SLUICEをすべるすべ/牛

SLUICEをすべるすべ

【Ⅰ】涙橋(なみだばし)スルース

 夏の終り、十月。

 早朝、オレは巨大な橋の上を渡っていた。

 全長700メートルもあるこの大橋の名前は「涙橋(なみだばし)」という。この涙橋は、オレの中学校がある小さな埋立地と陸とを結ぶ、唯一の道だ。

 橋の上、車道の両脇に通った人間用の道を歩きながら、オレは考えごとをする。

 うちの学校にはびこる暴力や、いじめ問題、それに、オレがバレー部を辞めさせられた理由について、などなど。

 それらについて真剣に考えようとしてみるが、考えれば考えるほど、どうでも良くなってしまう。かつてオレの中に燃えたぎっていた正義の心のようなものは、今はもう無いらしい。

「くだらね……」

 うんざりしてため息をついたころには、オレはもう橋を渡りきっていた。

 橋の上の道はここで何本かに分かれ、埋立地のあちこちへと続いていく。

 そのうちの一つ、正面にまっすぐ伸びる道の延長線上に、オレの通う中学校、「塔銘学園中等部(とうめいがくえんちゅうとうぶ)」の校舎があった。橋のずいぶん近くにある学校だが、もともとこの埋立地は、塔銘学園の校舎を建てるために造られたような島だ。だから、アクセスが良いのも当たり前である。

 校門の前まで歩いたところで、腕時計を見る。

「まだ六時かよ」

 どうりで橋の上に朝靄が出てたわけだ。昨日よく眠れなかったせいで、早起きしすぎてしまったらしい。校門もまだ閉まっているし、どこかで暇を潰さなくちゃならない。

 でも、朝のHRが始まる九時まで三時間もあるしな……。この時間は店も閉まってるし、なんか絶望的な気分になってきたぞ。

 どこかに居場所がないかと、キョロキョロと周りを見てみると、一つだけ興味を引かれる場所があった。

 それは、校門の左側の道の奥に見える水門だった。

 あの「涙橋水門(なみだばしすいもん)」について、オレが知っていることは少ない。たしか、涙橋水門は学校のすぐ脇を通る「大鮫川(おおさめがわ)」の水量を調節している……みたいなことを聞いたことはあるが、いつも遠目で見るだけだった。

 これはこれでいい機会かもしれない。授業までの暇つぶしに、どんな汚い水が流れているか見物しに行ってやろう。

 オレは校門に背を向け、すぐ隣の水門へと向かう。

 校門の脇を流れる大鮫川に沿って歩くと、五十歩ほどで水門にたどり着けた。

 近づいてみると案外大きな水門で、高さは人の五倍はあろうかという巨大な鉄の門が、水路の上で口を開けている。水門の周りに人の気配は無く、目の前を流れる大鮫川の水路から、サラサラと控えめな水音がするだけだった。

 なんということはない、ただの川の景色だった。

 面白いことといえば、川の水が流れているところを間近に見れることぐらいしか……。

「ん?」

 そこで、あることに気が付いた。

 オレの足元のすぐ近くから、正面の水門の方に向かって、一本の黒いケーブルが伸びている。 

水路の脇のコンクリートにひっつけるみたいに、さり気なく敷かれていたから気付かなかったが、ずいぶん不自然なコードだ。

 何かの電気コードか?

 不審に思って、コードを追いかけながら歩いてみる。

 五メートルほど進むが、終わりは見えない。やはりコードは水門の向こうまで続いている。

 そのまま水門を通り過ぎ、裏側まで回り込むと、やっとコードの終着点があった。足元の黒いコードは、水門裏で大きく左に折れ曲がり、ついには大鮫川の水中へとダイブして見えなくなっていた。

 まさか、コードが水中にまで続いているとは思わなかった。

 もっとよく見ようと水面に顔を近づけてみる。間近で見てみると、先入観でなんとなく汚いと思っていた大鮫川の水は、天然水のように透明できれいだった。そしてほんの少しだけ、磯の香りがした。

 そうして、オレが目にしたもの。

 それは、川沿いで見た電気ケーブルよりも、もっと衝撃的なものだった。

「これは……魚!? それにポンプ!? なんで、なんでこんなとこに……?」

 それは、一言で言えば〝アクアリウム〟だった。

 水門の上流の、流れが緩やかになっているところに、金属の網で囲われた長方形の「水槽」があった。この水槽の大きさは、大の大人が腕を広げたくらいはあり、その中を何匹かのクマノミやナンヨウハギ、グッピーなどの海水魚が泳いでる。しかも水槽の中には砂利が敷かれ、水草が植え付けられ、ご丁寧にポンプまで取り付けられているようだ。ブクブクと泡が立って、水の中の世界に彩りを添えている。

 どうやらさっきのコードは、このポンプに繋がっていたようだ。だが誰が、いったい何のためにこんなことを? 

「きれいだろう、魚がいる景色っていうのは」

「うわっ!?」

 背後からの突然の声に、ぎょっとして叫び声を上げた。

 心臓が破裂しそうになりながら振り向くと、オレの背後に一人の少女が立っていた。

 その子は塔銘学園中等部の制服を着ていた。つまりは同学の女子生徒らしい。

 髪型はショート。サイドには端正な編み込みが入っていて、なんというか清楚な印象を受ける。

 背丈はオレよりかなり低いが、同年代の女子の中では高いほうだろう。

 全体的に、かわいらしい、という感じの柔らかい雰囲気をまとった子だった。

 ……だが、彼女には一点だけ、異様な部分があった。

 なぜか、制服のブレザーの左腕に「緑化(りょくか)」と書かれた、意味不明な赤色の腕章をしているのだ。

「誰だ、お前!」

 無様に驚いてしまったことをかき消すように、とっさに言い返すと、女子生徒は不満そうな表情を浮かべた。

「なにかな、その態度は。私からしてみれば、『誰だ』と、言ってやりたいのはこっちの方なんだけどね」

 見た目の印象の割に、ずいぶん横柄な話し方だった。だが、言ってることはもっともかもしれない。

 オレは息をついて立ち上げると、女子と向き合った。

「オレは広ひろしだ。津川(つがわ) 広(ひろし)、中等部の三年」

 その自己紹介に、目の前の彼女は表情を緩めた。

「なるほど、キミが広くんか。私も三年生だよ、同学年だね」

 まるでオレを知っていたかのような口ぶりだが、あいにくとオレの方は、彼女のことを全くご存知でない。

「だから、お前の名前は?」

「ああ、すまない。私は東香(とうか)だよ。フルネームは青柳(あおやぎ) 東香、色の青いに、植物の柳、東に香る、と覚えてよ」

 慣れた様子で名前を言い終えると、東香は右手を差し出した。

「よろしく」

 なんだか、フレンドリーなやつのようだ。だが、こっちは馴れ合うつもりも知り合う予定もない。

 オレは東香の握手を無視して、反対側を向く。

「オレは帰る、じゃあな」

 とにかく、この面倒な空間から早く離れたかった。

 謎の水槽に、その関係者らしき謎の少女、そして謎の「緑化」腕章。本当に、朝っぱらから謎が多すぎる。

 時計はまだ六時ちょっと過ぎを指していて、まだまだ時間はたっぷりあった。

 水門見物で暇を潰す計画がダメになったから、別の暇つぶし策を考えなくては……。

「待って」

 しかし、そんなオレを、背後から声が引き止めた。

 振り返ると、東香が真顔でこっちを見ている。

「待ってくれ、君に話があるんだよ」

「うるさい、じゃあな」

 できるだけ「死ぬほど面倒くさいから構うな」という感情が伝わるように吐き捨てて、オレは再び彼女に背を向けようとした。

 ……だが、

「私は、キミを知ってるよ。『津川 広』、確か、所属していたバレー部で問題を起こして以来、最近まで停学してた生徒だよね」

その言葉だけは、聞き逃がせなかった。

 足を止め、ゆっくりと正面の東香に視線を戻す。

「どうして、お前がそれを知ってる」

「そうか? 君ほどの不良(バッドマン)を知らないやつのほうが、少ないと思うけど」

「へえ、そうかよ」

 胸の中で、火が着いた音がした。そして全身に、ゆっくりと、怒りや絶望が流れ出す。

 だから学校なんて来たくなかったんだ。こいつのような、何も知らない連中に、好奇の視線を浴びるくらいなら。

 オレは一度深呼吸すると、東香の方に一歩だけ距離を詰める。

「そんなにオレのことを知ってるなら、最近オレが何をやってたかも知ってるよな」

 脅すように、低い声で語りかける。

 だが意外にも、東香は動じなかった。

「もちろん知っているさ。停学中に、他の不良相手に喧嘩三昧……だろう? その甲斐あって、一ヶ月の停学が、さらに伸びたそうじゃないか」

 どうやら、東香は本当にオレについて詳しいようだ。

 だが、それでもこいつは重要なことを知らないらしい。

「訂正しておく、オレは売られた喧嘩を買っただけだ。……そして」

 オレは東香を睨みつけながら、もう一歩距離を詰める。

「そして、オレはその喧嘩で、一敗たりともしていない。高校生にだって、圧勝だったぜ」

 これで、東香もよくわかっただろう。オレが、誰それ構わず暴力を振るう、近づいてはいけない存在であると。

 そして次の瞬間には、東香は血相を変えて逃げ出すはずだ。そう思っていた。

「なるほど、つまりキミは自分の腕っぷしに自身があるわけだな」

 だがオレの予想は外れた。東香は逃げるどころか、そう言って腰を落とすと、力士のように腕を広げて構えた。

「なら、私がここでキミを打ち破ってあげよう。そうすれば、ちょっとは私の話を聞く気になるだろうからね!」 

 少女らしい髪型と、貞淑な雰囲気をまとう女子が、スカート姿でファイティングポーズを取っている様子は、お世辞にも「かわいらしい」とは言えなかった。それどころか、かなり間抜けな絵面だ。

「お前、本気かよ」

「本気さ、かかっておいで、早起きの不良(バッドマン)ちゃん」

 この状況でも、まだ減らず口を叩きやがる。

 まあ、こっちは男女平等。そして売られた喧嘩は買う主義だ。もともとイライラしていたし、ここで軽く東香をのして、もう少し停学(やすみ)を貰うのもアリかもしれない。

「勇気あるな、お前。じゃ、遠慮なくいくぜ!」

 拳を握り込み、全力で腕を引く。

 この停学中、数々の修羅場をくぐり抜けて学んだが、喧嘩は技術ではない。最終的には、タフで、パンチ力があるやつが勝つように出来ている。その法則を当てはめれば、東香との喧嘩など、勝率を求めるまでもない。

 じゃあな、「緑化」腕章の変人。

 オレは、(一応手加減しながら)拳を突き出した。が、

「よっと」

 目の前の東香が急に伏せたせいで、パンチは空を切った。

 ……速い。いや、最初から全力で伏せて避けるつもりだったのか。

 しかし、そんなものは延命措置に過ぎない。オレはすぐに腕を引いて、足を摺り、パンチを出した後の不安定な状態から立ち直る。

 そうすると、さっきとは東香との位置が入れ替わり、今度はオレが大鮫川を背にする格好となった。見ると、東香の背後からは太陽がのぼり、辺りは急速に明るくなり始めている。

 その一瞬、オレは東香としっかり向かい合った。

 彼女は笑っていた。

 強い風が吹き、大地を揺らす。巨大な水門の影と、朝露で濡れたタイルの地面の上を、ゴゥという音が通り抜ける。

 今だ!

 全身に力を込めて、オレは彼女を殴ろうとした。

 しかし、

「Goodbye(グッバーイ)~」

 陽気な声とともに、世界が回転した。

 東香が、腕を引いたオレの懐に飛び込んで、そのまま全力でオレを後ろに押し込んだのだ。

 地面が濡れているせいで、踏ん張りが効かなかった。そして最悪なことに、オレの後ろには川がある……!

 次の瞬間、オレは背後の大鮫川に落下した。

 ボコ、ボコ……。

 口に水が入る。

 全身が水で囲まれて、スーッと体温が下がっていく。水を含んで膨れ上がった制服が、体にまとわりついて動けない。

 ……そうだ、暴れてはダメだ。ここは水中、もがけばもがくほど沈むぞ。

 オレは口を閉じると、両手の力を抜く。すると、服の浮力ですぐに浮き上がることに成功した。

「ばッ!!! ……はぁ……っ」

 やっと水面から顔が出て、肺が空気で満たされる。

 そのままバタ足で、なんとか体制を立て直す。水の中にいたのはほんの一瞬だったが、死ぬかと思った。

 目を開くと、すぐに眩しい光が差し込んでくる。どうやら、もう日は昇ったようだ。

「夏も終わりだが、水泳は楽しめたかな、広くん」

 上から、生意気な声が降ってくる。

 はっとして見上げると、東香が満足そうに笑いながら、右手を差し出していた。

「私の勝ちだよ。今度こそ、手を取ってくれるかな」

 ……くそ。

 悔しいが、これはどう見てもオレの負けだ。

 オレは東香の手を取る。冷え切った体には暖かすぎる、華奢な手のひらだった。

 彼女に引き寄せられ、なんとか岸へと辿り着く。

「目がいいんだな、お前。オレの攻撃を全部かわすなんてな」

 水に浸かったまま水路の壁を這い上がり、オレを見下ろす東香に称賛を送る。だが東香は首を振った。

「違うさ。それに、かわすだけじゃ勝てない。喧嘩は技術なんだよ」

「オレとは宗派が違うみたいだな」

「ならこちらに鞍替えするといい……さて」

 軽口を交えつつ、東香はオレの状態をまじまじと見た。

「……ひどい状態だね」

「お前がやったんだろ」

「そうだった」

 これはうっかり、という風におどけてから、東香は口を開く。

「まさか自然乾燥ともいかないだろう? 濡らしたお詫びに、代わりの制服を用意してあげようじゃないか」

「ほんとか?」

「約束しようじゃないか」

 実に怪しい提案だったが、この濡れ鼠では、大人しく従うしかない。

「じゃあ、軽く上着を絞ってから、学校へ行こう。……君に、積もる話もあることだしね」

「ハイハイ、わかりましたよ」

 不穏な事を口走る東香に、オレはしぶしぶ頷いた。

 それから、オレは上着を絞って、東香と学校へと向かった。時間が時間なので、相変わらず周りに生徒はいなかったが、それでもずぶ濡れで公道を歩かされたのは、人生でも上位にくる拷問だった。

 東香もそんなオレの心情を察してか、学校に着くまでは黙ってくれていた。だが、閉じた校門を乗り越えた時、彼女は一つだけオレに質門をした。

「そういえば、さっきの川の水の味は、どうだった?」

 どうして彼女がそんなことを聞くのか、まるでわからなかったが、オレは正直に答えた。

「……しょっぱかった」

                    *

 連れていかれたのは、体育館前の更衣室だった。

 着くやいなや、オレは男子更衣室に押し込められ、湿った匂いのする更衣室に一人残される。

「おーい、たしかに着替えるのにはうってつけだが、着替えなんて持ってきてないぞ」

 扉の外に投げかけると、すぐに大声が返ってくる。

「それを今から調達するんじゃないか! まあ、待っていてくれ」

 なるほど、そういうつもりだったのか。余計な心配をしてしまったかもしれない。

 ……ん?

 いや、待てよ。『調達』するって、どうやって……?

 ―それから十分後。

 前触れもなく、外から快活な声が聞こえてきた。

「さ、おまたせ! 君の服(クローク)だよ、タオルもどうぞ」

 同時に扉が少しだけ開いて、乱暴に制服のブレザーとズボン、それにバスタオルが投げ込まれる。

 それだけやって、大きな音とともに閉まったドアにオレは叫んだ。

「いや待て待て待て! これ、いったいどこから……」

「ああ、すまない。流石に私も男用の下着は調達できなかった」

「そういう問題じゃない! だからどうやって」

「ああ、それならちょっと奪―じゃなかった、どうでもいいじゃないか。さ、私はそこらで待っているから、着替えておいで」

 東香の声はそこで途切れ、同時にドアの外から人の気配が無くなる。どうやらオレの質門に答える気は無いらしい。

 でも、そういえばさっきあいつ「奪った」とか、なんとか……。

 いいや、これ以上考えるのは止めておこう。

「ほんとに、何者なんだよあいつ」

 ひとり虚しく呟いてから、オレは着替えを始めた。

 なるべく制服の持ち主のことは考えないようにしながら更衣室を出ると、女子側の更衣室の扉にもたれ掛かっていた東香が顔を上げた。

「調子はどうだい? サイズが合うか心配だったけど」

「ぴったりだったよ、まるで自分のみたいに」

「良かった、それで……濡れた制服はどうしたんだい?」

「更衣室の中に干しといた、まあ、制服盗むやつも居ないだろ」

 一瞬、東香に身ぐるみを剥がされたかもしれない誰かのことが頭をよぎったが、すぐに忘れることにする。

「そういば、君、下着はどうしたのかな?」

「お前わりとデリカシー無いだろ。……あんだけ濡れてたらもう着れない、ま、察してくれ」

 ということで、

 オレは東香に向き直る。

「オレに用事って、何だ? さっきは何かを話そうとしてたみたいだが」

 これが本題だ。正直、オレにも東香に聞きたいことは山程あるのだが、そこは彼女の話を聞けばわかるような気がなんとなくしていた。

 東香は、その質門に目を見開く。

「単刀直入だね、ちょっと長くなるが、良いかな」

 う、長いのか。長話は嫌いだ。

 だが、

「まあ、いいぜ。こっちは死ぬほど暇してるんだ、聞いてやるよ」

 その答えは本心だったが、正直、そんな風に答えた自分が不思議だった。もしかすると、喧嘩に負けて、オレも丸くなったかな。

 ぼんやりとそんなことを思うオレを、東香が笑う。

「広くん、この短期間でだいぶ印象が変わったよね」

「お前もな、最悪になった」

「じゃあ、第一印象は良かったわけだね」

「うざ」

 そのあたりで「冗談はここまでにして」と前置きし、東香は真面目な顔を作る。

「私はね、この学校で、『緑化』をやっているんだよ」

 そう言って、東香は左腕にはめられた真っ赤な「緑化」の腕章を撫でた。

「緑化って、あの緑化か? 木を植えよう、自然を増やそう、ってやつか?」

 腕章を見つめながら聞き返すと、東香はしっかりと頷く。

「その通り。この人工島、緑が少ないから、増やしているんだよ」

 この人工島、というと、彼女の計画には中学校だけじゃなく、ここの埋立地全体が含まれるのだろうか。

 だが、東香の言葉はあまりにもフワフワとしていた。

「お前が『緑を増やしたい』って、思ってることはわかった。だけど、具体的にはどうやってやるんだ? まさか灰をまいて、花が咲かせるつもりか」

 そうして精いっぱい馬鹿にしてやったつもりだが、やはり彼女はひるまない。

 東香は、逆に「待ってました」とばかりににんまりと笑う。

「ふふ、私が言葉だけの女だと思うか? その点、すでに行動はいくつか起こしているんだよ。君だって見ただろう? 私の作品アートを」

「は? そんなもんどこで―」

 言いかけて、思い出す。

 彼女と出会った場所を。

「まさかあの水槽……お前の『緑化』運動のひとつだったのか!?」

 そう、さっきオレは大鮫川の上流で、色とりどりの海水魚が飼育されている奇妙な光景を見た。そこからこいつに会って、喧嘩を吹っかけられて、こんなことになっているのだ。

 思い出すだけで腹が立ってくる。

 だが、東香は嬉しそうに胸を張った。

「覚えていてくれたか、そうだよ。私はあの〝涙橋(なみだばし)スルース〟で海水魚を育てているのさ、〝大(おお)シャーク川〟に放流するためにね!」

 ん?

「ちょっと待て、いや、あれがお前の仕業だってことはわかった、良くわかった。だが、なんだその、涙橋……スルース? 大シャーク、川?」

 東香の言葉の中で、そこだけ上手く聞き取れなかった。

 対して、東香はきょとんとしている。

「うん? 上手く聞こえなかったか。それじゃもう一度言おう、私は涙橋スルースで大シャーク川に……」

「それだよ! それ! オレが気になってるのはお前の話の内容じゃなくて、その、時々登場する『なんたらスルース』とか、『シャークなになに』とかのことだよ!」

 必死に説明すると、東香はあからさまに不機嫌そうな顔になった。

「なるほど、私の操る国際語は君には早すぎたかな。ならば……ふん、仕方ない。説明しようか」

 そして、ものすごくダルそうに東香は口を開ける。

「あー、君は、SLUICE(スルース)の意味はご存知かな?」

「知らん、英語苦手だ」

「なるほど、尋ねた私が馬鹿だったね。SLUICEの意味は『水門』だよ、つまり〝涙橋スルース〟っていうのは……」

「あぁ〝涙橋水門なみだばしすいもん〟か」

「ご名答、じゃ、同様に〝大シャーク川〟の意味はわかるかい?」

「えーと、〝大鮫川おおさめがわ〟?」

「正解だね。今後もその調子で頼むよ」

 以上、東香による「国際語」とやらの解説は終了した。

 ここで、一つわかったことがある。

 思い返せば、会ってからというもの、東香の喋りには時々英語が交じるし、見た目とかけ離れた硬い物言いだし、妙な喋り方の女子だとは思っていた。だが、こんな中途半端に英語が混じった造語を、さも当たり前のように使っているのは……。

「お前、変な子だな」

「変な子とはなんだ、変な子とは!」

 そこから、東香は頬を真っ赤にしてひとしきり怒った。

 そして、彼女がオレに対してありとあらゆる罵詈雑言を使い切り、どんなに津川 広という人間が低レベルで低俗な人間なのか、じゅうぶんに説明し終わった後。

 東香はまた真剣な顔で、オレに顔を向けた。

「君、ちょっと前に私がした『大シャーク川の水の味はどうだった?』って質門に、『しょっぱかった』って答えただろう? つまりはそれが問題なんだ」

 彼女の口ぶりは真剣だったが、学の無いオレにはよくわからない。

「それのどこが問題なんだ?」

 馬鹿みたいに聞き返すと、東香は「あきれた」という風にため息をついてから、説明を始める。

「いいかい? 知ってのとおり、この島は埋立地だ。塔銘学園を建てるために造られた、人工島さ。だからこの島は海で囲まれている。……ということは、この島に水を引いて、大シャーク川のような川を作っても、そこに流れる水は当然、塩水なんだ。だから大シャーク川の水はしょっぱいのさ」

 そこで東香は、大鮫川の方を指差す。

「川の水が塩水ってのは、実に由々しき問題だよ。『塩害』って言葉があるように、塩分は自然にとって天敵なのさ。だからこの島では、緑が育たない。まさか、花壇の花や、庭先の作物に、大シャーク川からとった塩水をぶっかけるわけにはいかないからね」

 ……なるほど、だから「しょっぱいのが問題」か。

 だが、まだ腑に落ちないこともある。

「いやでも、このあたりでも植物けっこう見かけるけどな。この学校の中庭とか」

 そんな素朴な疑問にも、東香は淀みなく答える。

「たしかに、橋を渡って、この島に上陸した君は、学校の中庭とか、近くの教員用マンションに置かれた花壇の中とかに、花や緑を見つけるかもしれない。でもね、それはみんな偽物なんだ。どうせ取り寄せた土に、取り寄せた肥料を撒いて、水道水で育ててるのさ」

 ずいぶんと嫌味な言い方だった。

「それのどこが悪いんだ?」

「どこも悪くないさ。むしろ、みんなドンドンやるべきだね。私は別に人工的な緑を責めてるんじゃないよ、ただ、誰も緑化に動かないことを嘆いているんだ。みんな本気でやらないから、ちょっとした庭や花壇で満足してしまう。そのせいで、この島全体にまでは緑が広まらない」

 そこで、東香は一息つく。

 そしてすぐに、目を輝かせながら、オレの方を見つめた。

「そこでだ、君にお願いがある」

 その言葉に、嫌な予感が走る。

 これ以上は聞いていけない、という、漠然とした危機感に襲われる。

 だが、彼女はオレが何か言うよりも早く、その続きを告げてしまった。

「広くんに、私の『緑化』を手伝って欲しいのさ。実はね、私の作った水槽を見つけてくれたのは、君が初めてなんだ。私は君を川に突き落としながらも、その観察眼に感動していたんだよ? そしてなにより、君には喧嘩で鍛えた腕っぷしがある。その腕力は、きっと緑化に役立つはずさ」

 東香は胸の前で拳を握りしめ、キラキラした表情で言い放つ。

「君はきっと、この活動のキーマンになる男だ!」

 力強い言葉だった。

 つい仲間に入りたくなるような、強烈な魔力をもった誘いだった。

 実際、オレにそんな言葉をかけてくれる人間はいなかったので、正直少し嬉しかった。

 だが、

「無理だな、お前とはやれない」

 オレは首を振る。同時に、東香の顔が曇った。

「どうして?」

 意味がわからない、といった雰囲気の東香からオレは目をそらす。

 どうしてか、だと……?

「教えてやるよ、それはな、お前が自分勝手だからだ」

「自分勝手?」

「そうだ。お前は強引で、自分勝手だぜ? そういうやつは、変えなくて良いことを変えようとして、社会の輪を乱す」

 目を伏せ、ひとり呟く。

「自分勝手なことは、しちゃダメなんだ」

 少しだけ、その場に沈黙が降りる。東香はそのあいだ、オレの方をじっと見ていた。

 そうして、彼女はまた口を開く。

「君の言葉、それは本当に本心かな? 君らしくもない、まるで誰かからそっくりそのまま借りてきたような言葉に聞こえたよ」

「そうか?」

「うん、そして自分に言い聞かせてるみたいだった」

 見透かしたような態度に腹が立つ。

 ……こいつは、何も知らないくせに。

 怒りを堪えながら、拳を握りしめる。

「とにかく、自分勝手は悪だ。何か反論あるか? ……無いならオレは行く」

 頼むからもう何も言うな、そんな祈りを込めて背を向ける。

 が、

「待って」

 懲りない声が、またしてもオレの邪魔をした。

 しぶしぶ振り返ってみると、そこには、ウザいくらいの笑顔があった。

「なるほど、身勝手は悪か。よし、それが理由で君が私の緑化に参加できないと言うのなら、一つ反論してやろうじゃないか」

「……できんのかよ」

「ああ、できるさ!」

 東香は明るく答えると、もっともらしく腕を組んで考え出した。

 というか、今から反論を考えるのかよ……。

 そして、

「わかった!」

 少ししてから、東香は大声を上げる。

 何が来るのかと身構えたが、意外にも、彼女が発した言葉は少なかった。

「それじゃ一つだけ質問するけど、君は、自分が本当に誰かに望まれて生きているって、信じられるかな?」

 たったそれだけ。

 そんな問いかけ一つだけだった。

 ―唐突な質門に、オレは考える。

 自分が本当に誰かに望まれて、生きているか? だと……。

 今までの人生を振り返る。

 オレは中学に上がってから、入部したバレー部で騒動を起こして退部処分になり、そっからグレて、グレて、グレて……。

「はは……」

 気がつくと、乾いた笑いが漏れていた。何がそんなにおかしいのかは自分でもわからない。ただ、短い人生を振り返ってみると、むしょうに笑えて仕方なかった。

 オレは東香に向き直る。

「無理だな。オレみたいなクズじゃ、誰かに望まれて生きてるなんて口が裂けても言えねー。むしろ、生きるのを望まれるどころか、オレに死んで欲しいやつの方が多いかもしれない」

 オレが笑うと、東香も笑った。

 笑いながら、彼女は言った。

「でも生きてる、それでも君は今を必死に生きている。……だろう?」

 オレはもう、負けを認めていた。

「そうだな。誰にも望まれなくても、生きてる。オレは、自分勝手なやつだ」

「うん、そしてそれは君だけじゃないさ。周りをよく見てみれば、優等生だろうが、有名人だろうが、みんな結構、好き勝手にやっているものさ」

 東香はそのままオレの脇を通り過ぎると、前に立って、校門の方を見つめた。

 オレもそちらを見ると、もう校門は開いて、生徒がまばらに登校し始めていた。知らず知らずのあいだに、だいぶ時間が経っていたようだ。

 東香は、登校してくる生徒たちの真上の、まばゆい太陽に向かって、両手を広げてバンザイするように伸びをした。

「誰かに自分勝手と言われようと、好きなことをやるのが人生さ! それで良いんだよ」

 もう、返す言葉もなかった。

 オレは喧嘩で負け、今度は口論でも負けた。

 一応喧嘩屋の流儀に当てはめれば、合計二敗もした男に人権は無い。勝者の言うことには、従わなければならないだろう。

 東香の背中に向かって、オレは言う。

「気が変わった、手伝ってやるよお前の『緑化』を」

 そんな、オレの一世一代の宣言にも、東香は振り向かない。

 彼女はただ、愛おしそうに左腕の真っ赤な腕章に手を当てながら、太陽の行く先を見ていた。


【Ⅱ】塔銘(とうめい)スクールミドル

「おはよう!」

 上空から鳴り響いた元気のいい声に、はっとして顔を上げる。

 見上げると、涙橋水門の上に人影があった。

「なに言ってんだ、それを言うなら『こんばんは』だろ! ……ったく、こんな真夜中に集合かけやがって」

 そう反論すると、すかさず上から返事が返ってくる。

「夜に紛れてなにかするのは、仕事人みたいで格好良くないかな?」

 口の減らない奴だった。

 ―あたりは暗かった。

 現在時刻は夜の十時過ぎである。涙橋水門の前は、すっかり夜の黒さに塗り潰されて、その中をぽつぽつと浮き上がった街頭の光が並んでいる。水門の下を流れる大鮫川の水も黒々として、油断したらまた落っこちてしまいそうだ。

 ほんと、日曜日の夜中にオレはなにをしているんだか……。

 水門の真下の暗闇から離れ、近くの街頭の光まで歩いて行く。暗闇は怖くないが、川に落ちるのは怖かったからだ。

 肩に提げて来たベンタイル生地のショルダーバッグから懐中電灯を取り出し、オレは水門の上のあたりを照らす。

「わっ、なんだ!? やっと今、暗闇に目がなれた所なんだよ、ちょっ、眩しっ!」

 すると予想通り、懐中電灯の光の中にバカの姿が照らし出される。

 涙橋水門の上の、柵で囲われた展望台のようなスペースに、東香とうかが立っていた。

「お前、どうやってそんなとこ登ったんだ?」

 尋ねてみると、東香は自分の真下の方を指差す。そこには、金属製のハシゴが取り付けられていた。

「そこから登れるよ。この涙橋スルースに限らず、水門スルースにはこうしたハシゴや階段が取り付けられているのが一般的なんだ。……君も登ってみるかい?」

「断る。てか、そこ行っちゃいけない所だろ」

「不良のくせに、制度を重んじるタイプだね君は」

 とりあえずその発言は無視することにして、オレは懐中電灯を向けたまま言う。

「ところで、そろそろどうして呼び出したのか教えて欲しいんだが」

「そんなことか。まあ、私が君を呼び出す理由は、もちろん『緑化』に決まっている」

 すっと答えて、東香は水門のハシゴからスルスルと降りてきた。

 そして彼女は水門足元で屈むと、何かを拾い上げた。

「よっ、こらしょっ」

 電灯の光を向けてみると、東香が重そうに持ち上げたのはリュックだった。

 丸みを帯びた形状のリュックは、登山用の大掛かりなものだ。しかもリュックはパンパンに膨れ、それどころか、蓋の隙間から何かが飛び出している。

「それ……って、おい! そのリュックから飛び出してんの、もしかしてツルハシか?」

「うん」

「緑化って、破壊工作でもすんのかよ」

 東香のあまりの重装備ぶりにビビるオレに、彼女は笑顔で答える。

「今日は何をするか……それは現場に着いてのお楽しみだね!」

「はぁ?」

「はいもう私は何を聞かれても答えないからね。そうでもしないと、君帰っちゃうかもしれないし」

 ふてぶてしいその態度が、青柳東香という人間を象徴していた。

 大鮫川沿いを歩きながら、オレはすぐ近くにある校舎の方を見る。

「この方向、やっぱ学校に向かってるのか」

「そうだね。……まあ目的地くらいは教えてあげるよ、君の予想通り、今日の活動場所は我らが〝塔銘(とうめい)スクールミドル〟さ」

 いきなり奇っ怪な単語が登場したが、彼女の人となりを把握した今ではあまり驚かない。

「それ、ひょっとして〝塔銘学園中等部(とうめいがくえんちゅうとうぶ)〟のこと言ってんのか?」

「そうだよ」

「いや、だが中学校は〝ジュニアハイスクール〟だろ? それに〝スクールミドル〟なんて言葉は無い」

「無くてもいいのさ、語感が大事だから。それに私は、正解に囚われるタイプじゃないからね」

 得意そうに語る東香に、オレはもう二度と彼女の言葉遣いにツッコむまいと決めた。

 代わりに、オレの興味は別の方向に向く。

 今はもうかなり後方にある、涙橋水門を見ながら東香に尋ねる。

「そういや、例の水槽の調子はどうなんだ?」

 隣の大鮫川を見ていたら、東香が水門の上流側で飼育している海水魚のことを思い出したのだ。

「調子? 調子ならすこぶる良いよ! あの辺りは、大シャーク川の中でも流れが遅いからね。魚たちはのびのび暮らせるのさ」

「そうなのか」

「うん、実はそれにも秘密があるんだよ」

 リュックを背負い直しながら、東香は解説を始めた。

「これは市役所の人から聞いた話なんだけどね、涙橋スルースのもっと上には、実はもう二つ水門(スルース)があるんだ。話によると、その水門(スルース)たちは、基本的にずっと閉じてて、水流調節の役目としてはむしろメインの存在なんだって」

「へえ」

 それは知らなかった。

 涙橋水門より上流の水門が閉まっているから、下流のこの辺りは流れが緩やかなのか。

 そうやってオレが勝手に納得したあとも、東香の話は続く。

「でね、それじゃあなんで涙橋スルースがあるのか、って言うと、ほぼ景観のためらしいよ。埋立地って平坦だから、大きな水門(スルース)があると景色にアクセントを付けられて良いんだって。だから、涙橋スルースの水門は開きっぱなしでも良いんだよ」

「なるほどな。お前、物知りだな」

 この人工島の学校に通いだして二年以上になるがそんなこと毛ほども知らなかった。

 普通にためになる情報で軽く感動した。

「ふふん! こんなの雑学だよ、あんまり褒めないでよね~」

 一方、褒められたのが嬉しかったのか、東香はいきいきとしていた。

 だが、そこでふとあることが引っかかる。

 歩きながら、川の脇を懐中電灯で照らす。そこには黒いコードがあり、ずっと後ろの水門の方まで続いていた。知っての通り、これは東香の水槽のポンプに電源を供給している電気コードだ。

「東香、そういえばこのコードって、どこから引かれてるんだ?」

 それは何気ない質門だった。

 しかし、

「へっ!?」

 言った瞬間、東香が足を止めて固まった。

 つられて足を止めてみると、街頭の光に照らされた東香の顔が目に入ってくる。

 つややかな髪に、整えられた編み込み。細い毛先が、夜風に揺れている。

 そしてその表情は……まるでイタズラの決定的瞬間を抑えられた子供のように、青ざめていた。

「おいどうした」

「いや、な、なんでも無いよ」

 この反応、明らかに怪しい。

 オレは東香から目を離し、足元のコードに目をやった。

 そのままずーっと、懐中電灯でなぞっていき、コードがどこからやってきているのかを追いかける。

 黒いコードは川べりを通り、その横のタイルの歩道を横断し、近くの建物の中まで続いていた。どうやらあの建物が出どころらしい。

 その建物は、一階建の白い建物で、四角形の無骨な見た目をしている。

 その場所をオレは知っていた。

「あそこはたしか、中等部の守衛と用務員の詰め所、だよな」

「そうだね、うん」

「どうしてあんなとこから、お前のポンプのコードが出てるんだ?」

「えーと」

 どうやら話が読めてきた。

 こいつ……。

 オレは東香に詰め寄ると、その目を覗き込んだ。

「さてはお前、勝手に詰め所のコンセント使ってるな? 他にちょうどいい電源が無かったから」

「ぐ、」

 東香が息を飲む音が、夜の静けさのおかげではっきりと聞こえた。

 どうやら図星のようだ。

「何してんだよ! お前のほうがよっぽど不良じゃねーか」

「まあまあ、落ち着いてよ広くん。確かにこれは違反行為だけど、今までバレなかったということを踏まえれば、むしろ容認されていると言っても過言では……」

「過言だわ!」

 さらに追い詰めようと東香の腕を掴もうとしたが、彼女はオレの脇をするりと抜けて、校門の方へと走り出す。

 相変わらず、身のこなしだけは軽いやつだ。

「これ以上騒ぐと、ご近所さんに通報されちゃうから、黙って追いかけてきてねー!」

 東香はそう言って、重いリュックをどさどさと揺らしながら、校門の奥へと走り去っていく。どうやら今回の件に関しては完全にだんまりを決め込むつもりのようだ。

 東香の後ろ姿は、そのまま校門の奥に見える体育館の横の方に消えていった。

 その進行方向から、おそらく彼女の目的地はグラウンドだと予想しつつ、オレはゆっくりと校門をくぐる。

 ……東香のこの強引さがいつか、とんでもないことを引き起こすのではないか。

 そんなぼんやりとした不安を抱えながら。

 グラウンドに着くと、端の方に明かりが見えた。

 徒競走用のトラックからもかなりかけ離れた、グラウンドの本当に隅っこ。そこで東香が屈んで、足元を携帯のライトで照らしながら何かやっている。

「お前、携帯持ってたんだな」

 近づいて声をかけると、ぼんやりとした明かりの中から声が返ってくる。

「ふーん、君は持っていないのか、携帯」

「親が買ってくれなくてな」

 話しつつも、携帯のライトだけではやはり暗い。

 手元の懐中電灯のスイッチを入れると、さすがにパワーの強い光線が、一気に周囲を照らし出す。

 さっきまで輪郭しか掴めなかった景色が、すべて露わになった。

 真っ青なグラウンドの地面。そしてその上で、なぜか這いつくばる東香。

 その二つが目に入ってきたところで、鋭い声が正面から上がる。

「広くん、待ってくれ。ライトを消してくれ!」

 それは東香の声だった。

 ぎょっとして懐中電灯をオフにすると、再び東香の携帯の弱々しい光源だけが残される。

「なんでだ? 見えにくいだろ」

「君の強烈なライトじゃ、遠目からも私たちがバレバレだろう。今回の緑化は、隠密でないといけないんだから」

 平然と言うが、つまりはコソコソしなきゃならないような後ろ暗いことをやっているらしい。

「じゃあ懐中電灯はもう点けない、だからそろそろこれから何をするのか教えてくれ。てか、お前が今何をやってるのか教えてくれ」

 目の前で、地面に落ちたコンタクトレンズを探している人みたいになっている東香を前に、オレはそう聞かざるを得なかった。

 すると変な体勢のまま、こっちも見ずに東香が答える。

「今回は、ここに桜を植えに来たんだよ!」

「はぁ?」

 今までの人生で、これほど自分の耳を疑ったことはなかった。

「お前正気か? ここ学校のグラウンドだぞ、しかも、土のグラウンドじゃない。見ての通り、真っ青なゴムチップの人工グラウンドだぞ」

「だからこそやりがいがあるんじゃないか」

「オレはやりがいがどうとかじゃなくて、桜を植えるなんてこと不可能だって言ってんだ」

 たしかにここはグラウンドの端っこで、誰かがこの上を走ったり、部活で使うようなことは無いとは思うが、地面のコンディションは最悪だ。ここには土の「つ」の字もないし、いくら成績不振のオレでも、ゴムチップから植物が芽吹かないことくらいはわかる。

「もう帰ろうぜ。そしてお前は明日の朝イチで病院に行け、それも本島の大学病院にな」

 言い張るオレに、東香がやっと振り返る。……相変わらず地面に屈んだままだが。

「そんなに結論を急ぐなよ、広くん。ほら、今見つけたところだから」

「病院をか?」

「『目印』をだよ!」

 その言葉に、オレは東香の方に向き直る。

 体勢のせいで中身が丸見えな東香のスカートから目をそらしつつ、彼女の体の下の地面を見てみると、たしかに何かが見えた。

 ……これは、穴だ。

 光の向こうのゴムの地面の上に、ぱっと見ただけでは気が付かないくらいの小さな穴がくり抜かれ、下のコンクリートの層が露わになっている。

「目印って、この小さな穴かよ。てか、まさかこれって……」

「そうさ! 私がつい一週間前の日曜日、人の目を盗んで開けた目印さ」

 東香はそう言うと、「これでやりました」とばかりに、リュックからニッパーを取り出してパカパカとやって見せる。

「この学校、先週も不審者が忍び込んでたんだな。ったく、セキュリティはどうなってんだ」

 我が校の安全性を心配するオレだったが、東香はケロリとしていた。

「ああ、それならウチの警備員たちを責めないでやってくれ。この時間帯は、穴場、なんだからね」

「穴場?」

「そうさ。ウチの職員は、土日は夜の九時が定時なんだよ。それに、警備員が来るのは夜の十一時半からなんだ。だから夜の十時から十一時ごろまでは、安全に作業ができるということだね」

 聞きたくもない情報だった。

 本当に、東香のどうかした行動力の前では、塔銘学園のセキュリティも肩なしのようだ。

 これ以上考えたくなかったので、オレはさっさと本題に戻ることにする。

「で、何の目印なんだ? 宝でも埋まってるのか?」

「違うさ、むしろ逆だね。ここの下には何もないんだよ、文字通りね」

 東香の、そんな奇妙な返事の意味を考えようとしたが、その答えにたどり着く前に、彼女がオレに例のツルハシを手渡してくる。

「はい、これでこの穴を軽く叩いてみて」

「は?」

「いいから」

 有無を言わさぬ雰囲気に負けて、仕方なくツルハシを少し振り上げ、穴のあたりを軽く叩いてみた。

 コーン、という軽い音が、辺りに響く。

 それは、オレが予想していた音とは違っていた。

「なんだ? この反響音は……」

「だから言ったよね? この下には何も無いって、まあ、正確には空洞になっているんだけどね」

 手元にずっしりと来る重厚なツルハシを持ったまま固まるオレの前で、東香は地面を手の甲で叩いて見せる。

「先々週に、中等部のグラウンドで配管工事が行われていたのは覚えているかな?」

 それはあまりに急で、脈絡のない質門だった。

 だが、その答えなら決まっている。

「知らんな、お前こそ忘れたのか? オレはそん時、まだ停学してたんだぜ」

「あぁ! そうだったね」

 痛恨の極み、という表情の東香。

 そう、オレの停学が開けたのは、東香と初めて出会った月曜日。つまり、今日から六日ほど前のことだ。だから先々週に配管工事があったなんてこと、知りようが無い。

「とにかく、その配管工事がどうしたんだ?」

 面倒なので、続きを促す。

「すまないね、まあ、先々週、グラウンドの下に通された配管の工事があったんだけど、その工事の理由が『水漏れによる配管の移転』と、生徒には説明されたんだ」

「なんだよ、よくあることだろ」

「それはどうかな? 普通なら『配管の移転』なんて言わずに、『配管の修理』って説明になりそうなものだけど」

 東香は深刻そうな調子だったが、あいにくと、オレにはその二つの違いがよくわからない。

「つまり何が問題なんだ?」

 手っ取り早く答えを要求したオレに、東香は呆れたように眉をひそめた。

「君はもう少し、自分で物事を考えたほうが良いよ」

 そんな前置きしてから、改めて口を開く。

「いいかい? 『修理』よりも、『移転』のほうが大事なんだ。今までの配管をやめて、わざわざ新しい配管を増設するってことだからね。ぜんぜん経済的じゃないし、工事だって大掛かりになる。実際、工事には一週間近くかかったよ」

「はぁ、そうですか」

 気のない返事になったのは、そこまで説明されても、やっぱり意味がわからなかったからだ。

「わりぃ、すまないが……」

「わかってるよ」

 流石に東香もオレのことをわかってきたのか、今度は「教えてくれ」という前に説明してくれた。

「つまりさ、わざわざ配管を修理じゃなくて移転させたのは『水漏れした配管の場所が、相当マズイところにあったから』って予想ができるんだよ。……例えばそうだね、沢山の生徒が使う、こんなグラウンドの下とかさ」

 下を向く東香につられて、顔を下げる。

 まさか、この東香の目印の穴の下に、その配管が……。

 しかしオレは顔を再び上げた。

「いや待て。たしかにそれは問題かもしれない、下の水道パイプから水漏れして、グラウンドがビチャビチャになったら困るからな。それに修理しても再発が怖いし、そりゃ移転にもなるだろう。だが、それが桜を植えることとどう繋がるんだ?」

 正直に自分の疑問を口にすると、東香はニヤリと笑った。

「だから、さっき言っただろう? この下は空洞になってるって。この下にはもう水は流れていないけど、空間はある。ここまで言えば流石にわかるかな?」

 オレは息を飲んだ。

 たしかに、配管設備は「移転」になった。だが、もともと配管が通っていた場所はどうなる?

 その答えは1つだ。

 配管は抜かれ、後は空洞だけが残る。

 無意識に、オレは足元に視線を戻していた。

「……だが、いや、そうだとしても、お前はどうやってこの下に空間があるってわかったんだ?」

「そんなことか。実は工事の時に、現場の作業員と仲良くなって教えて貰っただけさ。男ばかりの現場だったのもあるかもしれないけど、みんな気前よく配管の位置を教えてくれたよ」

「この悪女め」

「そんな表現はダメだよ。せめて、清廉潔白、質実剛健、温厚篤実……このどれかで私を言い表してくれ」

 そろそろ、本気で背筋が寒くなってきた。

 本当に、この青柳東香という人間は、オレの想像のスケールを超えている。目的のためならここまでできる、こんな中学生が他にいるだろうか?

 だが、そんなやつに付き合うと決めたのもオレだ。

「お前がオレに何をして欲しいか、わかったぜ。つまり、この下をぶち破れば良いんだろ?」

 ツルハシで真下をトントンとやると、東香が満面の笑みで頷く。

「その通り、君の馬鹿力が活かされる時が来たね。ささ、本気でやっちゃってくれ」

 力強い口調で彼女は言う。

「見せてくれ。君の、初めての『緑化』を」

 オレは何も言わず、返事の代わりにツルハシを振り上げる。

 そしてそのまま腕に力を込め、全力で木製の柄を握りしめると、

「だぁーっ!!!」

 オレは全力でそれを振り下ろした。

 次の瞬間、凄まじい手応えとともに、強烈な音が鳴り響く。

 下を確認するが、まだゴムの下のコンクリートには少々の亀裂が入ったくらいだろうか。

「でりゃっ!」

 息もつかせずもう一撃を叩き込む。

 今回は表面のゴムチップが少し、下に陥没したのが確認できた。

 だがオレは休まない。

 そのまま、

 次、

 次、

 次、

 次。

 そうして、そろそろ二の腕に痛みが走ってきたところで、コンクリートの地面は、表面のゴムの層を残して、完全に内側に砕けた。想像以上に、脆い地面だった。

「ゴムが蓋をしてるみたいだが、手応えでわかる。穴、開いたみたいだ」

「そうみたいだね。流石、私が見込んだ男だ!」

 東香はオレの背中をバシッと叩いてから、リュックからまた何かを取り出した。

 それは、いかつい見た目のカッターだった。安物のカッターと比べると、刃の横幅が広く、持ち手の部分が厚いゴム素材でしっかりと補強されている。

「なんだそれ、カッター界のボスか?」

「市販のカッターだよ。でも、ホームセンターで一番いいやつを買ってきたんだ。このゴムを切るためにね」

 カッターのぶ厚い刃をダイヤルで調整しながら、東香は下の地面に向き合う。

 そこには薄いゴムチップの層があった。現状、このゴム素材の層が、オレの開けた穴に蓋をしてしまっている格好だ。

 それを見て、急に不安になってくる。

「下に穴は開けたが、ツルハシでもこのゴムの部分は破れなかった。そんなカッターでほんとに切れんのか?」

「それなら心配ご無用。ゴムチップ素材っていうのは、単純な打撃には強いけど、切断には弱いんだ。というか、簡単に加工して便利に使えるように、最初からそういう構造になっているんだよ」

 その言葉の通り、東香はオレの目の前でゴムにカッターを突き刺すと、両手で力を込めてスイスイと刃を進めていった。

 ―数分後、東香は蓋をしていたゴムの層から、小さな四角形を切り抜いてしまっていた。

「さあ、御開帳だよ」

 そんな掛け声とともに露わになった地面。

 そこには、オレのおおよそ想像していた通りの景色があった。

 ゴムの層の下には、小さな穴が開いていた。

 ぽっかりと開いたそのいびつな穴の奥には、携帯のライトに照らされて、小さな筒状の空間が浮かび上がっている。空間の大きさは、ちょうど犬1匹ぶんくらいの広さで、その中にはさっきオレが壊したアスファルトの破片が散らばっていた。

「本当にあったな、配管の跡」

「うん」

「やっちまったな、オレたち」

「どちらかというと、メインでやったのは君だけどね」

「首謀者も同罪だろ」

 オレたちがそうしてしばらく罪をなすりつけ合っていたのは、その光景が中学生にはあまりに衝撃的だったからだろう。東香にそそのかされてやったこととはいえ、今さら自分たちがしでかした事の大きさに言葉を失いそうになる。

 そんな弱気を吹き飛ばそうとするかのように、東香が勢いよく首を振った。

「さて、急がないと警備員が来ちゃうよ。さっさと土を入れよう」

 東香は言うと、リュックの口を最大までかっぴらいて、中から「培養土」と印刷された巨大な袋を取り出した。どうやら、パンパンに膨れ上がっていたリュックの重量の重さは、これが原因だったらしい。

「これは……うーん? どうやって開けるんだっけ」

「おい貸せ」

 手間取る東香から袋を取り上げ、オレは足元に転がっていたカッターで透明なプラの袋を切り開く。

「ここに入れれば良いか?」

「ありがとう。うん、穴の大きさ満タンまで入れていよ。景気よくいこう!」

「わかった」

 袋を傾けると、コロコロとした園芸用の土が、穴の奥を満たしていく。

 それはなんというか、オレにとって新鮮で、どきどきする光景だった。

 あぁ……。オレはこんな夜中に、こんな変なことをやっている。

 とびっきり変なやつと一緒に。

「君、笑ってるのかい? 口元が上がってるように見えるけど」

「笑ってねえよ」

「そうか、暗いから表情がよく見えなかったよ」

「お前の共犯にされてるって考えたら、笑えるわけないだろ」

 土が穴を満たすまでの少しのあいだ、オレはそうして、ずっと嘘をついていた。

 穴を土が満たすと、その上をニッパーでドスドスと突いて、東香が穴をあける。

「おい、そんな雑で良いのか?」

「このニッパーは刃渡りがピッタリ1.5cmなんだ。むしろ正確コレクトな穴あけ道具だよ」

 ニッパーを脇に置いて、東香はスカートのポケットからビニールの小さな袋を取り出した。そしてそのまま一気に袋の上部を破くと、中から小粒の種を取り出す。

「これが本日の目玉、桜の種だよ」

「なんか、ヒマワリの種みたいだな」

「種の見た目なんてみんな似たか寄ったかだからね。これは『イトザクラ』という品種で、美しい枝垂しだれ桜なんだよ。植え付けには少し時期が早いけど、この島はかなり温暖だから、このくらいの時期がちょうどいいのさ」

 そこからはなんとなく東香が種を蒔いているところを見ていたが、彼女がみんな撒き終わって、土を被せてしまった後になって、ふと疑問が湧いた。

「これって、最終的にはどのくらい育つんだ?」

 東香は少し宙を眺めながら考えたあと、自信なさげに答える。

「写真で見たくらいだけど、だいたい七メートル、くらいにはなる、かな……?」

「七メートル!?」

 反射的に大声を上げてしまう。

「そんな巨大な樹、無事に育ったとしてもあんなスペースに収まらないだろ! 樹には根っこがあるんだぞ!」

 これは大変なことになったと確信したオレだったが、東香はどこ吹く風といった様子だった。

「うん、収まらないよ。でも大丈夫なんだ、桜は植え替えができるから」

「植え替え?」

「ある程度大きくなったら、もっと大きなスペースに植え替えればいいんだよ」

 うーん?

 一見するともっともそうだが、それはあまりに楽観的な考えに思えだ。

「植え替えるって、オレたちがか? 無理だろ、こんな小さな種をコソコソ植えるので精いっぱいなのに」

 必死に反論してみた。

 だが、それを裏切るように東香が吹き出す。

「はは、確かにそれは私たちでは無理さ。種を植えるのはいいけど、ある程度育った苗を植え替えるのは、知識と技能が無いと難しいだろうね。それに、もっと大きなスペースも見つけなきゃならない」

「だろ? なにをヘラヘラして……」

「違うよ、その辺りの難しいことは、オトナにやって貰えばいいのさ!」

「大人だと?」

 問い詰めるオレなど目に入らない様子で、東香ははるか遠くを見つめる。

「想像してみてよ、この芽が立派に成長した時のことを。きっと、ゴム製のグラウンドに一本だけ生えた桜の苗は目立つだろうなぁ。そうなったら、隠してはおけないよ。私たちの桜のことは、確実にみんなにバレる」

 そこで少し話を切って、東香はオレに視線を戻した。

「でもさ、見つかったらきっとこうなる。『配管の跡のスペースに奇跡的に芽吹いた、奇跡の桜だ!』ってね。そしたら周りの人が、勝手に桜を保護してくれるはずだよ。植え替えだって、もちろんやってくれるだろうさ」

 ……なるほど。

 オレはやっと納得した。

 確かにありそうな話だ。大人はそういう話に弱いし、学校側も、多少状況が不自然だったとしても、知名度アピールのための美談として利用するために動くかもしれない。

「……だが、絶対じゃない。あくまでそれはお前の予想だ」

「うん。でも、そうなるさ」

 その目には確信で満ちていた。

 帰り道、本島への橋を渡りながら尋ねる。

「あの桜って大きくなるのにどれくらいかかるんだ?」

「えーと、花がつくのに五年、そこから木になるには二十年くらいかな」

「じゃあオレたち面倒見きれねえじゃねえか!」

「でも、塔銘学園は中高一貫だから、あと3年くらいは面倒も見られるよ。きっと苗が出る瞬間くらいには、立ち会えると思うな」

 それは途方もない時間だった。

 ……あの後、オレたちは道具を回収して、すぐに学校を後にした。これでグラウンドには小さな穴ができることになったが、ごく端っこの小さなスペースなので、気付かれる可能性はほぼ無いだろう。

 軽くなったリュックを揺らしながら、東香が微笑む。

「私達が卒業した後のことは、後輩に引き継げばいいのさ。『緑化サークル』の後輩にね」

「なんだよ、その妙なサークルは」

「私達が所属する団体の名前だよ。まさに今、天啓が降りたように思いついたんだけど、気に入った?」

「クソみたいなネーミングセンスだな。それに、オレ以外メンバー居ないだろ。架空の後輩に仕事を任せんなよ」

「これから現実リアルにしていくのさ」

 あくまで楽観的な東香にため息をつく。

 今日は本当に、骨の髄まで疲れがたまった。

 ふと時計を見ると、もう夜中の十二時近くだった。

「やば、もう終電近いな。東香は大丈夫か?」

 そう尋ねると、東香は橋向こうの駅の方を見ながら頷く。

「大丈夫だよ。私は広くんとは逆方向の路線だけど、終電は一時だからね」

 はぁ……。

 やっぱり質問の意味が伝わっていなかったか。

「違ぇよ、電車に間に合うか聞いてるんじゃない。こんな遅帰りを、お前の〝親は〟許してくれんのか? って聞いてんだ」

 作業のせいで感覚が麻痺していたが、考えてみれば、中学生には遅すぎる時間帯だ。東香の家がどれくらい遠いかは知らないが、どんなに近くても、非常識な時間に帰宅することにはなるだろう。

 そんなささやかな心配に、東香はイタズラっぽい表情で答える。

「広くんこそ、大丈夫なのかな?」

「オレは……その、見るからに大丈夫だろ? 今さら遅帰りくらい、誰も何も言わねえよ」

「違いないね」

 愉快そうに少し目を細めてから、東香は答える。

「私の親は、私を信じてくれているんだよ。前もって遅くなることさえ伝えておけば、どんな遅帰りでも怒られないさ」

 そうやって言う彼女は、少し誇らしげに見えた。

 オレはそれに、少しだけ胸が痛くなる。

「羨ましい話だ。子どもを信じて尊重してくれる大人が、身の回りにいるなんてな」

 それは、うかつにも溢れてしまった本音だった。

 言ってから恥ずかしくなって、東香から目をそらす。

 しかし、東香はまだオレの方を見ていた。

「大人が君を信じなくっても、別にいいじゃないか」

「あ?」

「私が、君を信じているから!」

 …………。

 いきなりなんなんだ、こいつは。

 そのまま黙って歩くオレたちの前に、橋向こうの駅がどんどん大きくなっていく。

 立ち並ぶ街頭の向こうに浮き上がるその遠景は、なぜだか、オレの心を強く締め付けた。

 もう少しだけ帰りたくない。とか、

 ひょっとしたら思っていたのかもしれない。


【Ⅲ】ハッピーバード公園(上)

 東香との緑化の日々は、苛烈を極めた。

 ある日は学校の花壇にこっそり花を足したり、

 ある日は用務員が詰め所で育てている盆栽を勝手に整えたり、

 ある日は生徒会に「緑を増やせ」と、投書してみたり。

 ―気がつけば、もう十月も終わろうとしていた。

 昼休み、オレは午後の眠気にぼんやりとしながら東香の後ろ姿を見る。

 彼女は、このあいだ植えた桜の種に、緑色のジョウロで水をやっていた。

「そういえば……」

 背を向けたまま桜が切り出す。その表情は見えなかったが、声が明るかった。

「そういえば最近、君の武勇伝を聞かなくなったよ」

 そう言われても、心当たりがない。

「武勇伝って、喧嘩のことか?」

「違うよ。私が言っているのは、隣のクラスから、君が教師に怒鳴られる声を聞かなくなってことだよ」

 そこまで言われてわかった。たしかに、オレはよく授業中に担任と喧嘩して、大声で「ひろし!」と、名指しで怒鳴られていた。

 つまり東香は、その隣から聞こえてくるオレの名前を「武勇伝」と呼んでバカにしているのだ。

「……やるか? おい」

「また停学になるよ。それに私は、君が塔銘スクールミドルの生徒として、最近はマジメにやっているらしいこと褒めているだけじゃないか」

 東香は相変わらず背中を向けたままだが、とりあえず微塵も褒めていないことはわかった。

 だが、学校生活の話題といえば、オレにも気になることはある。

「オレが悪目立ちしてんのはわかるが、逆にお前の評判は聞いたことねえな。隣のクラスなのに」

「何が言いたいのかな?」

「いや、『緑化』って書かれた謎の腕章した女が、あちこちで好き勝手やってたら普通うわさになるだろ」

 そう、こいつは見た目からして変なのに、全く目立っていないのだ。一度だけ、隣のクラスの廊下越しにこいつの姿を見つけたことがあるが、教室の端で女友達とだべる普通の奴に見えた。

 東香が振り向く。その顔はかなり不機嫌そうだった。

「つまり君は、私は変人ゆえにクラスメイトから疎外され、道を歩くたびに後ろ指さされるような生活を送っているはずだ、いや、そうでなくてはおかしい! と、そう言いたいんだね?」

「違うのか?」

「もちろん違うさ!」

 大げさに否定してから、東香は胸を張った。

「私と君とじゃコミュニュケーション能力が違うんだよ。そりゃ、最初は私の緑化運動も、みんなから反対されたさ。でもね、一人ずつ、しっっっかりと説明してあげたら、クラスメイトや担任も理解してくれたんだ。この腕章だって、今じゃ誰も指摘したりしないよ」

 ふん、という鼻息が聞こえそうな東香だったが、その言葉を聞いてなんとなく謎が解けた。

 思わず口元が緩むのを感じながら、言い返す。

「なるほどな、どうやらお前、みんなに見放されているらしいな」

「えぇ!? 今の話を聞いてどうしてそんなことを……」

「いや、考えてもみろ。本当にみんなが賛同してくれてるのなら、お前の『緑化サークル』に何人かメンバーが加入しててもおかしくないだろ? だが現実はどうだ、今のところオレしかメンバーいないじゃねえか」

「う……」

 口ごもる東香に、さらに畳み掛ける。

「お前、周りに味方いなかったんだな。かわいそうに」

 それを口にした瞬間、東香の表情が青ざめた。痛いところをぐっさりといかれて、完全に心が折れそうになっているのがわかる。

 彼女はジョウロを持って固まったまま、しばらく口をぱくぱくやっていた。

 そんな悲惨な立ち姿に、これは初勝利か……とも思われたが、ギリギリのところで東香は持ち直したようだ。

「違う、違う、違う! だってこれは、君の責任なんだからね!」

 東香は、そうやって力強く開き直った。

 額に青筋を立てて怒り散らしながら、東香はオレに指を指す。

「そういえば、君はまだヒラのメンバーだったね。結構活動してきたのに、昇進も無いのはさぞモチベーションも低下することだろう」

 眉がつり上がった状態で、突如そんなことを言い出した東香にゾッとする。もしかすると、オレはとんでもない地雷を踏んでしまったかもしれない。

 東香は、眉をひそめ、頬を赤くして、拳を握りしめて完全に怒りながらも、口元だけは笑顔を作るという、高度なことをやりながら宣言した。

「君を我が『緑化サークル』の〝人材発掘係長(じんざいはっくつかかりちょう)〟に任命するよ。……どうだい? 役員になった気分は」

「いや気分もなにも、完全に報復人事だろそれ」

「そんなまさか。人材発掘はうちの急務だ、花形の役職だよ。……つきましてはすごく頑張ってくれ」

 もう何を言って無駄なようだった。

 なので、

「せっかく昇進するなら、何か昇進祝いをくれ」

 ダメ元で提案してみる。

 だが意外にも、東香はそれに頷いた。

「それもそうだね。いいよ、実は昇進祝いなら、もう用意してあるんだ」

「オレがクソみたいな役員に昇進するの確定事項だったんだな……」

「グチグチとうるさいよ。さ、君にはこれを差し上げよう」

 さっきまでの怒りが嘘のように、東香は落ち着いた態度で何かを取り出した。

 それは、真っ白な一枚の紙だった。

「はいどうぞ」

「お、おう」

 四角形のそれを受け取る。手触りは厚紙、という感じで、よく見ると表面ひょうめんに「橋立カメラ」と、近所のカメラメーカーの社名が印字されている。

 どうやら、これは現像した写真のようだ。

「おっと、そっちは裏だよ。ささ、表を見てご覧よ」

「ああ」

 言われるがまま裏返してみる。

 そこには、ふざけたものが写っていた。

 ……ありのままを言えば、それは青柳東香という中三女子の、自撮り写真だった。

 写真の中の東香は、うちの学校指定の灰色のブレザーを軽く着崩して、わざとらしくポーズを取ってこちらを向いている。

 そのポーズについてもう少し詳しく説明すると、右手を腰に当て、体を曲げてくびれを作り、開いた左手で髪の編み込みをいじっている、といった感じだ。

 とりあえず、めちゃくちゃ気味が悪い。

「お前、オレをバカにしてんのか?」

 呆然とするオレに、東香はからかうような視線を向ける。

「またまた、照れちゃって! 私のポートレートがそんなに嬉しかったか! そうか!」

「……どうやら冗談じゃないようだな。そうでないことを祈ってたが、お前は、これを、本気で、貰う価値のある『祝いの品』として、オレに渡してきたんだな」

「そんなの当たり前じゃないか、かわいい私の自撮りだぞ。……ちなみにその写真の題名は『東香とドキドキの放課後アフタースクール』っていうんだよ」

「本当にドキドキなのは、こんなものを他人に見せて平気なお前という存在だろ」

 なんか持っているだけで体調が悪くなってきたので、写真を東香の方に突っ返す。

「いらねーよ、てかこんなの持ってるのバレたらどうやって言い訳すりゃ良いんだよ」

「実は、その写真には秘密があってね……」

 だが東香はオレの言葉をガン無視し、別の話題を始める。

「実は写真の裏面がシールになってるんだ。橋立カメラさんに頼んで、そういう特別な細工をしてもらったんだよ」

「あぁ?」

 試しに写真の裏側を見てみると、たしかに端のほうが若干折れ曲がっている。東香の言うことが正しければ、両面テープのように、この裏面の白い紙を剥がすとシールになっているらしい。

「好きなところに貼って良いんだよ。広ひろしくんの家の机とかね」

「親が泣くわ!」

「えー、なにその反応。まあ、とにかくそれが君の欲しがってた『昇進祝い』さ。受け取ってくれ」

 う、そういえば、これはオレが言い出したことなんだっけか。

 ―結局、オレは諦めて写真を通学かばんの中に仕舞ったのだった。

「さて、そろそろ本題に移ろうか」

 桜の水やりが終わり、例の写真が起こした嵐も落ち着いたところで、東香が言った。

 オレとしては本題に行く前にとんでもない爆弾を背負わされたせいで、それどころでも無いのだが、とりあえず続きを促す。

「今日の活動のことか、何するんだ?」

「ズバリ、今日は〝ハッピーバード公園〟がテーマさ」

「ハッピーバード公園?」

 オウム返しに聞いたオレに、例によって東香が解説する。

「ハッピーバード公園っていうのは、〝瑞鳥公園(ずいちょうこうえん)〟のことだよ」

「あー、あの学校裏の公園のことだったのか。てか、なんで〝瑞鳥(ずいちょう)〟が〝ハッピーバード〟なんだ?」

「そのあたりは自分で調べてくれ」

 オレの質問を冷たく切り捨てたあと、東香はさらに続けた。

「そのハッピーバード公園が、我が塔銘スクールミドルの裏手に建設中なのは君も承知のことだと思うけど、現在、あの公園がどういう状態なのかも知ってるかい?」

 どういう状態か、だと?

 予想外の質門に一瞬考えたが、すぐにその内容は思い当たった。

「確か、何者かの嫌がらせが続いて、工事が止まってるんだったけか」

「その通り。ハッピーバード公園は、灰色なこの島に緑を添えてくれる存在になるはずだったのに、残念極まりないよね」

 東香の言うところの、瑞鳥ハッピーバード公園の噂は有名だった。夏場に着工し、完成すれば結構本格的な公園になるはずだったのだが、何者かによる工事業者への嫌がらせが続き、工事を止めざるを得なかったらしい。

「そういえば、工事の業者が受けてる嫌がらせって、具体的にはどんなものなんだ?」

 気になっていたことを聞くと、東香は懐から二つ折りの携帯電話を取り出した。

「そう言うと思って、昨日のうちに公園の工事現場に行って、写真を取ってきたのさ」

「おい、日中は携帯禁止だろ、この学校」

「大義のためには、切り捨てならなきゃいけないものもあるよ」

 悪質な言い訳をしつつ、東香は形態を開いて、写真を見せてくれた。

 写真を見て、オレは少し絶句した。

「……こりゃ、酷いな。落書きか?」

 東香が撮影してきた瑞鳥公園は、見る限り、そこそこ完成してはいた。だが、中央の巨大な遊具は、ピントの合っていない携帯の写真越しでもわかるくらいに、びっしりと落書きが書き込まれていた。

 その遊具は、まだ足場の骨組みで囲われた未完成な状態だったが、端から端までスプレーでカラフルに染め上げられ、その足場ごと巨大なキャンバスとして使われてしまっている。

 その様子は、まるで前衛彫刻だった。

 一緒に携帯の画面を覗き込みながら、東香が隣でため息をつく。

「落書きはここだけじゃないよ、他にも、業者が持ってきたシャベルカーや、ジャングルジムにまで落書きがしてあったんだ」

「犯人は見つかってないのか?」

「うん。それがね、夕方から業者の人がパトロールやってるらしいんだけど、まだ捕まらないんだよ。だからって監視カメラを置いても、死角からスプレーで潰されちゃってまるでダメ」

 聞いているだけで胸焼けがしそうな話だった。

 オレは携帯から顔を離す。

「こんなの、どうせ浮浪者かなんかだろ」

「それはどうかな。浮浪者の人からしたら、公園が完成したほうがありがたいんじゃないかなぁ」

「たとえ話だ。つまりオレは、社会でうだつの上がらない、しょーもない大人の仕業だって言いたいの」

 一応話は聞いたが、そんな推理しか出てこない

 第一、情報が少なすぎる。こんな意味のない落書きを見たくらいで、大人たちが見つけられなかった犯人をオレたちが見つけられる訳が……。

「……あ」

 そこまで考えて、一つの考えが頭をよぎる。

 落書き……。

 意味のない、落書き……。

 はっとして、オレは携帯をスカートのポケットにしまいかけている東香の腕を掴む。

「待て、この落書きの写真、もっと近くから撮ったのあるか?」

「え、うん……あるけど」

「見せてくれ」

「待て待て! 急に手のひらを返す人だよね、君は」

 ぐちぐちいいつつ、東香はまた携帯を見せてくれた。そして今度は別の写真を開いてくれる。

 それは、公園に置かれた重機に描かれた落書きを、至近距離から撮影した一枚だった。

「……なるほどな。こりゃ、パトロールが捕まえられない訳だ」

 もとは真っ白だったであろう、重機の流線型の表面に描かれた、ショッキングピンクの図形とアルファベットの羅列を見て、すべての謎がとけた。

 だが、東香はそうもいかないだろう。

「おーい! 何かわかったなら私にも教えてくれよ、勝手に納得してないで」

 予想通り、自分だけ置いていかれていることにぶーぶーと不満げだ。

 ま、こっちとしても説明してやりたい気持ちはやまやまだが、残念ながら時間が無い。

 オレは東香の肩を掴んだ。

「東香、今から瑞鳥公園に行くぞ」

「え、今から!? もう昼休み終わっちゃうよ? このあと授業だよ?」

「サボれ」

「そんな、私、授業は皆勤なんだけど!」

 なんだ、こいつ普段の素行不良っぷりに似合わず、優等生やってたのか。

 だが、そんな東香の猫かぶりも長くは続かなかった。

「それなら、犯人はわからず終いだな。いやー、オレも今日の緑化が失敗に終わるのは、とても心が痛むが、仕方ない」

「え、ちょっと……」

「じゃあな! オレもこれから数学だから」

 そう言って軽く揺さぶりをかけてやると、

「わー! なら、もう良いよ! 一緒に行ってあげるよ、仕方ないなぁもう……」

 忙しく喋りながら、ホイホイと着いてきた。

 なんとなくだが、こいつの扱い方がわかってきたような気がする。

                    *

 ハッピーバード公園の景色は、とても、ハッピーなどと呼べる状態では無かった。

 レンガで仕切られた公園の広い土地の上には、写真で見たとおりの前衛芸術遊具と、現代アート重機がコラボした、エキゾチックでファンタスティックな空間に仕上がっている。

 近くの植木に取り付けられた監視カメラを見上げながら、東香が言う。

「やっぱり、もうカメラはやられているね。結構上に隠されていたみたいだが、よく見つけてくるものだよ」

 その言葉の通り、上空のカメラは既にレモンイエローに着色されていた。

 ひとしきり辺りを見てから、東香がこちらを向く。

「そろそろ、答えを教えてくれよ。授業をサボってまで来てあげたんだからさ」

 ずいぶん恩着せがましい言い方だったが、たしかにオレのせいで皆勤をふいにしたのは、ほんの少し、申し訳ないかもしれないこともない。

 オレは手短に説明することにした。

「単刀直入に言うぞ。この事件は、地元の不良の仕業しわざだ」

 きっぱりと断言するが、東香は納得いかない顔で詰め寄ってきた。

「で、根拠はあるんだろうね。私の無遅刻無欠席をダメにするくらいは価値のある、きっちりとした根拠がさ」

 おお、この冷たい声色……どうやらまだ皆勤のことを根に持っているようだ。

 凄まじいプレッシャーをかけてくる東香から半歩下がって、オレは手近なとこにあった軽トラックの運転席のドアを指差した。そこも例によって、奇抜な落書きが描かれている。

「これが証拠だ」

「はい?」

「ああ、悪い。もう少し詳しく言うと、この落書きはタダの落書きじゃない。だからわかる」

 オレはさらにトラックに近づく。

「これは、このあたりの不良用語で『プレス』って言ってな、『ここは自分たちのシマだ』ってアピールするための落書きなんだ。『プレス』の描き方にはルールがあるから、見るやつが見ればすぐにわかる」

 言いながら、神妙に話を聞いている東香にわかるよう、落書きの細かい部分を指で示していく。

「不良は縄張り意識が強いから、一般人にはただのグチャグチャの線に見えても、実際は、ぜんぶなにかのメッセージになってるはずだ。……ほら、ここなんか読みやすいだろ? 『Kawaura』って書いてある」

「カワウラ……ってことは、人名か。つまりここは、カワウラっていう名前の不良がやったってことなんだね?」

 それは、不良の世界に詳しくない東香にしては鋭い推理だったが、オレは首を振る。

「いや、それを言うのはまだ早いな」

「どうして?」

「この『プレス』は、家族で言うなら家紋、極道で言うなら代紋みたいなものだ。つまり、普通は特定個人じゃ無くて、集団のエンブレムのはず……なんだが、」

「……なんだが?」

 不思議そうな顔で聞いてくる東香の前で、オレはもう一度落書きに顔を近づける。

 正方形を、格子状の線で覆うような特徴的なデザイン。そしてその中心に描かれた「カワウラ」というアルファベット。

これと同じものを見たような気がするのだが……。

「あー、もう、思い出せねー。ただ、この『カワウラ』は間違いなく、個人の名前じゃない。ま、普通は『致死閃光軍団デッドリースパークス』みたいな、チーム名が描かれてるもんだが、……まあ、『カワウラ』って渋いチームがいるんだろう」

「でもそれじゃ困るよ、チーム名だけじゃ犯人が特定できないじゃないか!」

 そうやって東香が噛み付いてくることは、予測済みだった。

 オレは通学看板をまさぐり、お目当てのものを掴み上げる。

「そこで、これの出番だ!」

 そうやって取り出したのは、さっき東香に貰った写真こと、「東香とドキドキの放課後アフタースクール」だった。

「なるほど、私の魅力で不良を誘い出すわけか」

「違う」

 東香のはふざけた予想だったが、実はいい線は行っていた。

 オレは写真の裏面を剥がすと、そのままトラックの扉に、ビターン、と勢いよく貼り付ける。

「あぁ! なんてことをするんだよ! 変なところに貼らないでくれよ、もう」

 すぐさま非難の声が飛んでくるが、気にしない。

「なにやってんだ、隠れるぞ」

「えぇー? あ、ちょっと、離せ、ああ……」

 わめく東香の腕を掴んで、近くにある木々の後ろまで引っ張っていく。

 そうしてしっかり隠れた後、

「君、今日は強引すぎるよ。いったいなんで隠れるのさ?」

 オレの肩をねじ切らんばかりの勢いで掴んでくる東香に、答えてやる。

「さっき言った通り、不良は縄張り意識が強いんだ。だから、もうすぐここに見回りにくるはずなんだ。そいつらと、いきなり鉢合わせは嫌だろ?」

「え、でもまだ午後の授業ある時間だよ?」

「不良は午後の授業なんか出ねえよ……」

 呆れながら、説明を続ける。

「不良は暴走族と違って夜には帰るからな、この時間帯にけっこう活動してるもんだ。そりゃ、夕方からのパトロールじゃ、見つけられないはずだぜ。それに奴らは、自分のシマの事を自室のことくらい熟知してる。素人がこっそり監視カメラなんか設置しても、すぐにバレるのは当然だな」

「ふーん、そんなに手強い相手だったのかぁ……。なるほどね、だから授業をサボってでもこの時間に見に来なくちゃいけなかったのか」

 トリビアを聞いているかのごとく、普通にうんうん頷いていた東香だったが、すぐ顔を上げた。

「でも、どうしてそこで私の写真が出てくるのかな?」

「ああ、そんなことか」

 木々の向こうに見える軽トラックの扉。そこに貼られた東香の写真をオレは指差す。

「不良にとっては、神聖な『プレス』を、ああやって誰かに汚(けが)されるのは許せないことだ。だからもしこの事件の首謀者がここに見回りに来たら、カンカンに怒って集まってくるだろうな」

「あぁー、なるほど。そうやって炙り出せるのか……って、『汚す』ってなにさ!」

「うるさい、騒ぐとバレるからやめろ」

「これが騒がずにいられるものか!」

 ―そうして、一時間くらいは近くに潜んで待っていただろうか。

 ついに、〝そいつら〟はやって来た。

「おいマヒロ、先週のケン、覚えてるか?」

「ケン……って、もしかして『喧嘩』のことですか? 相変わらず省略しすぎですよ、ハジメ兄さん」

「押忍、覚えてるよ。凄い果し合いだったよね。ま、当然俺らの圧勝だったけど。……だよなあ、タツ?」

「おぉう、もちろんだぁ。タイチ……」

 人数は四人。

 見るからに粗暴そうな男子たちがそれぞれに喋りながら、学ラン姿で公園の中に入ってくる。

 彼らの身長や体格はバラバラだったが、唯一、共通している部分があった。

 それは顔だ。

 四人とも、どこか目鼻立ちが似ていたのだ。

 その異様な集団を見て、オレは電撃に打たれたような感覚を覚えた。

「……そうか、だから『カワウラ』だったのか」

 すべてを思い出し、唇を噛みしめるオレを、不安そうに東香が覗き込む。

「あの連中グループのこと、なにか知ってるのかい?」

 知ってるのか、だと?

 無知な東香の言葉に、オレは少しだけ頬を緩めた。

「この島に通ってる不良で、知らないやつはいないだろうな。あいつらのことを」

 深呼吸を一つしてから、東香に告げる。

「……あいつらのチーム名は『川浦兄弟(かわうらきょうだい)』。涙橋の向こうにある、駅の隣の東村ひがしむら中学校を仕切ってる四兄弟だ」

 これは少し、面倒なことになったようだ。


【Ⅳ】ハッピーバード公園(下)

「その、『川浦兄弟』っていうのは有名な不良 組織(アソシエイション)なのかな?」

「ああ」

 公園中央のベンチ周りでたむろする四人組を眺めながら、この手の情報に疎い東香に教えてやる。

「あいつら四人は、みんな兄弟なんだ。そして全員、最近じゃ珍しい筋金入りのワルだよ」

「なるほど、言われてみれば顔立ちが似てるね」

 東香は、隠れいている木にの裏から身を乗り出すように兄弟を観察している。

 オレも東香の隣に立ってみると、こちらまで兄弟の会話が聞こえてきた。

『しかし、あの業者はまだ諦めていないようですね。我々が、これだけプレスを書き込んで脅しているというのに』

 そうやって嘆いて見せたのは、兄弟の中でも一番身長の大きい少年だ。すらっとしている上にメガネをかけた好青年らしい見た目だが、なぜか小脇に大学の赤本を抱えている。

 オレは隣の東香にささやく。

「今喋ったノッポの名前はマヒロ、川浦マヒロだ。東村中学校三年で、一家の次男だな。見た目は一番不良っぽくないが、悪い噂ばかりのれっきとした不良だ」

「どうして赤本抱えてるの?」 

「たしか、兄弟の中では一番賢いって自信があるから……だったような」

「けっこう形から入る人なんだね……」

 呆れる東香。

 ベンチの方では、マヒロの言葉に別の男が頷いている。

『おう、たしかにそれは問題だな。今度は重機(ジュウ)を壊してやるか』

 この男は、兄弟の中でも一番顔立ちが濃く、老け顔だ。だが、そのがっちりとした体格も相まって、見た目の印象は一番恐ろしい。

 隣を見ると、東香が「うわー」という引いた顔をしてた。

 まあそんな顔になるのも無理は無いか。

「あいつの名前は川浦ハジメ、そして四兄弟の長男で、リーダー的な存在だ。見た目があんなんなのは、今、中学五年生だから」

「中学五年!?」

「ああ、留年二回っていう驚異的な記録で、ずっと東村中の頭やってるらしいぜ。まあ、本当なら高校二年生な訳だから、中学生が勝てないのは当たり前か」

 視線先のハジメはまだぶつぶつ言っていた。

『また業者(ギョウ)が来たら、ボコボコにしてやるか』

 マヒロが答える。

『早まらないで下さい、姿を現したら引っ張られてしまいますよ』

 そのやり取りを見ていた東香は、首をかしげていた。

「……なーんか、あのハジメって長男の喋り方、ヘンじゃないか?」

「それをお前が言うのかよ……」

 いつも英語混ざりの変な言葉使うくせに。

「今は私の喋り方は関係ない! とにかく、さっきからジュウ? とかギョウ? とか、不自然なワードが頻出しすぎじゃないかい?」

「そうだな、聞いた話によれば、ハジメは馬鹿すぎて言葉を短縮するクセがあるらしい」

「それはやばいね」

「お前の喋りもだがな」

 東香との短いやり取りのさなか、前方からまた別の声が聞こえた。

 ハジメとマヒロの目の前のベンチに座った少年が、すくっと立って口を開いている。

『押忍、そういえば、兄貴達に話があるんだよ』

『なんだ』

『どうしました?』

 少年は、そちらを向いたハジメとマヒロに答える。

『最近、この公園に怪しいやつが出てるらしいんだよ』

 怪しいやつ、か。ま、お前らのほうがよっぽど怪しいけどな。

 内心ツッコミを入れるオレを、東香が振り向く。

「彼は?」

 おっと、兄弟の会話に夢中になって説明を忘れていた。

「あいつの名前は川浦タイチ、中学二年生の三男坊だ」

 タイチの見た目は、兄弟の中では一番小柄だ。日焼けした浅黒い肌の持ち主で、他の兄弟とは違って学ランは着ずに、半袖のワイシャツ姿をしている。はた目から見れば、運動に打ち込んでいそうな元気少年、といった見た目の少年だ。

「可愛い感じの子じゃないか、彼も不良なのかい?」

「残念ながら」

「えー」

 確かに、押忍! と、いちいち張り切っているタイチの姿は、女子からはかわいらしく見えるかもしれない。それにやつは、実際に空手道場に通っていたらしいから、見た目から受けるイメージもあながち嘘では無いだろう。

 だが、

「あいつ、兄弟の中じゃ一番凶悪かもしれないぞ。通ってた空手道場も、試合で反則しまくって、そのうえ対戦相手を何人も破壊して、破門になったって噂だ」

「どうしてあの兄弟はそういう子ばっかりなのかなぁ……」

 東香は頭を抱えていた。

 さて、ひそかに失望されているとも知らず、前方の兄弟は話を続けている。

『怪しいやつって、誰だタイチ?』

 ハジメが尋ねる。

『押忍、実はその怪しいやつを見たのは、タツなんだよ』

 そう答えたタイチの口からは、新しい名前が飛び出してきた。

 すると、タツ、という名前に反応して、別の兄弟がベンチから立ち上がる。

『そぉだよ、オレ見たんだ。夕方に怪しい女がうろついてたのを』

 今日一番の大声で答えたその少年は、まるまると太っていた。遠目から見ると、まるで大きなジャガイモが喋っているようだ。

「おい広くん、彼は?」

 すぐさま東香が聞いてくる。

「あいつは末っ子の川浦タツ、通称『暴食(ぼうしょく)のタツ』だ。二つ名の由来は……まあ、見ればわかるだろ」

「末っ子なの!?」

「ああ見えても十三歳だぞあいつ、力士みたいな体格のせいで、年齢がわかりにくいかもしれないが」

「ほんとに、色んな人がいるよね。でもよし、これで四兄弟全員を把握できたぞ! 上から順番に、ハジメ、マヒロ、タイチ、タツ、だよね」

 嬉しそうに川浦兄弟の名前を読み上げる東香だったが、そんなに呑気でいいのだろうか?

 オレは彼女の肩を叩く。

「おい、ふと思ったんだが」

「なにかな?」

 こっちを向く東香の目の前で、前方を指差す。

「あいつらがしてるのって、お前の話じゃね?」

「え、」

 兄弟たちの話は、ヒートアップしていた。

『それは大変な事だ、俺らのシマで部外者にウロチョロされたら困るわ』

 と、ハジメ。

『ええ。その怪しい女、見つけたら徹底的にボコボコにしましょう』

 と、マヒロ。

『押忍!』

 と、タイチ。

『わかったぁ』

 と、タツ。

 彼らの話題に上がっている「怪しい女」とは、どう考えても、最近ここを偵察していた東香のことだった。

「どうすんだお前? 見つかったらボコボコにされるらしいぞ」

 ラフに尋ねてみると、東香が青い顔で一歩後ろに下がる。

「いや待て、どうして私が偵察してたのがもうバレているんだ? 指名手配が早すぎるんじゃないかな」

「不良の世界っていうのは情報網が凄いんだよ。あいつらやることが無いからってしょっちゅう井戸端会議してるから、ご近所のママ友くらい情報共有のスピード速いぞ」

「そんなぁ!」

 じりじりと後退し続ける東香だったが、途中ではっとしたような顔をして立ち止まる。

「いや待てよ、どうして正義の執行者である私が逃げ隠れしなくちゃいけないのか。そうだ、ボコボコにされるのは彼らの方なんだよ」

 そして東香は、足元に置いていた通学鞄から携帯を取り出す。

「これだ! これさえあれば川浦兄弟はおしまいさ」

 なーんか嫌な予感がするが、しばらく見守ってみるか……。

 無言で突っ立っていると、東香は木々に隠れ携帯を開くと、おもむろに兄弟の方を隠し撮りし始めた。

 ―そしてそのまま十五分ほど、東香は公園で起きることを撮影し続けた。

 そのあいだに、川浦兄弟は公園をぐるぐるとパトロールし、監視カメラを改めてスプレーで塗りつぶし、近所の壁に新しく落書きを描いた。

 それらの様子を全てカメラに収めて、東香はほくそ笑む。

「……やった、こうして証拠さえ掴んでしまえばあとはこっちのものだよ。これを然るべき場所に提出して、彼らに制裁を与えてやろうじゃないか」

「相変わらず思考がナチュラルに悪どいなお前、ちょっとは戦おうとか思わないのか?」

「喧嘩は技術、だよ。私は情報戦で迎え撃っているまでさ」

 まさに、ものは言いよう、といった感じだが、そのやり方も間違いではないだろう。正直最初は、オレが直々に腕を振るって兄弟を全員倒して解決しようかとも考えていたが、こうして不良と呼ばれる人種の行動を客観的に見てみると、悪ぶって腕力で解決するのもバカバカしい気がしてきたのだ。

「そしたら、もう帰ろうぜ」

「だね、私もここに立ちっぱなしで、そろそろ飽き飽きしてたんだよ」

 あとは東香がなんとかしてくれるだろう。

そんなことを思いながら、隠れていた木の影を飛び出した、その矢先だった。

『おいタツ、その女っていうのはどこを見てた?』

『あっちだぜぇ、ハジメ』

 短いやり取りの直後、遠い位置にいた兄弟たちが、一斉にこちらを向いた。

 しまった、と思うがもう遅い。すぐにこっちを向いたハジメと目が合ってしまう。

『おい、おめえら! そこで何やってる!』

 すぐさま怒声が飛んだ。

 同時に、ハジメの一声で顔色を変えた兄弟たちが、こっちに駆けつけてくる。

「あーあ、やっちまったな」

「やっちまった、じゃないよ! なんとか、なんとかならないのかい?」

「もう無理だ。今逃げたらどこまでも追いかけてくるぞ。やつらは手下が沢山いるだろうし、ほうぼう探されたら絶対に逃げられない」

 話しているうちに、オレたちはあっという間に川浦兄弟に囲まれていた。

 とっさに顔を伏せたところで、最初に到着した俊足のタイチが話しかけてくる。

『押忍! なあお前ら、まだ学校が終わるには速い時間だけどさ、ここでいったい何してんだ?』

 その口調は落ち着いていて、別に喧嘩を吹っかけているというわけでもないらしい。もしかすると、ここは乗り切れるかもしれない。

 オレは顔を伏せたまま、できるだけか細い声を作る。

「……あの、えーと、僕たちは、その、デートに来てただけで」

 言った瞬間、

「えぇ?」

 すぐさま隣の東香が絶句する声が聞こえた。

 が、

「ちょっと君、私はデートなんっ―痛ぁっ!」

 すぐに東香の足を踏みつけて、そのよく回る口を黙らせる。

「恥ずかしいんですけど、学校を抜け出して来たんです……」

『おお、やるねぇ』

 タイチはオレの設定におおよそ納得してくれたようだが、すぐさまマヒロが話しかけてくる。

『なるほど、デート、ですか。……ところで君たちのそのブレザー、塔銘学園中等部の生徒ですよね? ならば、この公園が工事中であることも知っていたと思いますが、どうしてここをデート場所に選んだのでしょう』

 鋭い質門だった。さすがは赤本抱えているだけある。

 冷や汗を垂らしつつも、オレは「恐怖で顔を上げられない」という感じを演出しつつ答える。

「それは……えと、歩いてたら、自然とここに出ちゃいまして……」

『そうでしたか、それは間が悪かったですね』

 マヒロはバカ正直に納得した。

 やはり川浦一家の中で頭脳がトップと言っても、所詮は下の上だったようだ。

 最後に語りかけて来たのはハジメだった。

『細かいことはいい、だがおめえ、良いタイ、してるな』

「タイ?」

『ハジメ兄さんは、良い〝体格〟してるな、と言いたいようです』

 マヒロの注釈で、やっとハジメの言いたいことがわかった。そして、それが一番まずい質門だということも、同時に理解した。

 弱虫のくせに、体格が良すぎる。そう指摘しているわけだ、ハジメは。

「……バレー部なので」

 なんとかそれだけ絞り出すと、ハジメはそれには答えずに東香の方を向いた。

『そういえば隣の女は、タツの見たやつか? この、妙な腕章の女だ』

 まずい。

 完全に東香のことを忘れていた。そういえば川浦兄弟はそもそも東香を探していたのだ。そしてその張本人がここにいる、となればもう言い逃れはできないだろう。

 オレはビクビクしながら、死刑判決を待つような気持ちでタツの返答を待った。

 やがて、背後からタツの声が聞こえてくる。

『うーん、そぉいやよく覚えてねぇなぁ。制服を着た女だったってことまでは、なんとか覚えてんだけど……』

 え?

『この馬鹿者が! なら良いです、その制服っていうのは、塔銘学園のブレザーでしたか? 腕章は付けてましたか?』

『いや、それもぉ……。てか、ブレザーってみんな同じじゃないんか?』

『違いますよ!』

 崩れ落ちるマヒロに安堵する。

 どうやらタツの底知れないバカさ加減に助けられたようだ。

 ちらりと顔を上げると、正面のハジメも興が醒めたらしい。

『おめえら、もう行っていい。今度から近づくんじゃねえぞ』

 オレたちにそう言ってくるりと方向転換した。

 そんなリーダーの様子を見て、周囲の兄弟たちも後に続く。どうやら今回ばかりは、血を見ずに済ませてくれるようだ。

 遠ざかっていく兄弟たちの背中を見ながら、オレはその場にへたり込む。

「はー、緊張した。助かったな」

「そのようだね。一時は、広くんが質問に詰まったせいでどうなるかと思ったけど」

「いや今回は九割がたお前の責任だからな」

 安心しきって、言い合うオレたち。

 すると、前方に駐車してる軽トラックの方向から、一つの声が聞こえてきた。

『押忍、見てくれよ兄貴、この軽トラになんか貼ってあるよ!』

『どうしました?』

『……タイチ、おめえ……これ』

『おぁ、これさっきの女の写真だぁ!』

 前言撤回。

 オレたちは全然助かっていなかった。

 落書きに貼られた東香の写真(東香とドキドキの放課後アフタースクール)を発見した川浦兄弟たちは、オレの予想通り、期待通り、全員顔を真っ赤にしてこちらに帰ってきた。

 オレも東香もあっけに取られていたが、最初に動いたのは東香だった。

 携帯の画面を開いて、兄弟たちに向ける。

「ああ、そうだ! そこの不良の君たち、これを見なよ!」

 そこには兄弟たちの悪事の一部始終が、動画で流れていた。

 おそらく東香は、それで兄弟たちの足が止まると思っているのだろう。だが、彼女は不良という特殊な生き物の生態を、まるでわかっていない。

『その動画(ドガ)がどうした! おめえらを倒して、奪えばいい話だ』

『そうです。それに、別に警察に言ってもらっても構いませんよ。私たちがあなたをボコボコにした後にね!』

 そう、このように、彼にとって権力や法というものはまったく敵ではないわけだ。

 捕まらなければいいな、くらいには思っているだろうが、基本的に彼にとって大切なのはプライドだ。大事なチームの象徴を汚されたという怒りさえあれば、川浦兄弟は火の中にでも飛び込んでいくだろう。

 ま、こうなったら仕方ない。

「ちょっと、止まってよ! なんで……」

 オレは携帯を掲げながらあたふたしている東香の横を抜けて、その前に立ちふさがる。

「下がってろ」

「う、うん」

 東香はすぐに背後の茂みに消えていった。

 さて、と。

 両手の拳を握り、ファイティングポーズで顔を上げると、すぐに兄弟たちと目が合った。

 すると、オレの顔を見たマヒロが、急ブレーキをかけて立ち止まる。

『はっ……みんな、ちょっと止まって下さい! まさか、あなたは……っ』

 息を飲むマヒロに、ハジメやタイチ、マヒロも足を止めて、オレの顔をまじまじと見た。

『なるほどな』

 最初に口火を切ったのはハジメだった。

『おめえ、よく見りゃそのツラ、津川 広か。後輩(コウ)から話は聞いてよく知ってるぞ。つい最近名を上げたワルだとな』

 やはり川浦一家にもオレの顔は知られていたらしい。身から出たサビだが、こうも他校の不良にまで顔写真や情報が出回っているとなると、おちおち外出もできない。

 オレの名前が出た瞬間、タイチとタツが顔を見合わせる。

『こいつが、例のアイツか』

『おぉ、それなら聞いたことあるぞぉ! 津川 広、あだ名は〝部員―』

 言わせるか。

 オレはタツの言葉が終わらないうちに踏み込む。

 そして正面に立っていたタイチとタツのあいだに割って入って、そのままハジメとマヒロの間もすり抜ける。

『あれ、』

『なんだぁ?』

 まさかいきなり飛び込んでくるとは思わなかったのか、タイチとタツは間抜けな顔で振り返る。

 遅れて、

『速いですね、動きは』

『おう』

 マヒロとハジメも振り返った。

 オレがこうして兄弟を一気に抜き去り、背後に回ったのには意味がある。それは、兄弟たちの視線を誘導して、オレの後ろに隠れた東香を見失わせるためだ。

もちろん、それは東香を想ってのことではない。自分のためだ。足手まといと離れたことで、オレはやっと戦えるようになった。

と、思ったが、驚くべきことに、東香はまだ兄弟たちのすぐ後ろにいた。大木の後ろに隠れながら、首だけ出してこちらの状況を伺っている。

 さらに、彼女は口パクでなにか言っていた。

 ……なに言ってんだ、あいつ?

 た、ん、か……いや、違うか。

 け、

 けん、

 け、ん、か、は、ぎ、じゅ、つ……。

 どうやら「喧嘩は技術」と、言っているようだ。この期に及んで、セコンド気取りらしい。

 そんな間抜けな姿に、少し緊張が緩む。

『なにを笑っているんですか?』

 すぐにマヒロが問いただしてくる。そうだ、今は喧嘩中だったのだ。

 でもまあ、喧嘩は技術、か。

 ここは彼女の忠告に従って、技術、で、停学にならないくらいに戦ってみるか。

 オレは一つ息を吸ってから、兄弟たちの方に叫んだ。

「かかってこいよ、群れなきゃ勝てない雑魚ども!!!」

 その瞬間、戦いは始まった。

『うおおぉ!』

 まず突進してきたのはタツだ、どうやらこいつは巨体を活かしてとにかく突っ込んでくるスタイルらしい。それに加えて、顔が怒りで真っ赤になっている。挑発にも弱いようだ。

 分析が終わると、オレは少し正面に倒れて衝撃を待つ。タツの強みがパワーなら、正面から受け止めてやるよ、

「来いっ」

と、見せかけて、オレはタツに足を掛けながら右に体ごとズレた。

『うぉっ……んあ!?』

するとそれに引っ掛かって、タツが派手に転んだ。

不意打ちで手を付くのも間に合わず、顔面から地面に衝突した。

 おお、痛そうだ。

 だが休んでいる暇はない、次にやって来たのはハジメだ。迫力ある顔を全力で歪めながら、勢いよく二の腕を掴んでくる。喧嘩慣れしてるだけあって、こうしてオレを捕まえておいて、そのあいだに他の兄弟にタコ殴りにさせる、という人数差作戦を考えたんだろう。

 なので、敢えてオレはハジメが腕を引っ張る力には逆らわず、その懐に飛び込んでやる。

『くそっ』

 それを見たハジメはすぐさまオレの手を離した。体の下まで潜り込まれてからのアッパーを恐れたのだろう。やはりなかなかの実力者だ。

 でもそれじゃ、オレを捕まえるのは失敗だ。これなら、現在進行系で背後を取られているタイチに対応することができる。

『貰った!』

 振り向くと、そう高らかに宣言するタイチと目が合った。

 すかさず彼の掌底を両手で包み込むようにガードして、そのままガッチリと右腕を掴んでひねる。

『痛っぁ、っと』

 タイチは関節技に軽く叫んだが、受け身を取って後方に飛び退いていった。さすがは空手出身者だけある。

 よし、次は……。

『こっちですよ』

「うっ」

 その瞬間、背中に重い痛みが走った。とっさに後ろに飛んで距離を取ると、すぐ近くに赤本を振り回すマヒロが見えた。どうやら赤本の角が肩甲骨のあたりに直撃したらしい。

「くそ、いってぇ……」

ここは体の中でも硬いところだったのでまだセーフだが、あの長身から振り子のように繰り出される、辞書のような赤本の一撃を肋骨などに喰らえば、即病院送りだろう。

 危なかった。

 やはり、川浦兄弟は喧嘩慣れしている。密集空間でもしっかりとコンビネーションを合わせて来るので、想像以上に人数差が厳しい。

 兄弟の攻撃を避けまくって疲れさせ、優しく倒すつもりだったが、これでは避けている最中に一発くらいは貰ってしまうだろう。

『さあっ!』

 またマヒロの攻撃が来たので、オレは全力で後ろに下がる。すると、兄弟たちの様子をよく見ることができた。

 ハジメはこちらにじりじりと近づき、

 マヒロは赤本をこちらに向け威嚇、

 タイチは空手流の構えを取っている。

 そしてまだ倒れているタツは……怪しい動きをしていた。

『う……うぅ……』

 タツはうめきながら地面から立ち上がり、顔を上げる。見ると、タツはその丸っこいおでこを擦りむき、鼻からひどく出血していた。どうやら自分の体重のせいで、転んで顔面をぶつけた時に大怪我したらしい。

『大丈夫(ジョウブ)か、タツ』

『酷い鼻血ですよ』

 兄弟も心配してタツに話しかけるが、タツはそのでっぷりした腕で鼻を押さえたまま答えない。ただオレの方をにらみつけるだけだ。

 この目は……やばいな。

 今までの経験からすぐに分かる。今のタツは、冷静さを失って怒りに支配されている。そして、こういう状態のやつは、文字通り何でもする。

 次の瞬間、タツは唸りを上げた。

『なめんなよぉ!!!』

 吠えながら、タツは懐から何かを取り出した。それは、太陽の光に照らされて、キラリと反射する。

 間違いない、ナイフだ。

 タツは小ぶりなナイフを振り上げ、前にいたハジメを押しのけながら迫ってきた。

『ぶっ殺してやる』

 中学生にして七十キロはいっていそうな巨体が、全速力でこっちに向かってくる姿は、さすがにゾッとする。

 だが、こういう相手のあしらい方は知っている。

 死ぬかも、という恐怖と戦いながら、直線的なナイフの軌道を避け、タツの背後に回る。

 そしてオレは、後ろからタツの背中を思いっきり押した。

『うおぉっ!』

 断末魔を残して、タツは近くにあった軽トラの側面に突っ込んだ。怒りすぎて勇み足になっていたのだろう、ベゴッ、というものすごい衝突音がした。

 よし、これで一矢報いた。

 ……逃げよう。

 オレはなおも詰めてくる兄弟に背を向けた。

 いくら喧嘩に自信があっても、さすがに武器を持った相手と戦い続けるのは無理がある。東香は逃したし、兄弟の体力も削った。それでも彼らの子分に追い回されるかもしれないが、まあ、頑なに家から出なければいつか諦めるだろう。

 喧嘩では、こういう臨機応変さも重要なのだ。

『おいっ! 〝部員殺し〟!』

 だが、まさに駆け出そうとした一瞬、誰かが叫んだ。

 それはハジメの声だったか、それともタイチだったか。それはどうでもいい。

 その言葉が聞こえた瞬間、足が止まっていた。

 オレは振り返る。

「今、何て言った……?」

 見ると、軽トラの横からタツが立ち上がるのが見えた。タツは体を抑えながら、声を震わせる。

『〝部員殺し〟、逃げんじゃねーよぉ! バレー部をヤった時みてぇに、根性見せてみろやぁ!』

「…………。」

 こいつだったが、オレを、「部員殺し」と呼んだのは。

 そうこうしているあいだに、オレはまた他の兄弟に囲まれていた。だが、それでもオレの心は不思議と落ち着いて、タツの姿を追っていた。

 部員殺し、それはオレがバレー部で問題を起こした時に名付けられたあだ名だ。

 そしてそれは、オレにとっては禁句だった。その言葉を口にしたやつは、誰それ構わず病院送りにしてやった。

『どうした、〝部員殺し〟! 何とか言えよぉ!』

 タツはまだ叫んでいた。

 同時に、兄弟からの連撃が襲いかかってくる。

『死ね』

『死んで下さい』

『死ねよ』

 ハジメに殴られ、赤本でぶっ叩かれ、タイチの掌底で鳩尾をやられる。

 後方に倒れながら、オレは考える。

 今オレは、果たして怒っているのか、と。

「うっ」

 さらに、背後から誰からの蹴りを喰らいながら、倒れることもできずに考える。

 そうだ。

 オレは……怒っていない。

 もう〝部員殺し〟と蔑まれても、オレの心は湖面のように静かに、波一つ立たない。

 そうか、オレは乗り越えていたのか。

 あのトラウマを。

 もう、負けてもいいか、という気分になりかけていた。だが、そんな時に限って、オレの目は余計なものを捉える。

 あの日、東香の水槽を見つけた日のように。

『お前なんかぁ、俺ら兄弟にはっ、勝てねぇんだよぉ!』

 タツはそう言って、ナイフを振り上げると、怒りにまかせて、刃を軽トラに向かって振り下ろす。……その一撃は、見事に東香の写真を捉えていた。

 写真の中の彼女の上半身に、深い切り込みが入る。

『このぉ、このっ、このぉぉぉ!』

 タツはそのまま何度も、何度も東香の写真をナイフで突き刺し、切り裂く。自分の怒りを、発散するためだけに。

 それを見た瞬間、オレの中に、めらめらと熱いものが流れ出した。その未知のエネルギーはそのまま全身を駆け抜けて、叫びへと変わっていく。

「それに、触れるな!」

 その瞬間、わかった。

 オレは怒っている。今度こそ、怒っている。

 やっと、自分の過去のためではなく、他人のために怒っている。

 そこからは、衝動に任せるままだった。

 体を振り回して兄弟の包囲を抜け、油断していたタツのもとへと突進する。

『お、お前っ』

「どけ」

 オレは、全力でタツをぶん殴った。腕を限界までしならせ、バレーで鍛えた体幹の軸を使って、相手を効率的に破壊するように打ち付けた。

『ブッ……』

 口の中を切って、大量の血を吐き出しながら、タツは地面に倒れて動かなくなる。

『あなた、よくも……っ』

 背後から、マヒロが来ているのはわかっていた。こいつは足も長いし上背もあるため、攻撃が届くスピードが異常に速く、避けにくいのだ

 だから、オレは攻撃を避けなかった。右腕を軽く頭に寄せるL字ブロックで赤本を受け止め、そのまま左腕で、マヒロの赤本を奪い取る。

『なっ……!』

 驚愕するマヒロを片目に赤本の表紙を見てみると、「東京大学」と書いてあった。

「……お前には、これは猫に小判だな」

 言いながら、背表紙の角を全力で振り下ろす。本を高く掲げた位置から、重力と体のバネで加速させた一撃を。

『ゴァッ』

 奇っ怪な音を口から鳴らして、マヒロは地面に沈んだ。

『押忍、どこ見てんだよ?』

 と、腹に鈍い痛みが走る。どうやらタイチに懐に潜り込まれてしまっていたようだ。

 タイチはそのまま、掌底で鋭い連撃を繰り出してくる。

 ま、そんなもの、至近距離からバレーのスパイクを叩き込まれるのに比べれば、何でもないのだが。

『止めだよ!』

 最後に、タイチは足を突き上げて、全力で金的を狙ってきた。空手出身なのに、清々しいまでの反則っぷりだ。

 なので、オレは指を組み替えて拳をメリケンのように尖らせ、タイチの蹴りの方に向けた。

『なぁっ!?』

 次の瞬間、タイチは足を抑えてしゃがみ込む。オレの拳に自分から蹴り込んでしまった形なので、相当痛いだろう。今ごろ、スネを角材でぶん殴られたような激痛に襲われているはずだ。

 だが、こいつはまだ戦えそうだ。

 オレは倒れたタイチの髪の毛を鷲掴みにして、無理やり上半身を起こさせる。

「さっき、お前オレに『死ねよ』って、言ってたよな」

『う……それ……は……』

「お前が死ね」

 オレは髪を離すと、そのまま躊躇なく、地面に転がったタイチの脇腹を全力で蹴り上げた。

『…………ぁう』

 空気が漏れる短い音と共に、タイチは腹を抑えてぴくりとも動かなくなった。

 そして、ハジメだけが残される。

 ハジメはボクシング風に腕を構えながら、こっちを見て呆然としていた。オレと、地面に倒れる兄弟を見比べながら、疲れたように激しい呼吸をしている。

『おめえ、よくもオレの兄弟(キョウ)たちを……』

「なんだ、緊張してんのか? ろれつが回ってないぜ」

『くそっ』

 ハジメは老け顔をくしゃくしゃに歪ませて、拳を振り上げて襲いかかってきた。

 なるほど、いい度胸だ。さすがは最年長。

 オレはどこか醒めた気分でその一撃を……顔面で受け止める。

『んなっ……?』

 ハジメは自分の拳が当たったことにむしろ驚いているようだった。だが、このノーガード戦法こそが、先輩からボールを顔面にスパイクされるのが当たり前だった、非常識な運動部出身のオレには合っていた。

 それに、パンチがヒットした後には、必ず隙ができるもんだ。

 歯を食いしばって痛みに耐えながら、オレはハジメが突き出した拳を、左手で掴む。

 もう、逃げられないように。

 それに危機感を感じ取ったのか、すぐさまハジメがほどこうとするが、もう遅い。

『離せっ、ヒロ―』

「誰に頼んでるんだ? オレは血も涙もない〝部員殺し〟なんだろ?」

 オレは拳の底面で、ハジメの額を鋭く、重くぶん殴る。まるで、トンカチを振り下ろすように、全力で。

『ゴァっ……ぅお』

 たったの一撃で、ハジメの目が開き、力が抜けて虚ろな表情になった。

 はっきり言って、もう勝負はついているだろう。

 だがオレは休まない。

 そのまま、

 次、

 次、

 次、

 次。

 ただひたすら、怒りに任せてハジメを殴り続けた。

 だが、もうあと十発は叩き込んでやろうと思ってまた腕を振り上げた瞬間、

「待て! もういいだろう!」

 オレの拳は、後ろから誰かに掴まれ、止められていた。

 恐る恐る背後を見る。

 そこには、泣きそうな表情を浮かべ、背伸びしながら必死にオレの右腕を掴む東香の姿があった。

「東香……お前、逃げたんじゃ」

「私が君を置いて逃げるものか! あれからずっと見ていたんだよ、広くんの戦いを」

 オレの手を捕まえる東香の力は非力だった。だが、まるでそこに万力のような強烈な力が働いているかのように、オレはもう少しも腕を動かせなくなっていた。

「もう、いい。離せ」

 息を吐いて、拳を降ろす。すると顔から血を流したハジメが、その場にズルズルと倒れ込んでいった。

 手を開いてみると、川浦兄弟の返り血で真っ赤に薄汚れている。そしてそれは、オレの腕を掴んでいた東香の両手もそうだった。

 彼女の小さな手のひらにべっとりと付いた血を見て、オレは自分のしでかしたことを理解する。

「悪い、いや、ごめん。オレは……」

 尻すぼみになるオレの言葉に、東香が弱々しく微笑んだ。

「ダメじゃないか、こんな力任せに戦ったら。せっかく私が『喧嘩は技術』だと教えてあげたのにさ」

「悪かった。お前の写真がタツにやられたのを見たら、なんだかな」

 正直に言うと、少しだけ東香は頬を赤くした。

「なんだよ、もう、照れくさいな。あんな写真ごときで、どうかしてるよ!」

「確かに、どうかしてた」

「いやそうやって肯定されるのも、それはそれでムカつくけどね……」

 はー、っと息を吐き出しながら、東香は緊張が解けた顔でしゃがみ込む。

 オレのせいで、ずいぶん怖い思いをしたのだろう。

 申し訳なさで東香に目を合わせられないまま、オレも地べたに崩れた。

 すると、膝に置いた手の上に、突然東香が手の平を重ねてきた。そしてそのまま、東香はオレの手を右手を、両方の手で優しく握る。

「なんだよ?」

「……なんでも。こうしたい気分なのさ」

「へぇ」

 東香はきっと、そうしてオレを慰めようとしているではない、オレが逃げ出さないように手を握ってきたのだろう。そんな気がした。

 オレたちはそうして、少しのあいだ黙っていたが、やがて我慢しかねたように東香が口を開く。

「一つだけ、聞いてもいいかな?」

「なんでもどうぞ」

「その、さっき君と川浦兄弟とのやり取りが聞こえてしまったんだけど。……君が呼ばれていた〝部員殺し〟って、どういう意味なのかな?」

 ……なるほど、そうきたか。

 少し迷ったが、それでも、今は逃げてはいけないような気がしていた。

 オレは今度こそ、東香の方にしっかりと顔を向ける。

「それは、オレのあだ名……って言ったらいいのか。まあ、二つ名みたいな上等なもんじゃねえよ、ただの蔑称さ」

「それは……」

「ああ、わかってる。お前が聞きたいのは、どうしてそんな蔑称をオレが付けられたのか、だろ?」

 東香が神妙に頷く。

 それを見てから、オレは覚悟を決めた。

 そして思いを馳せる。

 かつて、オレがバレー部のエースをやっていた時のことを。

 さて、

 オレが塔銘学園中等部に入学したのは、エスカレーター式で高等部に進学できるから、ではない。幼年のころからずっとやっていた、バレーの名門校だったからだ。

 昔のオレにとっては、まさにバレーが全てだった。そのために好きなものを我慢して食事管理をし、体を作った。勉強や遊びの時間まで削ってトレーニングをして、実力を鍛えた。

 そんなオレが学校をバレーで選ぶのは、必然だった。

 オレは塔銘学園に夢を見ていた。最新鋭の設備と、高いレベルの部活動。バレー馬鹿にとっては、夢のような生活が待っていると思っていた。

 だが、現実は違った。

 塔銘学園バレー部では、先輩による地獄のようなシゴキと、凄まじい格差が待っていたのだ。

 オレはそこで、地獄を見た。

 もとより、運動部というのは上下関係が厳しくなるものだが、塔銘学園はその比ではない。バレー部が専有する第二体育館という閉鎖空間のなかでは、力のある先輩やOBこそが法律だった。当然下級生に人権などなく、「スパイクの練習」と言って的にされたり、走り込み中に足を掛けられたり、来る日も来る日も、一年生は闘牛の牛のようにもてあそばれた。試合や練習でポカをすれば、暴力も、当たり前のようにまかり通っていた。

 だが、オレが最も許せなかったのは、そんな下級生の扱いではない。

 実力が無い者に向けられる、壮絶ないじめだ。

 新入生以上に辛いのが、実力の無い二年生や三年生だ。

 幸い、オレは徹底的に鍛えたバレーの経験から、新入生のうちにエースとしてチームに食い込めたが、誰もがそうなれるわけではない。当然、部員の中には、戦力的にあぶれる者が現れる。

 では、そうして2軍にすら入れない二、三年生はどうなるか。

 答えは簡単だ。下級生からはストレスのはけ口にされ、同級生や上級生からは馬鹿にされ、迫害される。それは部活の中だけではなく、学校生活でもそうだ。

 言わば、四面楚歌。まわりの全てが敵という状態だ。

 この状態は、半分学校の伝統のようなものになり、継承されていた。かく言うオレもそんな同調圧力の渦に飲み込まれて、おかしいとは思いつつも、バレーができるなら、と目をそらしていた。

 ―そしてそのまま、気がつくとオレは夏の引退試合を控えた3年生となっていた。

 だがある日、そんなオレを変えた事件があった。

 きっかけは、「高岩(たかいわ)」という二年生の後輩だった。

 高岩は、実力的には三軍並という迫害される立場だったが、それでもバレー愛だけは本物だった。他の実力無い部員は、たいていは、周囲からの理不尽やいじめに負けて部を去っていくのだが、高岩だけは違った。

 どんなことをされても、何を言われても、バレーがやりたいという熱意と、強豪の部活を率いるコーチへの尊敬だけで、耐え続けていた。

 一軍のオレが高岩と口をきく機会は少なかったが、そんな高岩の精神に、オレは憧れていた。いつかは彼に、報われて欲しいと思っていた。 

 だが残酷にも、そんな日は来なかった。

 その代わりに、忘れもしない九月のある日、二年の高岩に待っていたのは、冷酷な裏切りだった。

 今でも、はっきりと思い出せる。

 部活帰り、顧問が帰った体育館で、高岩はいつものように、引退試合を控えた三年生に絡まれていた。

「おい高岩、暑そうだな」

 そう言って、三年生はさっきまで雑巾を絞っていたバケツの中の水を、高岩に浴びせていた。だが、それでもへこたれず、表情を変えなかった高岩に苛ついたのか、三年生たちはやがて高岩を囲んで、暴力を振るい始めた。

 それはいつもとは違う、あまりに直接的で、露骨な暴力だった。そろそろ引退という時期なので、この場で完全に高岩を潰そうと考えたのかもしれない。

 だが、結果から言えば、そのリンチは長くは続かなかった。 

 オレが止めに入ろうとした瞬間、突然体育館の正面の扉が開いて、そこからコーチと顧問の先生が現れたからだ。さっき帰ったはずの彼らだが、どうやら体育館に忘れ物でもしたらしい。

 それは予想だにしない出来事だったが、オレはそれに安心した。今まで大人たちの目に触れることの無かった暴力が、ついに明らかになった瞬間だったからだ。

「あの、これは……」

 高岩の胸ぐらを掴んでいた三年生たちは、コーチと顧問に気が付くと、すぐさま手を離して整列した。だがもう遅い、高岩の様子を見れば、暴力が起きていたのは明らかだからだ。

 やっと、彼らにも天罰が下る時が来たのだ。

 そして一瞬の後、固唾を呑んで見守るオレの目の前で、コーチは言った。

「時計を持って来い」

 と。

 オレは耳を疑った、「時計」とは、練習の時に使う電子タイマーのことだ。おそらくコーチたちはそれを忘れたのだろう。だが、それを言うのは今じゃ無いはずだ。

 コーチが口にするべきなのは、高岩を心配する言葉、それだけのはずだ。

 呆然としていると、続いて顧問も言葉を発した。

「おいお前ら、あんまり羽目を外すなよ。以上だ」

 投げ捨てるように言って、顧問の男は背を向けた。

目の前で起きていた暴力と、高岩のボロボロになった姿から目を背けて。

 上級生が時計を持ってくると、コーチもすぐに出ていった。それも帰り際に、

「お前ら、試合前に怪我すんなよ」

 それだけ三年生に忠告して。

 信じられなかった。

 嘘だと思った。

 おそらくコーチたちは、最後の試合を前に問題を起こすことを恐れたのだろう。

 だが、間違いなく、大人たちはオレの目の前で、高岩の助けを求める声を黙殺した。

 そしてあろうことか、加害者である三年生の方を心配したのだ。

「っぶねー、どうなるかと思ったぜ」

「高岩、あと片付けとけよ」

 全てが終わった後、クスクスと笑いながら、三年生たちは高岩の前を通り過ぎ、やがて、オレの目の前を通りがかった。

 すれ違いざま、一人の男子がオレに言った。

「おい津川、お前も一軍選手なら、告げ口したりすんなよ」

 と。

 それからの記憶は曖昧だ。

 ただ、オレの中でずっとこらえていた何かが溢れて、目の前が真っ赤に染まったことを覚えている。

 とにかくオレはその後、思いのままに同級生を殴り倒した。そしてそのままコーチたちの後を追いかけてぶちのめそうとしたが、周りの部員に止められ、それは叶わなかった。

 羽交い締めにされながら、オレはずっと叫んでいた。

「おかしいだろ、こんなの! なあ、お前らはおかしいと思わないのかよ!」

 そうやって叫んでいた。

 それからは、もう色々なことがあった。

 オレのしでかしたことは学校内外で有名になり、いつしか〝部員殺し〟というあだ名まで付けられていた。もちろん、オレが殴った相手は死んだわけではない。せいぜい鼻を折ったやつが居たくらいだ。だが、やったことは十分に重罪である。

 オレは、最悪少年院送りを覚悟していた。

 しかし、そうはならなかった。

 オレに与えられた罰は、停学一ヶ月という、流血事件の主犯としてはごく軽いものだった。たぶん、あの日あったいじめが露見して、バレー部の名前に傷が付くことを教師たちが恐れて、穏便に済ましたのだろう。そんな意図が透けて見える裁量だった。

 だがオレはそれで終わる気は無かった。

 停学中の朝から学校に登校し、職員室に直接乗り込んで、教師たちにあの日のことを説明しようとした。

 だが、最初に会った顧問にはこう言われた。

「厳しい上下関係・実力主義は、長く続いて来たバレー部の伝統だ。お前の自分勝手で、それを曲げることは許さない。……お前のようなやつが、変えなくても良いことを変えようとして、社会の輪を乱すんだ!」

 その言葉に、オレは完全に幻滅した。

 どうやら間違っていることを間違っていると主張するのは、自分勝手らしい。

 オレの行動は何もかも、無駄に終わった。

 残ったものと言えば、オレがバレー部を退部処分になったこと。

 そして騒動の後、高岩がバレー部を退部したこと。

 それだけだ。

 オレはその日以来、大人を信用するのを止めた。

 正義を信用することを止めた。 

 誰かのために何かをする、という「自分勝手」を、完全に放棄したのだ。

 何もできなかった、自分への懺悔を込めて。

 ―話が終わると、東香がオレの手をぎゅっと、さらに強く握りしめた。

「そんなことが、そんな理不尽が……この学校に、まかり通っていたなんて……っ」

 彼女の表情は、珍しく怒りに満ちていた。どうやら共感してくれたらしい。

「そんな風に言ってくれるのは嬉しいが、まさか美談だとは思わないでくれ。オレも、何もしなかった側なのは事実だ。〝部員殺し〟って呼ばれて、当然の人間だ。高岩だって、オレが……」

「そんなことないよ、絶対。そんなことない」

 東香は首を振って、学校の方を見つめた。冷たい目つきだった。

 あたりはもう、夕焼けに染まっていた。切り裂かれた東香の写真も、落書きに塗りつぶされた遊具も、何もかもがオレンジに沈む。

 その時、背後でいくつかの影が動いた。

『う……』

 はっとして振り返ると、さっき倒した川浦兄弟たちが、倒れていた地面から起き上がり始めていた。

「お前ら、まだやる気か!」

 すぐさま立ち上がるが、

『違う、違うさ、ヒロ……』

『違いますよ』

『押忍……』

『違うぅ』

 兄弟たちは一斉に否定した。そして次の瞬間、

『俺たちは、感動した!』

 ハジメが叫んで、オレに駆け寄ってきた。そのまま東香を払い除け、オレの手を掴んで握手してくる。

「おい、なんだよいきなり!?」

『いやぁヒロ、おめえの勇気はすげえよ。巨悪(キョク)に一人で立ち向かったんだろ?』

「だから違うって」

 ハジメの手を払うと、今度はマヒロが掴んでくる。

『違くありませんよ。我々も日々、大人に反抗していますが、それでも良いんだ、というメッセージを貰えましたよ!』

「いや、メッセージの受け取り方間違ってるぞお前」

 今度はタイチだ。

『押忍! 兄貴って呼ばせてくれよ!』

「誰か兄貴だ馬鹿」

 そしてタツまでもが、

『むおぉ、感動した、おれぇ……』

「頭打っておかしくなったのか? お前」

 オレは、なぜか不良にもみくちゃにされていた。しかも、さっきの話のせいで勝手に慕われてしまったらしい。

「おい東香、助けてくれ……」

 やんややんやと、うるさい不良をかき分けて叫ぶが、返答は帰ってこない。

 代わりに、川浦兄弟が叫びだす。

『広さん、弟子にして下さい!』

 しねえよ! と叫ぼうとしたところで、背後から東香がやって来た。彼女はオレの代わりに、兄弟たちの前に立つと、口元を上げて言った。

「なるほど、君たちは広くんの力になりたいようだね。なら、名案があるよ」

 うわ……まさかこの流れ……。

 オレの心配もよそに、東香の言葉にハジメが食いつく。

『おう、何だ?』

それに東香が元気よく答える。

「君たち全員、私の作った『緑化サークル』に入りなよ!」

『緑化サークル?』

 全員からいっせいに質門が飛ぶと、東香は左腕の腕章を指で示す。

「ほら、これだよこれ。『緑化サークル』っていうのは、この辺りをもっと良くしよう! ていう団体でね、広くんも今はここに所属しているんだよ」

『そうだったのか!』

 兄弟たちのいちいち激しいレスポンスに、東香も満足そうに頷く。

 そして夕日をバックに、彼女は兄弟たちを見据える。

「で、どうするんだい? うちは他校の生徒も大歓迎だが、みんなで入るかい? 『緑化サークル』に」

 その問いかけに、兄弟たちはみんなで即答した。

『入りまーす』

 ……そうですか。

 こうして、我が部活には、四人の愉快な仲間が加わった。

 喧嘩に負けたくらいで、感動して仲間になるなんて、どんな不良マンガだよと思ったが、オレも人のことを言えた義理ではないということに、今さらながら気が付く。

 こんな時でも、東香はいつの調子だな……。

 そんな風に、苦笑しながら感心しかけた時だった。

 オレはやっと、彼女の違和感に気が付いた。

「ほら、入ったからにはすぐに活動を始めるからね。……そうだな、手始めに明日、ここの落書きをみんなで消そうか!」

『どうしてですか姐さん? あれは俺らの象徴なんすよ』

「はは、お忘れかなハジメくん? 我々にはもう、この『緑化』腕章という、新しい旗印があるじゃないか! 我々はもう仲間なのさ!」

『そ、そういうことでしたか姐さん。俺感動したっす! よし、それじゃ明日総出でプレスを消して、代わりに〝緑化〟の旗を建てるぞおめえら!』

『押忍!』『わかったよぉ』『了解です』

 そうやって口八丁手八丁で、上手く兄弟たちを誘導する彼女はいつも通りに見えた。

 だが、

「あれ、どうしたのかな広くん? 早くみんなで、帰ろうよ」

 そうやって語りかける彼女の目は、いまだ冷たく、冷めきっていた。

 口元は笑っているが、その目だけはずっと……。

「ああ、今行く……」 

 ふいに胸の中に湧いた不安を押し殺し、俺は彼女のあとに続く。

 暮れていく陽の光の向こうからやって来た、冷たい一迅の秋風が、俺たちの影を追い抜いていった。

 もう、冬の季節だ。


【終】グランドコーポ橋立

 川浦兄弟の加入によって、『緑化サークル』は少し大所帯になった。そこで、オレたちは活動する時に、まずはグラウンドに集まるようになった。

 兄弟たちはすっかり更生……というか、喧嘩や縄張り争いよりも、緑化という新しい活動に興味を持ったようで、ずいぶん東香に従順になっていた。最近は、最初に喧嘩で倒したオレよりもむしろ、みんなして『姐(ねえ)さん、姐さん』と東香とうかの方に懐いている。

 そんな、11月の頭。

 グラウンドに到着してみると、今日は川浦兄弟の姿は無かった。

 代わりに、久しぶりに東香がひとりだけで待っている。

「おい、今日はあいつらどうしたんだ?」

 率直に聞いてみると、東香は学校の校舎裏、公園の方を指差した。

「彼らが自発的に落書きを消したのは広くんも知ってると思うけど、今度はハッピーバード公園の工事を手伝っているらしいよ。なんでも、落書きを消してる途中に、業者の人と仲良くなったらしい」

「へぇ、ま、そういうとこ不良は単純だよな」

「君みたいにね」

 はいはい。

 オレは反論の言葉を飲み込みながら、次を促す。

「今日はどうするんだ? また植林とかやってもいいぜ」

「うーん、それもいいけど、あれは人手が多いほうが良いからね。今日はとりあえず告知だけだよ」

「ああ? 告知?」

「うん、じゃ、さっそく告知させてもらうね」

 勝手に話を進めながら、東香はオレに向き直る。そして、まるでとんでもなく重大な告知でもあるかのように、神妙な表情で口を開いた。

「……私、青柳東香はこのたび、『進級』が決まりました! いえーい!」

 そのまま東香はピースサインを作ってみせる。

 予想に反してどうでもいい情報だったが、十一月に進級の確定が来るのは、結構すごい。まあ、授業はほぼ皆勤、テストも優秀らしいので、もう進級に必要な単位を取り終わったということなのだろう。

 だが、それがどうでも良い情報であることに変わりはない。

「そんなことで招集かけたのか」

「まあまあ、そんなに怒らないでくれよ。これは私の将来にとって、重要なことなのさ」

「ただの進級がか? 中等部から高等部に進学できるって言っても、うちはほぼエスカレーター式だからありがたみないだろ」

 それに対し、東香は「わかってないなぁ」という風に片手を振った。

「そんなに意識が低いと、この先困るよ。高校に進学が決まったということは、ついに見えてきたということなんだから」

「何が?」

「『大学(ユニバーシティ)』が、だよ」

 言われてみて、ドキッとした。考えてみれば、もう三年後には大学受験という年頃なのだ。

 オレの周りの連中はみんな、高校受験が無いせいで浮かれているが、それと違い、東香はもう将来の受験を見据えている。

「そうか。お前は、その、どこの大学に行くとかもう考えてんのか?」

「もちろん! 具体的にはいくつかあるけど、とにかく政治が学べる大学に進学しようと思ってるよ」

 政治、たしかに東香に向いていそうな分野かもしれない。

「ところで、どうして政治なんだ?」

 反射的に投げかけた質門に、東香は拳を握りながら、力強く答える。

「私の将来の夢が、総理大臣だからだよ」

「はぁ?」

 その答えに、オレは少なからず動揺した。

 なぜなら、その、なんだ……。オレの夢も……。

「ふーん、そ、そうか。で、どうしてまた総理に?」

 とにかく聞いてみると、東香は自信満々に胸を張る。

「よくぞ聞いてくれたね。それはもちろん、総理大臣こそ最強の公務員だからだよ! とりあえず一回なっとけば、一生安泰だろうね」

「なるのに一生かかるんじゃないか?」

「なーに、四十代で総理になった人もいるんだ。私はそこら辺を狙っているからね、老後は政治献金で稼ぐぞ~」

 聞けば聞くほど、呆れた理由に幻滅する。

 これじゃオレが、密かに「世の中を良くしたい」と思って総理大臣になりたいと思っているのが馬鹿みたいだろうが!

 まさかそれを言い出すわけにもいかないが、東香の物言いはムカつく。

「本当に自分勝手だな、お前は」

 言ってやるが、東香はいけしゃあしゃあと反論してきた。

「これが生まれついての、私の性分だからね!」

 言ってろ。

 と、そこでオレはあることを思い出した。

「そうだ、公務員といえば、うちの学校の教員用マンションって凄いよな。総理大臣になんかならなくても、あそこに住めれば勝ち組な気がするぜ」

 オレは正面の校舎の右手奥、少し向こうに見える高層マンションを指差した。

 あそこは、この学園関係者しか入居できない豪華マンションで、設備の割に家賃が安いらしい。昔のこともあって教師は大嫌いだが、あれを見せられると、正直憧れすら湧いてくる。

 東香も頷いた。

「まったくだね。私もあの〝グランドコーポ橋立〟に住んでみたいものだよ」

 ん?

「ちょっと待て、その〝グランドコーポ橋立〟っていうのはまさか……?」

「いや違うよ! これは私が勝手に呼んでるわけじゃないさ、元からそういう名前なんだよ。ほら、『コーポ○○』とかよくあるだろう!」

 東香は顔を真赤にして否定した。

「そうだったのか、てっきりいつもの造語かと……」

 さすがに今回はオレに非があったかもしれない、と内省していると、東香は何かを思いついたように顔を輝かせた。

「そうだ! 今度はあのグランドコーポ橋立を緑化する、っていうのはどうかな?」

 それは東香らしい、突飛な提案だったことには間違いない。

 しかしオレは心なしか、いつもと様子が違うような気配を感じ取っていた。

 その一番の理由は東香の表情だ。彼女はいつもと違う、とても真剣な表情をしていた。

「……どうするつもりだ?」

 恐る恐る聞いてみる。

「そうだね、例えば……」

 例えば?

「例えば、マンションのテラスやベランダにある観葉植物に、勝手に水をやるってのはどうかな」

「……そうか」

 おれは東香のバカバカしい提案に少なからず安心した。さっき感じた違和感は、どうやら気のせいだったらしい。

「そんなんできるわけないだろ、あそこ入り口オートロックだぞ」

「そんなの壊してやるさ」

 こいつら本気でやりそうだ。

「止めとけ、せっかく進級決まったんだろ?」

「そんなの関係ないさ。それに、あいつらは痛い目を見るべきだよ……」

「え?」

 なんだ? 今こいつはなんて……。

 聞き逃した言葉を確かめる間もなく、東香はさっさと帰り道の方向へと歩き出してしまう。

 オレを置いてすたすたと歩きながら、東香は言った。

「二、三日以内には、グランドコーポ橋立を緑化する予定だから、よろしくね!」

 校門の向こうに小さくなっていくその後ろ姿を見送りながら、もやもやとした雰囲気に首を傾げる。

 いったいどうしたって言うんだ、あいつは……。

 あの時、数日以内には緑化を始めると言ったくせに、気がつけばもう十一月も半ばになっていた。

 もう二週間以上は、何の活動もしていない。川浦兄弟たちは『姐さんも忙しいんですよ』と東香を擁護していたが、今までのことを考えると、明らかに何かがおかしかった。

 授業が終わってから、オレは隣のクラスに直行する。

 今日こそは、東香にどういうつもりなのか問いただしてやろう。

 そう思っていたが、教室を覗いても東香の姿は無かった。彼女がいないことは、いつもの真っ赤な緑化腕章を探せばすぐにわかった。

 仕方なく、オレは手近なところにいた女子生徒に話かけてみる。

「おい、ちょっといいか」

「え……あ!」

 一人で帰り支度をしていたその女子は、オレの顔を見るなりぎょっとした顔を見せた。

 本当に自分の悪評が嫌になるが、ま、仕方ない。

 気にせず、質門を続ける。

「このクラスにいる、青柳東香って女子探してんだけど」

 単刀直入に切り出すと、女子は因縁を付けられたわけではないことに気が付いたのか、少し表情を緩めて答えてくれた。

「ああ、東香さんなら、さっきすごい勢いで一階に降りてったよ。授業が終わるなりすぐ出てっちゃうから、びっくりしちゃった」

 一階か。

 オレたちの学年のクラスは、校舎の二階、昇降口の真上にある。つまり東香が一階に降りたということは、もう既にこの校舎を出ている可能性が高いということだ。

「そうか、ありがとな」

 すぐさま女子との会話を切り上げて、オレは隣のクラスの中へとずかずかと入っていく。

「え、ちょっと」「おい、あいつ隣のクラスの広だぞ」「まじ? また喧嘩?」

 東香のクラスの連中がオレを見てヒソヒソ話す声が聞こえたが、気にも留めない。

 オレはグラウンドに面した窓に駆け寄ると、ガラスに額をこすりつけるようにして外の様子を見た。

 そこは眺めが良かった。

 真下にある真っ青なゴムの校庭に、左手側に見える体育館、そしてその先の校門。

 どんなものも見逃すまいと、視線を飛ばしていく。

 やがて、

「……いた」

 オレは体育館の脇の影に、見知った後ろ姿を見つけた。距離が遠いので細かい部分は見えないが、左手に見える赤い腕章ですぐにわかる。東香だ。

 そのまま食い入るように観察していると、東香がいつもの学生カバンではなく、リュックを背負っていることに気が付いた。あのリュックはおそらく、いつだか桜を埋めた夜に持ってきていた、中学生女子には似合わなすぎる大きなリュックだろう。

 だが、いったい今日はあんなものをどうして……?

 そのまま見ていると、東香は、体育館の横に寄り添うように建てられた、小さなコンクリートの小屋のような建物の前で足を止めた。その建物は、縦長なコンクリートの直方体に、金属製の鉄扉が一つついただけの、簡素な施設だった。

 だが、あんな施設、この学校にあったか?

 記憶をさかのぼってみるが、あんな場所に心当たりはなかった。ということは、あそこは学生が普段立ち入るような場所ではないということだ。

 では、東香はそこで何をしているのか?

 もちろん、それもまったくわからなかった。だが、混乱するオレの前で、東香は鉄扉に近づき、その手前で屈んだ。よく見えないが、扉に細工をしているようにも見えた。

 まさかあいつ、あの扉を壊そうとしてんのか……?

 一気に血の気が引いた。

 オレはいてもたってもいられず、窓から離れて教室を飛び出す。

 よくわからないが、今東香に追いつかなくては、大変なことになるような気がしていた。

 息が切れるほど全力で走って、オレは例の鉄扉の前までたどり着く。

 近づいてみるとずいぶん真新しい建物で、鉄の扉はピカピカ、コンクリートの壁には傷一つ付いていない。

 だが、オレは扉を開くための金属製のノブを見て愕然とした。

 ……そのノブは、見るも無残に壊されていた。上部から何か強力な衝撃を受けたらしく、取っ手の一部が欠けて、付け根の金具はひしゃげて取れている。

 まさに首の皮一枚で繋がっている、という取れかけのノブの様子は、東香が金槌かなにかでこの扉を破壊したことを意味していた。おそらく、これは鍵を突破するための工作だろう。

 オレはノブではなく、壊れた金具の隙間に指を突っ込んでひねってみる。

 すると、ドアはたやすく開いて、中の景色が露わになった。

 その先の景色を見て、オレは息を飲んだ。

「これは……!」

 扉の向こうには、洞窟のように開けた空間と、無数に交差する水道パイプの群れがあった。

 後ろ手に扉を締め、目の前にあった階段を降りてみると、人二人くらいが通れるくらいの通路が奥に続いている。通路の両脇には小さなライトが点々と連なっており、ほんのり明るい。

 近くの太いパイプを見上げてみると、「塔銘学園中等部‐B」というプラスチックの標識が取り付けてあった。……どうやらここは、この島中の施設へと繋がる水道配管が通る地下スペースらしい。

 いったい東香は、ここで何をしようというのだろうか?

 奥の方を見ると、通路はパイプに沿ってところどころ左右に折れる道があり、迷路のような空間が続いている。

 ……さて、これは困ったぞ。

 ここまで来たは良いが、東香がどこの道を行ったのかがわからない。

 だから必死に考える。今までのどこかに、何かヒントが無かったか。

 思い出せ、最近のことを。東香は、なんて言ってた?

 思い出せ、彼女が行きそうなところを。

『涙橋スルース』

『大シャーク川』

『塔銘スクールミドル』

『ハッピーバード公園』

『グランドコーポ橋立』

 ……そうだ。

 確か東香は最近、グランドコーポ橋立を緑化すると言っていた。ひょっとすると、この地下空間のどこかには、あのマンションへと繋がる出口もあるかもしれない。

 彼女がいるとするならば、きっとそこだ。

 オレははっとして、必死に周囲を見回した。もし予想が正しければ、きっと……。

「よし、これだ」

 お目当てのものは、案外すぐに見つかった。それは、さっきのパイプの向かい側のパイプに取り付けられていた。

 オレが見つけたもの、それはこの地下空間の配線マップだった。

 これだけ広い空間ならば、入り口に地図くらいはあるだろうと踏んで探してみたが、ビンゴだったようだ。

「えーと、どれどれ」

 顔を近づけてよく見ると、マップには配管のおおよその見取り図と、さまざな地名が書き込まれていた。

 丁寧に少しずつ見ていく。

 そして、そのまま地名のリストを二周ほどしたところで、オレの目は「グランドコーポ橋立下」という場所をやっと見つけた。

 それを配管の図と照らし合わせてみると、案外遠くない。このフロアを突き当りまで前進して、右折すれば着くらしい。ま、グランドコーポ橋立は学校のすぐ近くに立っているので、妥当な位置だろう。

 オレは標識から目を離す。

ふと、その標識が付いていたパイプが、他のパイプとは違ってひときは古く、かなり汚れていることに気が付いた。

これだけは昔の配管なのだろうか?

 いや、疑問は尽きないが、今はもっと大切なことがある。

 オレは前方の通路に向き直ると、一つ大きな深呼吸をしてから、一気に駆け出した。

 ……待ってろよ、東香。

「突き当りで右、突き当りで右、突き当りで右、つき……」

 忘れないよう唱えているあいだに、オレは長い直線を駆け抜けて、目的の突き当りに付いていた。

 予想通り道が二又にわかれていたので、迷わず……左を見る。

 ……何も無かった。

「何をしてるんだよオレは! くそ、緊張して左右がわかんなくなった」

 落ち着け広。突き当りを右だ。

 一気に右を向く。

 すると、前方二十メートルほど向こうに、不自然な光が漏れているのが見えた。そして、なぜかそこから、ベチャッ、ベチャッ、という液体の音も聞こえる。

 そんな怪奇な景色に一瞬怯むが、今さら引こうなどとは思わない。

 オレは一気に距離を詰めた。

 ……その場所には、予想通り、彼女の姿があった。

 靴音で気付いていたのだろう、足元に置かれた大きな懐中電灯に照らされながら、東香はオレの方を向いて待ち構えていた。

「……まさか君に会うとは思わなかったよ。ここに入ったことは、私をストーカーでもしない限り、気付かないはずだけど」

「勘が冴えてるな東香、ちょっとストーカーさせて貰った。お前が鍵を壊してくれたから、簡単に追いかけられたぜ」

 その言葉に、光の中の東香の顔が少しこわばる。一応罪の意識はあったんだろう。だが、そんなことはもうどうでもいい。

「単刀直入に聞く、今お前は、何をやってるんだ?」

 投げかけられた質門に、東香はシニカルな笑みを浮かべた。

「何って、緑化だよ。いつものことじゃないか」

「なるほど、緑化、ね……」

 今一度、東香の様子を見る。

 彼女の足元には、色々な物が散乱していた。

 「FRP用」と描かれた大きな缶がいくつかと、キャンプ用のカセットコンロ、そしてコンロに乗せられた鍋と、その中に入った謎の液体。どうやらさっきの水音は、この鍋の中身をかき混ぜていた音だったらしい。

 だが、異様な様子だったのはそれだけではない。

「今日はやけにお洒落だな、東香」

「うん、そうだろう?」

 頷く東香は両手にゴム手袋をしており、右手には金槌、左手には細長い金属の棒を持っていた。

「なあ、どんな緑化をしようとしてたのか、聞かせてくれないか? 前も言ったかもしれないが、オレはこの状況から答えを導き出せるほど、優秀じゃない」

「嫌だ」

「なら、ここに警察を呼んで吐かせるまでだ」

 その言葉に、ついに東香も観念したらしい。

 ため息をついてから、金槌を脇に置き、片手に持っていた棒を鍋の中に放り投げて、説明してくれた。

 彼女の、最後の緑化計画を。

「……君もここまでたどり着けたなら、知っているだろう? この上にはグランドコーポ橋立という、巨大なマンションがある」

「ああ」

「そして、ここの配管は、そのグランドコーポ橋立に水道水や、生活用水を供給しているパイプさ。だから私は今回、それを破壊しに来たんだよ」

 破壊だと? 

 ぶっそうな言葉に息がつまるが、ここは冷静になろう。

「それで、その……破壊? するために、お前はどうする気だったんだ?」

 続きを尋ねると、東香は自分の足元に散らばる物品たちの方を見下ろす。

「それには、ここに置いてあるものの用途を説明しないとダメかな」 

 前置きして、東香は金槌と、「FRP」の缶を取り上げた。

「簡単に説明すると、まずパイプに付いたバルブを締めて、水を止める。そしてその後、この金槌でバルブを壊した後に、簡単に修理できないようにこっちの樹脂でバルブを固める……って感じかな」

「水を止めて、バルブを壊して、樹脂で固める……? そんなことして、何になるんだ?」

 唖然として固まるオレに、東香は怪しく笑った。

「うん、それはね……困らせてやるためだよ」

「だ、誰を……」

「決まってるじゃないか。上に住んでる、大人たちをだよ」

 ……そういうことか。

 やっとオレは東香の目的を理解した。

「お前は、復讐しようとしてるのか、大人たちに。あの日、何もしてくれなかった大人に、オレの代わりにやり返してやろうと、そう思ってるんだな?」

「…………。」

 問いかけに、東香は少し目を伏せただけだった。

 だがその沈黙は、肯定しているのと同じだ。

 オレは愕然とする。

 彼女の計画は、とても入念で、恐ろしいものだ。埋立地に建てられたグランドコーポ橋立というマンションにとって、水はまさに命の源。この配管が止まれば、そこに住む人々は、水道が復旧するまでのあいだ、喉の乾きに耐え、風呂を我慢し、顔を洗うこともできない。

 それでは、とても住んでいられないだろう。多くの人は、しばらく家を追い出されるはずだ。

 しかも東香は、少しでも復旧を遅らせるために、設備自体を破壊し、そしてあちこちを樹脂で固めてしまうという、妨害工作までしようとしている。

「どうしてだ……なんでお前が……」

 こぼれ落ちる言葉に、東香からの返事は……無い。

 その代わりに、彼女は別の事を話し始めた。

「ここの水が止まれば、ここに流れる水は少し逆流するんだ。だから私はここに来る時、別の配管のバルブを緩めて、その逆流した水がそっちに流れるようにした。……それは、どこだと思う?」

「それは……」

「正解はね、このあいだ桜を植えた時に話した、昔の配管だよ。つまり、ここで止まったぶんの水は、薄汚い大人たちが住むマンションじゃなく、塔明学園のグラウンドの方に流れる。そしたら、グラウンドの真下の地面が水で浸されて、近くにある花壇や、私達が植えた桜に、たっぷり水をあげられるのさ。……それが、今回の緑化だよ」

 言葉も無かった。

 たしかに、ここに来る途中で、古いパイプを見た。だが、まさかあのパイプに水を逆流させようとしているとは、夢にも思わなかった。

 オレの見立ては甘かった。もっと大それたことを、東香はやろうとしていたのだ。

 だが、忘れてはいけない。

 彼女をこんなことをやっているのは、オレのためだ。

 ならば、それを止められるのもまた、オレだけなのだ。

 一呼吸置いて、オレは東香に近づいた。東香はそれに反応して、ビクッと体を震わせたが、構わない。

 その顔がよく見えるところまでいって、オレはその手から金槌と、樹脂の缶を優しく取り上げる。

「もう良いんだ。帰ろう」

 東香はしばらく、自分の手を離れた道具を見ていた。が、少しして、その顔が大きく歪んだ。

 息を吸って、彼女は大きく口を開き、そして叫んだ。

「どうして止めるのさ! 君はあんなことをされたんだぞ、そんな理不尽を受けて、どうして黙っていられる? それに、君が良くても、私は良くない。この学校の関係者に復讐しなくちゃ、心が収まらないんだよッッッ!」

 初めてだ。

 初めて彼女が、こんなに怒っているところを見た。

 いつも飄々としていて、冷静で、全てを引っ張るような、リーダーシップを持った女の子。そんな風に思っていたから、感情をむき出しにする今の姿は、とても意外だ。

 でも安心した。

 ものすごく賢いと思っていた彼女も、どうやら馬鹿だったみたいだから。

「あのな東香、それを言うなら、オレの復讐はもう終わっているんだ」

「え?」

 呆然とする東香に、オレは言ってやる。

「昔、オレは正義の心みたいなものを、持っていた。でも大人たちに『自分勝手』だと否定されて、一度はそれを捨てた。だけどな……」

 息を吸って、もう一歩だけ距離を詰める。

「だけどな、お前と出会って、ずいぶん『自分勝手』したよな。誰も望んでないような、身勝手な緑化活動をして、桜を植えて、不良も倒して、それでも……楽しかったよな」

「それは……」

 呟く東香に、オレは言う。

「なあ東香、大人たちは、『自分勝手』がこんなに楽しいことだって、知らないらしいぞ。だが、オレたちはそれを知ってるし、楽しんでる。……誰に何と言われようともな」

 これまでの活動を思い出す。

 ハチャメチャだが、暖かさと、美しい光だけがあった日々を。

 自然と、笑顔が浮かんでいた。

「だからさ、今を楽しむだけで、オレは大人に復讐できるんだ。やつらの知らない楽しみを満喫しているってだけで、ざまあみろってもんだぜ!」

 オレは再び、東香の顔をまじまじと見つめる。

 ふんわりとした髪に、しとやかな編み込み。

 ほんのり赤くなった頬に、小さな口。

 そして、こちらを見つめる、不安げな瞳。

 何度見ても、顔だけは可憐だ。

 だが、彼女の最大の魅力はそこではない。

「オレはさ、お前が、お前のためだけにする『自分勝手』が好きなんだ。なのに、今さらそのポリシーを曲げて、オレのために頑張ろうなんて、気持ち悪いこと言うな」

 オレは、右手で彼女の「緑化」腕章に触れる。狭いトンネルを通ってきたその腕章はヨレヨレで、少し汚れていた。

「明日は、どこを緑化するんだ? 東香」

 その言葉に、東香は膝をついた。

 すっかり全身の力が抜けたその様子では、もうこれ以上なにかをしようなどとは考えていないだろう。

 だが、大切なのはこれからだ。

 これからどうやって、彼女を立ち直らせていくかがオレの……。

 そう思った瞬間だった。

「おーい、誰かいるのか? 出てこーい!」

 オレたちの背後、先程曲がった突き当りの向こうから、大声と大勢の靴音が鳴り響いた。

 しまった。

 オレはすぐさま、うなだれる東香の腕を掴む。

「逃げるぞ東香! たぶん入り口の扉が壊されてるのが見つかったんだろう」

 焦りながら強く引っ張るが、東香は動かない。

「おい!」

 声をかけるが、次の瞬間、東香はオレの手を振り払った。

「ここは直線になってる。二人じゃ逃げられないよ。……だから私が、後ろの大人を足止めする。もともと、これは私が始めたことだからね」

「だがな……」

 食い下がるオレを、東香は立ち上がって突き飛ばす。

「道具をリュックに詰めて、急いで逃げるんだ! もと来た道は戻らずに、この道をずっと行けば、すぐ突き当りにドアがあるから!」

 ……そこからはもう、何をする暇も無かった。

「これを」

 東香はそう言うと、左腕に付けていた腕章を引きちぎって、こっちに押し付けた。

 そして、

「もうこれは、私にはふさわしくないから。君にあげるよ」

 たった一言だけを言い残し、他のすべてを捨てて、東香は声の方に走り去ってしまった。

……もちろん、残されたオレも、そうやって捨てられたものの一つだった。

 ただ必死に東香の道具を拾い集めると、オレはリュックをかついで走り出した。東香とは、反対の方向に向かって。

 途中、後ろの方から複数の人が大騒ぎする声が聞こえたが、オレは振り返らずに走った。

 そうしてしばらくすると、目の前に一つの扉が現れた。

 鍵がかかっていたが、内側からだったので、ツマミを回して解除する。

 そしてオレはついに、外へとたどり着いた。

「うっ……」

 急に明るくなった景色に目を細めるが、段々と周りの景色が見えてくる。

 オレが飛び出した場所、

 そこは他でもない、グランドコーポ橋立の中庭だった。

「こんな場所が、あったのか……」

 外側からはわからなかったが、マンションの建物の中央には、土が敷かれ、木が植えられた、半径十メートルほどの円形の中庭があったようだ。オレが出てきた出口の近くには、真っ白なベンチやテーブルまで置かれている。

 後ろ手にドアを締めてから、オレはその場にへたり込んだ。色々なことが起き過ぎたせいで、どっと疲れが襲ってくる。

 重いリュックも脇に置くと、オレの手元には、東香の残していった真っ赤な腕章だけが残された。

 ……さて、と。

 この静かな空間の中で、オレは少し今後のことを考えることにした。

 なにしろ、腕章を手渡されたからには、今日からはオレが「緑化サークル」のリーダーということになるからだ。

 教師に見つかった東香が、このままタダで済むとは思わないし、奇跡的にお咎とがめが無かったとしても、すぐに「緑化サークル」に戻ってくるとも考えづらい。

 ならばしばらくは、オレが東香の代わりに考えなくてはいけないだろう。

 東香の育てていた、海水魚の育て方を。

 個性豊かな川浦兄弟を、うまく制御する方法を、

 そして、校門の側にそびえ立つ、あの巨大な水門スルースを、この手に統べる術(すべ)を。 

「あーあ」

 オレは赤の他人が住まうマンションのど真ん中ということも忘れて、その場に寝転んだ。

 とてつもなくダルいが、まあ、

 やってやろうか。

                    *

 東香はあの後、扉を壊して地下に侵入した罪で、一週間の停学を言い渡された。噂によれば、本当は自分の計画まで全てぶっちゃけていたらしいが、さすがに中学生がそんなテロ行為を本気で企てていたとは誰も思わなかったのか、それくらいで済んだようだ。

 だが、教師陣にとっては、優等生だった東香がこのような暴挙を起こしたことが相当ショックだったようで、無駄に保健室のカウンセラーを充実させたり、例の地下への入り口を金庫扉みたいなぶ厚いものにしてみたりと、再発防止に大わらわだった。

 そして今日、十一月も終わりの時分に、東香の停学は解ける。

 だからオレは、まだ辺りも薄暗い朝の六時から、その姿を待っていた。

 もちろん、涙橋水門の上で。

 ―三十分くらい待ったころだったろうか。

 彼女は予想通り、大鮫川のそばを歩きながら、涙橋水門のもとに現れた。

 東香はオレを見つけるなり、硬い表情で言った。

「久しぶりだね、広くん……」

「ああ、最初に会ったときとは逆になったな、東香」

 挨拶のあと、東香は暗い顔のまま、オレを見上げる。

「その腕章、着けてくれてたんだね」 

 東香が目を留めたのは、オレの左腕だった。そこには東香から渡された、真っ赤な「緑化」腕章がある。

「どうだ、似合ってるだろ?」

 オレの言葉に、東香は悲しげな笑顔を浮かべる。

「うん、よく似合ってるよ。そして安心した、やっぱり、もう私は……」

 もう私は要らないようだね、とでも、言うつもりなのだろう。

 だから、オレは彼女の言葉を遮って、大声で叫ぶ。

 そんなふざけた考えを、吹き飛ばせるように。

「さあ、お前ら、出てきていいぞ!」

 つぎの瞬間、水門の影から、ぞろぞろと四つの人影が出てくる。

 それは、オレが今日のために呼んでおいた、川浦兄弟たちだった。

『お勤めご苦労(クロ)だったっす、姐さん』

 最初に近づいてぺこりと頭を下げたハジメに、東香は目を見開いていた。

「どうして君たちが、ここに……」

 それに対し、今度はタイチが答える。

『押忍! 今日は姐さんの出所祝に、見せたいものがあるんだよ』

「見せたいもの?」

 東香が尋ねると、水門のすぐそばに立っていたタツが手招きする。

『こっちだよぉ』

 短い腕をブンブン振ってアピールするタツのもとに東香が歩み寄る。

『これ、見てくれよぉ!』

 タツの腕を引っ張って示したのは、水門の裏手の川の流れだった。

 されるがままに、東香もそこを覗き込む。

 そして、

「これは……まさか! こんな風になってるなんて!」

 すぐに驚きの声を上げた。

 そんな東香の隣に並んで、マヒロが赤本片手に声を上げる。

『どうです? 生まれ変わった姐さんの〝水槽〟は』

 その言葉の通り、大鮫川のその場所は、東香が慎ましく海水魚を育てていた時とは様変わりしていた。

 キラキラ光るその水面の奥には、たくさんの魚が泳いでいた。ここでは今、以前とは比べ物にならない数の、様々な種類の海水魚が、色とりどりに生活しているのだ。

 マヒロが片手で赤本を回しながら、得意気に説明する。

『この場所の欠点は、ズバリ水流でした。流れがあまりにストレートで速いので、今までは姐さんのように網の檻で囲って、海水魚を育てなくてはなりませんでした。でも、今は違います』

 マヒロは言いながら、真下の水面を指差す。(親指で下を指差したので、結果的にブーイングみたいになっていたが)

『姐さんがいないあいだに、試しにこの川の底に色々と障害物を設置したんです。そしたらそれが大当たりでしてね、色々な方向に適度な水流が生まれて、魚を放し飼いできるようになったんですよ。それに、今は水が循環しているので、ポンプも要らなくなりました!』

「うわぁ、そうなんだ! すごいよこれは!」

 さっきまでの雰囲気が嘘のように、東香は純粋に目の前の景色を楽しみ始めていた。

 ま、これも川浦兄弟たちのお陰だ。

 水門の上から、オレは東香に語りかける。

「どうだ東香、あんだけ他人に迷惑をかけてた川浦兄弟も、今やこんなに他人を元気づけられる存在になったぞ。……でもな東香、わかってるか? こいつらをこんな風に変えたのは、他でもない、お前の力だ」

 その言葉に、川浦兄弟たちがいっせいに頷く。

「だからさ……」

 オレはそこで、水門から一気に飛び降りた。……真下の、川の中に向かって。

 バシャーン、という盛大な音とともに、オレは一瞬川の中に沈む。辺りを泳いでいた魚たちも、それに驚いて逃げていく。

 全身がびしょ濡れなったのにも構わずに、オレはその場で立ち上がった。かつてはオレが頭まで沈むほど深かったこの場所だが、今は兄弟の設置した土台のお陰で、立てば腰から上くらいは水面から出る。

 そんな、半分川に浸かった状態のオレの前には、やっぱり東香がいた。

 あの日、川に突き落とされた時と同じように。

 冬場の冷水に震えながら、左腕の腕章を外す。そこには「緑化」という、奇妙な二文字が書いてあった。

 そしてオレは、泣き出しそうな顔でこちらを見つめる東香に、それを差し出した。

「もう一度、オレの手を取ってくれるか? 東香」

 気がつけば、もう太陽が上っていた。

 柔らかな光に照らし出されながら、東香は喉をつまらせるように、そっと、答えた。

「喜んで」

 ……そうこなくては。

 と、その辺りで、格好つけるのにも限界が来た。

 オレはすぐさま川を突っ切って岸に上がる。

「うわっ、寒っ! この時期の川の温度舐めてたわ」

 無様に這い上がったオレを、兄弟たちがニヤニヤしながら出迎えた。

『おうヒロ、はよう暖まれ』

『なかなか、格好良かったですよ』

『押忍、最高にロマンチックだったぜ』

『このこのぉ……』

 ったく、好き勝手言いやがって。

 何となく恥ずかしくなって、オレはみんなから目を背ける。

 それから、

 大鮫川の岸辺、朝から騒がしくなってきたその場所で、しっかりと腕章を左腕に巻いた東香が言った。

「本当に、君は自分勝手なやつだよ」

 オレは笑ってそれに答える。

「……お前もな」

(終)



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