凪ぐ/天空橋小夜子

凪ぐ
天空橋小夜子


「つまりね、大人になるためには何か大きなものを背負うことが必要だっていいたいんだよ、この作者はね。主人公が自分の力不足が原因で友人を失ったことがそれにあたるんだ」

 二人だけの部室に千秋さんの慌てた声が響く。

 ぼくは液晶に表示されたカウントダウンに目をやる。残り十秒。あれもこれもと、まだまだ話したいことが余りある様子の彼女に苦笑した。

 千秋さんは片手にかざした本を表情豊かに紹介した。登場人物が敵役に立ち向かう場面では、そのキャラになりきっているのか、いまにも飛びかかってきそうな形相をする。感動的なシーンを説明するときは(どちらかといえば説明よりも実況に近い)、実際に目に涙を浮かべることさえある。それほどまでに彼女は物語に没頭していた。

 時間切れの電子音が鳴る。千秋さんは本をそっと置き、ふぅと短いため息をつく。そして机に突っ伏した。長く、ふわふわした髪が机に触れた。

「またダメ」と彼女。眉を寄せて上目遣いにぼくを見る。

「またですね」とぼく。

 彼女のビブリオバトルにむけた練習に付き合って一時間になる。時間を計った実戦的なリハーサルは四回行われたが、そのどれもが時間切れという結果に終わった。

 ぼくは本の内容まであまり踏み込みすぎずに、紹介は概説にとどめるべきだと提案したが、それはなかなか聞き入れてもらえなかった。彼女は物語のエピソードを紹介するのにご執心らしく、時間内に終わるだろう手ごろなエピソードを思いつくや否やぼくに実験台になることを強要した。

「千秋さんの紹介はどれも楽しいですよ。本当に面白そうだと思えます。でもやっぱりこれは競技ですからね、ルールに収まらないとお話になりません」

「むむむ」犬のように唸る千秋さん。

「一番良かったのは主人公が仕事を探すというエピソードです。良いというのは時間が余りかからないだろう、という点です。さっきは個人的なキャラへの愛情たっぷりに説明していたから時間がオーバーしたと思うので、今度は少し軽薄になって紹介してみません?」

「キャラの愛がない紹介とか。無理」少し早口に喋りすぎたからか、彼女はうつむいて呟いた。拗ねているようにも聞こえた。

「ないわけじゃないんですよ。ちょっとキャラクターから距離をとってみませんか。キャラの魅力はストーリーにある程度任せちゃって良いんです。面白そうなのはわかりますから。そうすれば終盤で慌てふためいて説明するハメにならずに済みますよ」

 正面でうんうん唸る彼女を眺めながら、それにしても静かになったな、とぼくは思う。

 ぼくたち以外にだれもいない部室を見回した。

 きちんと作者順に揃った本棚。ロッカーはちゃんと閉まっている。床の上に敷かれたマットの上にはもちろん誰もいない。

 本当に、静かになった。
 

 先月までは午後の講義が終わり次第部室に人が群がってきた。

 部室棟の五階、通路の端にぼくたちの部室がある。扉には、読書団体『凪』、と書かれたパネルが架かっている。周りの部屋は似たような文化系の部でいつも静かだったが、『凪』の前に来るといつでも扉の向こうには明かりがついていて、騒がしい連中の声が通路まで漏れ聞こえていた。

 中にはいろんな部員がいた。

 読書団体らしく四六時中読書に夢中の先輩から、たまに話題になった本を読む程度の子、本なんて一切興味のない奴まで、沢山。

 各々が部室の中で好き勝手に生活していた。

 テーブルの隅で宿題に追われる立花くん。ひたすら居酒屋バイトの愚痴を連ねる小板橋さん。どこで買ってきたのか、机の大部分を占領してプラモデルを組み立てる橋本先輩。窓際に置かれた汚い電気ケトルで水を沸かして、毎日違ったカップ麺にお湯を注ぐ武藤。そして武藤の麺を啜る音を不快に思って、露骨に嫌そうな顔をする栗林さん。

 また、彼らは趣味も様々だったし、それを隠さなかった。それは部屋の中を見れば明らかだった。

 なによりも料理が好きな栗林さんの自作レシピが所狭しと張られたロッカー。いつのまにか増えたり入れ替わったりしている引き出しの中のプラモデル。歴代の女児向けアニメへの、著者独特の観点から書き連ねられた評論。部員は著者のいないところでドグラマグラと呼称していた。

 布教が趣味の小畑さんは読み終わった女性向け漫画をスーパーの品出しみたいに忙しなく本棚に差し入れていた。甲斐にいたっては、自分の枕を持ち込んで床の上に敷かれたマットで朝昼夕を問わず寝ていた。彼は何よりも睡眠を愛していたと思う。

 部員の中で本を、読書を愛していたのは千秋さんだけだったかもしれない。もちろんぼく自身も含めて。

 みんないい奴ばかりだった。

 別に性格がいいとか、親切だったとかいうつもりはない。それぞれが社会生活を営む上で重大な欠点を抱えていたし、それを指摘して矯正しようと試みるものもいたが、そのどれもが失敗に終わった。ただ、相手の趣味を馬鹿にしたり、無価値だと切り捨てる奴は誰一人としていなかった。それだけで、ぼくにとってはいい奴に思えた。

 みんなが自分の趣味を楽しんでいたし、それを傍から見るのはぼくの楽しみでもあった。好きなものに対する愛を公言してはばからない、気持ちのいい連中がいつも部室にいた。だからぼくは講義が終わり次第、ときには講義をサボってまで部室に向かっていた。

 ぼくたちは同じ場所で生活する隣人であり、また友人だった。

 でも、仲間ではなかった。


 部長である千秋さんが『凪』の将来を憂えたのは当然だった。

 去年ぼくが入部したときから、もしかしたらそれ以前から『凪』には確固とした活動目標というものがなかった。もちろん読書という行為自体に何か目標を定めるのは野暮だと思うし、千秋さんもそれを認識していなかったはずがない。彼女は読書についてぼくよりも造詣が深いし、また漫画を読書に含めないという部の古い風習を改めるなどして、凝り固まった考えの持ち主ではないのは明白だ。それでも部室を占める弛緩した雰囲気に危機感を抱いたのは部長として真っ当だった。

 『凪』は月に一度、部室で読書会を開くことになっていた。これは新入生歓迎会で配られた部活サークル紹介の冊子に書かれていた通りだ。年度の初めのうちは皆真面目に参加していたが、時を経てお互いに慣れていくと、次第に参加者が減っていった。

 薬を処方してもらわなきゃいけないので。

 犬の毛並みが気になるので。

 宗教上の理由で。

 活動を休む口実まで様々だったのも彼ららしいといえばそうなのかもしれない。しかし実際の理由はみんな同じだったと思う。つまり、活動に興味がないから。

 彼らが『凪』に参加した理由は様々だ。居場所が欲しかった奴もいれば荷物置き場が欲しかった奴もいる。初めは口をそろえて読書に興味が、というものの、いざ活動が始まってみるとそれほど読書に興味を示さない奴が少なからずいた。

 だから千秋さんは彼らでも気軽に参加できるように様々な企画を考えた。しかしそのどれもが失敗に終わった。

 彼女は自分の努力が報われない苛立ちもあってか、活動には参加しないが部室にはいつまでも入り浸るという連中の存在を疎ましく思うようになっていった。

 皆が騒いでいる中、彼女が部室に入ると空気が変わった。一瞬にしてぴりぴりとした緊張感がそれまでの弛緩した雰囲気に取って代わる、そんな状態がしばらく続いた後、千秋さんはひとつの提案を出した。

 三ヶ月後にビブリオバトルの大会がある。それに参加しないものは退部して欲しい。

 ほとんど踏み絵みたいな二者択一だった。

 もちろん部員からは非難の声が上がった。

 活動に参加できないのがそれほど悪いことなのか。読書は共有するものではなく、各々で勝手にやればよいのでは。そもそも、これは読書好きの部長のわがままで、部活の私物化ではないのか。おれはただ落ち着いた場所でラーメンを食いたいだけなんだ。等々。

 その後、彼女と彼女の案に反対する部員で話し合いの場が設けられたらしい。ぼくはその場に居合わせたわけではなかったのでこれは伝聞だが、千秋さんは頑なに彼らの言い分を聞こうとしなかったという。ひたすらに自分の正当性と彼らの非に終始して、ときに彼らの読書歴の浅さを指摘することさえあったとか。

 彼女の提案、実際には命令への回答期限がきて、部員の多数が『凪』を抜けることがわかると、彼女はそれを淡々とした口調でそのとき部室にいた部員に伝えた。

 彼女は辞める人間の名前を挙げていった。ひとりずつ、ゆっくり読み上げるように。

 立花くん。千秋さんと同郷で、よく地元の特産品についての話で盛り上がっていた。

 小板橋さん。酒が好きで、こっそり部室で千秋さんと一杯やっていた。

 橋本先輩。千秋さんに高価なプラモデルのキットをプレゼントして困惑させたことがあった。多分、彼女のことが好きだった。

 小畑さん。彼女はヴィク×勇で、千秋さんは勇×ヴィクだった。

 武藤。千秋さんと読書の趣味が似ていたのは彼だけだった。

 栗林さん。千秋さんは彼女のカラフルな創作料理をいつでも食べてあげた。味に関わらず、おいしい、といっていた。

 甲斐。よく千秋さんに叩き起こされていた。

 いつのまにか千秋さんは泣いていた。

 ぼくたちは目標で繋がった仲間ではなく、部室という空間を共有するだけの隣人だった。

 千秋さんはきっと部員のみんなを仲間だと信じたかったのだと思う。


 ぼくは用事があるといって、千秋さんを残して部室棟をあとにした。

 外気に触れて寒さに驚いた。袖の隙間に、シャツの襟と肌の間に冷たい空気が入り込んでくる。ぼくは身を縮めてゆっくりと歩みを進めた。

 もう冬が近い。キャンパス内はだんだん閑散としてきた。五時になると辺りは薄暗くなり、ほとんどの学生は帰ってしまったのか、あるいはこの寒さで学校に来る気がしないのか、人影はまばらだった。秋のはじめには人で溢れていた中庭の芝生にも、いつでもカップルたちが占拠していたベンチにも人はいなかった。

 教室棟、図書館の明かりが目立つ。まだ街灯が点いていないため、薄暗い外からだと建物の中がやけに暖かそうに見えた。

 ぼくはあてもなくキャンパスをふらつく。

 用事があるというのは嘘だった。あんまり二人きりで静かな部室にいるとなんとなく寂しくなってしまうから外の空気を吸いに部室棟を出た。

 歩道をさまよい、中庭を縫う小道を進み、教室棟の背面にある教職員専用の駐車場を抜ける。通用門の傍の詰所では守衛が談笑していた。窓から漏れる光が通りかかったぼくを照らすと、中の守衛達が挨拶をくれた。

 遠く前方に自販機の明かりを見つけると、引き寄せられるようにそこへ向かった。ラインナップはまだ冷たいジュースが大半だった。もう少しすれば温かい飲み物が増えてくるだろう。ぼくはペットボトルの温かいミルクティーを買うと、傍に設置されたベンチに座った。プラスチックのベンチから冷たさを感じる。

 ひゅうっと通り過ぎていく風に身を強張らせ、ぎこちなくミルクティーを飲んだ。身体の中に暖かさが広がっていったが、すぐに外気の冷たさにかき消された。

 なんとはなしに辺りを見回した。

 正門のすぐ近くにそびえる部室棟の明かりが目につく。数十分前に出てきたばかりの建物がやけに懐かしく思えた。六階建て、ガラス張りの部室棟は内に火を灯したように熱気と光を放っている。

 どうしても千秋さんの元へ戻る気にはなれなかった。少し寒さに触れたら暖かさが恋しくなると考えて外に出たが、あの部屋に満ちた耐え難い寂しさを思うと、この刺すような寒さのほうがいっそ心地いいとさえ感じる。

 暖かい教室棟や図書館に入ることも、あるいは帰宅することもできたが、あの部屋に彼女と二人きりでいたために千秋さんへどこか申し訳なさを感じているのか、彼女を放って自分だけが寂しさから逃れるように暖かい場所へ避難するのはひどく軽薄であると思えた。

 あてもなくさまよい、こうして寒さにうち震えるのがいかにもぼくらしい。

 目標などとうに消え失せてしまった。


 去年の春、ぼくは『凪』のドアを叩いた。

 何故って、読書が好きだったから。少なくともその頃は。

 彼らは快く迎えてくれて、ぼくは本の趣味が合う人がいない割りに上手く溶け込むことができた。というのも、部活に入って時間が経てば誰でも気が付くことではあるが、彼らは本や読書に関する話題をあまり好まないからだ。読書会を除いたら、部室の中で趣味の本の話を交わすなんてことは滅多になかった。

 読書団体なのに、何故だろう。とはじめのうちは思うこともあった。

 入部した直後、四月までは読書を活動の中心とした部活然とした雰囲気はあったが、連休を過ぎた頃にはもう新入生歓迎ムードは薄れつつあり、二度目の読書会が行われる頃には意欲のあった同期はだんだんと部室から遠ざかりつつあった。

 そのときの流れに乗って、ぼくも『凪』から出て行っていたら、今こうして寒さに震えることもなかっただろう。
 

 どうしてぼくは今でも『凪』に残っているのだろうか。ふと考える。

 これまで考えるべきだったことだけど、今更になって不思議に思う。

 ぼくは読書体験の共有とか、読書の趣味の合う人を求めてやってきたはずだった。そしてその目標が達成しそうもないことはすぐにわかった。その代わり、ぼくは別の目的を見つけた。つまり、居心地のいい空間としての『凪』だ。

 だが、その空間も今になってはとても居心地がいいとは言いがたい、針のむしろのような場所になってしまった。その代わり、読書体験の共有という当初の目的が復活した。

 考えれば、今の状況は望んでいたものなのだ。

 メンバーのすべてが読書を第一に考え、そして共に技術を向上させていく仲間がいる。

 それでも、ぼくはいなくなってしまった彼らを忘れられるほど軽薄ではなかった。そして、はじめに願った事に対峙し続けるほど殊勝な人間でもないのだ。


 鐘が鳴り響いた。終わりを告げる鐘が、学内に響き渡る。

 ぼくはただ、それが鳴りやむのを待っている。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?