面の大きな通りを使うので、ぼくはいつも一人で帰っている。こちらの道を使う生徒はかなり少なくて、ぼくが道の向こうに黒くて、ところどころ赤くなっているものが落ちていることに気づいたときも、周りには誰もいなかった。ヨルが車に轢かれて死んでいた。

 生き物を最後に埋葬したのは、確か小学生のころ、クラスで飼っていたメダカが死んだときだった。理科の授業か何かで卵からかえり、教室のすみっこに置かれた水槽の中でどんどん増えていった。ぼくたちは交代で餌をあげて、見わけもつかないくせに名前を付けてかわいがっていた。条件がよかったのか、小学生が管理していたにも関わらず、メダカは爆発的に繁殖した。ぼくは視界の端でうじゃうじゃ泳ぐそいつらが少し怖かったけれど、それでも餌をやると寄ってくる姿はかわいげがあった。

 けれどある日、誰かが水を換えるとき、水道水をそのまま水槽に入れたせいで、塩素に殺菌されたメダカたちは簡単に死んだ。ぼくたちは花壇に真っ白になったメダカを埋めて、道徳の時間に手紙を書いた。それきり誰もメダカの話をしなかったし、空っぽになった水槽は、終業式の日までそのままだった。

 メダカを埋めるのは簡単だったけれど、猫はそうもいかなかった。学校の裏には人目につかない空き地があって、ちょっとした林のようになっている。ぼくはそこにヨルを運び、地面にシャベルを突き立てた。猫は中身がこぼれて、一対の金色は光を失っていたけれど、それでもぼくの目には変わらず美しく見えた。そうして土を掘り起こしているうちに、目の奥が熱くなって視界がぼやけてきた。悔しくて地面を掘り続けた。そうしてようやくヨルに土を被せようとしたとき、松下くんが現れたのだった。


「終わったよ」

 気がつくと、猫のいたところはすっかりわからなくなっていて、松下くんはシャベルを軽く振って土を落としていた。西日が木々の間を縫って、松下くんを赤く照らしていた。ヨルの傍らに立つ彼を見て、ぼくは突然、松下くんに、ぼくの猫を埋葬してくれた男の子に、『ぼく』を見てほしいと思った。それは今までに感じたことのない、やわらかな衝動だった。ぼくは松下くんの目を見つめる。傾いた陽の光で、まつ毛がゆらゆらと光っているように見えた。

「本当は『ぼく』なんだ」

 松下くんはそっと微笑んで、「うん」と言った。

「俺も小野さんに見せてあげる」

 内緒だよ、と言って松下くんは口を開けた。薄い唇の間から舌がのぞく。その中央には銀色の小さな球が乗っているように見えた。松下くんの舌にはピアスが開いていた。

「え、それ本物?」

「うん」

「誰にも見せてないの?」

「そうだよ。というか、誰も気づかなかったんだよね」

 先生に見つかると面倒だからいいけど。そう話す松下くんの口内は確かにはっきりとは見えず、そこに金属のかがやきがあることを思うと不思議な気持ちになった。ぼくの心のなかで、それはあの黒猫の瞳のかがやきに重なった。


 ぼくは松下くんからシャベルを受け取って、もう帰ろう、と言った。ふたりで空き地を出る。すっかり暗くなった、もうヨルのいない帰り道に立つ。猫の死んだ日にふさわしい、ひんやりと冷たく、静かな夜だった。松下くんが今までぼくたちがいた方向へ振り向く。

「猫の墓、目印とかいらないの」

「うん。いいの」

 結局、松下くんとは途中まで道が一緒だった。ぼくは松下くんに、彼が猫を埋めている間に考えていたことを話した。どうしても『わたし』に馴染めないこと。黒猫を愛していたこと。ぼくはぼくの孤独を誰かにわかってほしかった。ぼくのことを見つけた松下くんに、ぼくの猫のことを知っていてほしかった。それがヨルの墓標になればいいと思った。


 それからすぐに冬がやってきて、この地域にはめずらしく、雪が積もった。朝、あの空き地の前を通ると、誰の足跡もついていない白が、静かに大地を覆っていた。もうヨルがどこに埋まっているか、すっかりわからなくなった。

 教室の硝煙の匂いは日に日に濃くなって、ぼくも松下くんもそのなかで相変わらず兵士で、ぼくは教室で『わたし』のままだ。家族のことがいまだによくわからないし、結局、このまま何者にもなれないような気がしている。
松下くんとはときどき目が合うけれど、ぼくたちはあれきり会話をしない。けれど松下くんは『ぼく』を知っている。ぼくには松下くんの銀色のきらめきがわかる。

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