セムヌール湖怪談/万年パーカー

セムヌール湖怪談
万年パーカー


 私は数ヶ月ほど前から行方の知れなくなった友人を探して街を訪れた。そんな僕に話しかけてきた者がいる。

「彼は姿を消したのではない。死んだのだよ」

 そう言ったのは、ローブを羽織った、青白い肌の腹の膨れた男だった。男はふやけたように皺まみれの手で、縫い目だらけの革手帳を取り出すと、それを私に差し出してきた。

「これは?」

 私が問うと、その男は不気味な笑みを浮かべながら、

「君の友人、ハリスのものだ」

 と答えた。妙に耳に残る、まるで不協和音のような声だ。今日は新月の、深い闇の夜だった。


 手帳を開くと、一度潰されたような跡があるメモが落ちた。そこには、確かにハリスの文字が記されていた。


 これが誰かに読まれている頃には、私はすでに死んでいることだろう。だが安心してほしい。私は次の犠牲を産み出しはしない。私は死の決心を固めた。元々身内がいない私であるから、そう難しい決心ではなかったが。

 私はこれを新たな被害者が生まれる前に、書き記そうと思う。そして、これを読んでいるあなたには、どうか誤解しないでほしいのだ。決して私が、クスリによって精神の均衡が乱れていただとか、書物の読み過ぎで現実との区別がつかなくなっているだとか、そんなことではないということを。

 だからどうか聞いてほしい、私がいかなる過ちを犯し、それが何を招いたのかを。


 私は一息ついた後、メモをポケットにしまい、手帳をめくった。一度水に落としたのだろうか、紙は不自然に歪んでいた。


 セムヌール湖には珍しい魚が多く生息している。海藻が生い茂り、灰汁のような見た目の水であるが、栄養が豊富なのか、沢山の魚が見ることができる。

 その日の私は、旅先の友人に誘われてセムヌール湖へと釣りに向かった。その場所での釣りは国によって禁じられているらしいが、見張りもおらず、鉄柵のようなものは一切なかった。空はよく澄んでいて、絶好の釣り日和だった。

 友人の話によると、ここの魚は警戒心が薄く、初心者である私にも容易く釣ることができるとのことだった。その言葉は本当で、半日でざっと三十ほどの魚を釣り上げることができた。決して同じ魚が釣れることはなく、どれもが異なる種類の見たことのない魚であった。

 はじめは、禁止区域の釣りということもあり、私も後ろめたさを感じていたが、予想以上の釣果に途中からはそれも薄れていった。

 夕方、冬ということもあり、周辺も闇に覆われ始めた頃だ。私と友人はうっかりと長居してしまい、慌てて片付けを行っていた。友人が椅子を回収しようと革のそばまで近づいた、その時だった。

 先ほどまで釣り糸を垂らしていた湖の水が、闇に変わっていたのだ。闇というのは暗いものではない。それは乾留液のような液体で、泡立ち、意思を持った存在だ。

 私が叫んだ頃には、友人は闇に飲み込まれてしまった。いや、きっと声すら出ていなかったかもしれない。驚きすら、恐怖が支配していたのだ。

 闇は速くも遅くもない、まるで人間が歩いてくるかのような速度で私に這い寄ってきた。周囲の木々が風に揺れる音が、まるで化け物の笑い声であるかのように聞こえ、それが耳の中を木霊して、私の頭の中をかき回した。

 私はなんとか意識を保ち、その場を必死に駆けた。逃げている最中、後ろからは常に身の毛もよだつ気配が私に付きまとい、私を逃がさんとしているかのようだった。

 なんとか森を抜けて通りに出ると、気配は霧散していった。友人のことが気がかりであったが、私には湖へと戻る気力も勇気もなかった。


 その日の夜、夢を見た。思えば私が眠れなくなったのはこの日をきってのことだ。

 夢の中の私は水の中にいた、その水は灰色に濁っていた。私がその水をセムヌール湖のものと理解するのは難しくはなかった。

 水の中だというのに私の身体を這う汗を感じることができる。顔のない魚たちが私のそばを通り過ぎていく。暗闇にも似た水の中で、自分の場所を把握しようと目を凝らした。靄がかった視界の先にようやく見えたのは、緑に輝く、何者かの鱗だった。

 私はその瞬間に目を覚まし、二度と眠らないことを心に決めた。もし、もう一度眠ったのならば、次こそ水底へと引き込まれてしまうような気がしたからだ。


 目を覚ますと朝日が射していた。驚くべきことに、私が眠っていたはずのベッドは水に濡れ、部屋は生臭い魚の腐乱臭にまみれていた。

 慌てて部屋を飛び出した私は、昨日眠った服のまま、友人の家へと向かった。もしかしたら全ては私の幻覚で、私の愚かな妄想の可能性があったからだ。

 私が友人の家の扉を三度ほどノックすると、何かが倒れるような音がした後、昨日闇に飲まれたはずの男が顔を出した。

 私はすぐに昨日起きた出来事について問いただした。友人は玄関先で話すのもなんだからと、私を部屋の中へと招いた。

 友人の家の廊下は妙に冷たく、湿っているようだった。壁に掛けられた時計の秒針が規則的なリズムで時間を刻んでいる。静かな室内にその音が響いて、時の流れが無限になったかのように感じられた。

 私は友人に、昨日何をしていたのかを聞くつもりであったが、それは友人の声によって遮られた。

 友人の話によると、私はどうやら昨日、突然走り去ったようなのだ。釣りの片付けの最中、何かから逃げるように。

 そして友人は言うのだ。お前は幻覚を見たのだ、と。

 私は友人の口から私の正気を疑ってもらえたことに一抹の安心感を覚え、同時に昨日釣りに行った事実が確かなものであることに不安を感じた。

 私は友人に礼を言うと、すぐにその場を発った。秒針の音と部屋の寒さに耐えきれなくなったのだ。


 その後私は町内のダンキ大学へと向かった。大学に向かえば、セムヌール湖について知っている人間がいてもおかしくないと考えたからだ。そんな人間に都合良く会えるあてもなかったが、運の良かった私はこの街近辺の伝承に詳しい教授に出会うことができた。

 教授の名前はミストウィッチ。話していくと、かれはどうやら友人の知古らしかった。

 最初は私を疑っていた彼であったが、私がセムヌール湖の名前を出した途端に、彼は必死の形相で食いついてきた。

 私の体験について一通りの質問をされ、彼はメモを取った。そして彼はセムヌール湖の秘密について、語り始めた。


 人魚伝説。それは世界各地に存在している。そして、セムヌール湖にもその伝説が存在していた。といっても、ここでの人魚は特殊で、世間で描かれている半人半魚の女性ではなく、顔が人間の魚が捕れる、といったものであった。

 この街ができた頃からセムヌール湖は在り、伝説は知られていた。そして事実、あの湖からは人面の魚が揚げられたのだ。多くの人々はそれを気味悪がったが、一人の男が度胸試しと言って、その魚を食したのだ。

 そして悲劇は起こった。

 男は魚を食した数日後、精神を病み、失踪してしまったのだ。彼は自室の壁に、ナイフで絵を描いていた。描かれていたものは不気味な生物で、まるで宇宙からやってきたかのような外観であった。

 巨大な体躯に身体を覆い尽くす鱗、真珠のような目玉に異様に長い手足。多くの人外的特徴を持ちながら、何よりも奇妙なのが、そのシルエットはまるで人間のようであることであった。

 そしてその周りには、その者の眷属なのだろうか。ひどく肥大した身体に、飛び出した目、にもかかわらず人のようにボロをまとった姿の生き物が囲っている。巨大な生物を囲う様は狂信者のように感じられた。

 一部の画家は超常なるものと交信してしまうことがあるという。おそらく彼は精神を病んだことで、脳が何か良くないものと繋がってしまったのだろう。

 この噂はすぐに広まった。街の人々はセムヌール湖周辺への立ち入りを禁止し、そこに近づくものはいなくなった。

 この話は街の住民なら誰もが知っていて、子供の頃から教わる、怪談のようなものであるらしい。

 一通り話し終えると、彼はさらに、とつけ加えた。

 彼の調査対象はまさにセムヌール湖の人面魚であり、人面魚喰らいの男が描いた化け物についてだそうなのだ。

 曰く、化け物は実在している。化け物の名前は「シャラ」若しくはその「娘」。シュメール人が信仰した古き女神だという。セムヌール湖が、あのような水質でありながら、多くの魚が生息しているのは彼女の権能だ。

 あまりに狂気的な内容を、彼は正気の装いのまま語った。そして私は恐怖した。その非現実的な内容が、今この身に降りかかっている事実であると理解したからだ。私は予感めいた恐怖をその身に感じながら、教授に礼を言って立ち去った。


 私は部屋へと帰る道中、夢の中の化け物、シャラについて考えていた。教授の話によると、人面魚喰らいは、超常なるものと交信していたとのことだ。ならば、私はすでにシャラと繋がってしまっているのではないだろうか。頭の中に緑の鱗がちらついている。

 一体、その男はどうなってしまったのか、私は男がたどっただろう結末を想像し、恐怖に震えた。


 再び夜が訪れた。決して眠ってはならないと自分に言い聞かせていたが、すでに私は捕らえられていたのだろう、耐え難い眠気に襲われ、私は夢の世界へと落ちていった。

 夢の中では、昨日見たものよりも鮮明にシャラの姿があった。巨大な双腕が私を優しく抱擁していた。思いの外柔らかい鱗が肌をなで、その度に私は身の毛もよだつ思いをした。そしてシャラは信号を送った。私の頭に語りかけてきたのだ。

 そしてわかったことがある。彼女が求めているもの、それは生け贄だ。彼女は生け贄を欲している。それは神、神とされた生き物の本能なのだろう。

 そして次の贄とは私だ。彼女は贄を喰らい、そしてその亡骸を疑似餌とし、次の贄を呼び寄せるのだ。

 私は死ぬ必要がある。彼女の元に連れて行かれる前に。

 私は今日、再びミストウィッチ教授に会いに行こうと思う。彼にこの手帳を託し、シャラに関する資料とするためだ。

 もし、あなたがシャラと接触してしまったのならば、手遅れになる前にあなたは命を絶つ必要がある。狂気の連鎖は止めなくてはならない。

 どうかあなたがセムヌール湖に近づいていないことを祈る。


 私は手帳を閉じて、目の前の男を見る。

「では、あなたがミストウィッチ教授なのですか?」

 街灯の明かりが、今にも消えそうな様で瞬いている。

「そうだ。私は君の友人からその手帳を預かったのだ」

「なら、本当にハリスは……」

「彼は死んだとも」

 男はそう言ってローブをめくる。

 さらされた男の素顔には、緑の鱗が妖しく輝いていた。




あとがき

 超短編ホラーを書きたかったのですが、少ない文字数だと出せる情報量に制限があって難しいですね。

 さて、作品に登場させた化け物の「シャラ」ですが、本来はこんな悪魔じみた性質でもないし、気色の悪い見た目であるという記述もありません。ではなぜ、こんな設定にしたかと言いますと、私の大好きなホラーであるクトゥルフ神話というものがあるのですが、その中でも特に好きな「ダゴン」という作品がありまして、自分もダゴンのような怪物を書きたいと思ったのが始まりになります。シャラは、ダゴンと同名のメソポタミアの神の妻とされています。

 私はその妻であるシャラにクトゥルフ的な設定を付け加えて、似たような化け物に仕立て上げました。

 ちなみに、本来の彼女は穀物と思いやりを司るとされていて、作品のものとは対極のような存在になっています(魚を増やすという面では似通っているともいえる)。

 設定や資料だけ沢山集めて、作品に活かしきれないのは直さなくてはいけないな、と思います。

 次は是非魔女に関するホラーをそれなりのページ数を使ってかけたら良いななんて考えております。

 皆さんも、お暇があれば是非、クトゥルフ神話の世界に触れてみてください。きっと、その独特の世界観に引き込まれると思います。

 では。

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