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風にさらわれた恋(1)

―今から40数年前の、まだ携帯もSNSもない頃のオールド・ファッションなラヴ・ストーリー

雨のウェンズディ(2)

脱臼した時間の中にいた。時と時の狭間のエアーポケットに転落してしまったのだ。思春期に味わって以来の「Hard Times (3)」の真只中だった。「Blue (4)」から何とか脱げだそうともがいていた。

上り下りいずれにせよ、早く来た方の列車に乗ろう。延岡の駅の連絡橋のガラスのない窓から線路を見下ろした時そう決めた。周遊券はあるし、時間にもお金にもまだ少し余裕がある。旅の終わりの残りの時間はノー・プランで行こう。則天去私だ。未来のサプライズを歓迎しよう。そう決めた。「N'y pense plus… Tout est bien.(くよくよするなよ)(5)」だ。考えたってどうしようも無い事もある。

思っていたよりも早く鹿児島方面の列車がホームに滑り込んで来た。階段を何かにせかされるように下り、列車に飛び乗った。もう何の迷いもなかった。海は早春の光に飽食したのか、波頭から白い光を吐き出していた。終点につく頃にはもうすでに暮れかかっていた。今波頭の白い光は闇を切り裂いている。数日前南国のこの街にいた時は雪が街を覆っていた。今は残雪が忍び寄る暗闇に白い穴を穿っている。

「これからどうするの?」
しばしの沈黙の後、千恵子が唐突に切り出した。いや正確ではない。この時はまだ彼女の名前を知らなかった。
「帰る。東京へ…」頭のなかに巨大な疑問符を浮かべながら、少し驚いて答えた。
「じゃ、良かったら…、私と一緒に旅行しません」彼女は真顔で言った。
その時飲んでいた水を危うくふきだすところだった。試しているのだろうか。弄んでいるのだろうか。これは夢かもしれないとも思った。
「いいけど」
 少し間をおいてから、あまり乗り気で無いような風を装って答えた。

何年か前、語学の専門学校で仲良くなった女の子に唐突に旅行を切り出された時の事を思い出した。その時、咄嗟に出た言葉は「何で」だった。
「行きたくないの?」
彼女は唇を尖らせて言った。明らかに怒っている。
「いや、そんな事無いけど」
あまりに突然だったのでびっくりしただけだった。心臓はバクバクしていた。

今回の唐突さはその時以上だ。だから今回も心臓はバクバクしていた。まだ名前すら知らないのに。同時に狂喜している自分がいた。動揺を隠すためにあえて冷たく答えたつもりだったが、どうやらそこを見透かされたようだった。何かギクシャクとした態度の私を見て、彼女がふきだした。
「可笑しい」
「えっ何が」
「何か挙動不審。変な事考えてない」
「だって…」
「私、切符買ってくる。荷物ここに置いとくから見張っててね。」
呆然としている私を残して、彼女は駅舎の中に消えていった。

千恵子と出会ったのは、市内の観光地を周遊するバスでだった。午後の列車で帰京する予定だったので、午前中の時間をつぶすために観光バスに乗ったのだった。平日の午前中に、市内観光するような暇人はあまりいないだろうと勝手に決め込んで、二人掛けの席を一人で独占していた。

「すいません。ここいいですか」
私の頭上で若い女性の声が弾けた。このバスは全席指定だった事を思い出した。
「どうぞ」
できるだけ目を合わさないように、荷物を片付けながら言った。かわいい。少しびっくりした。今日は何てラッキーなんだろうとも思った。誰に感謝しようか。しばらくは気まずい沈黙が二人の間に漂っていた。どう切り出したら良いんだろう。バスは急カーブに差し掛かり、お互いの肩が触れた。
「御免」
咄嗟に私は言った。それに対する千恵子の返事は微笑みだった。私はそれに射抜かれた。とびきりの美人と言う訳ではないが、愛くるしい顔をしている。いや美人だ。しかも美人過ぎない。ドストライクだった。恋に落ちるのは簡単だった。

言葉が堰を切ってあふれ出した。チューニングを探る必要は無かった。デフォルトの波長で自然に話せた。今日の私はついている。ドストライクの子を相手に背伸びせずに話せるなんて不思議な感覚だった。数分後には旧知の友人同士の会話の様になっていた。会話が弾んだ。彼女が笑顔になる回数も徐々に増えてきた。敬語を交えての会話が段々とまどろっこしく思えてくる程だった。はじめは世間話だった。そのうちお互いの簡単な自己紹介から、身の上話にまでおよんだ。
「無口な人だと思っていた」千恵子は言った。

長野に住んでいる事。医療関係の仕事をしていた事。事情があって職場を辞めて、今九州一周の旅行をしている事。桜島を望む公園に着くまでに彼女は一気に吐き出した。横顔は少し悲しそうだった。
「ここしばらく誰とも話してなかったから余計な事まで言ってしまったかも」
少し恥ずかしそうに言った。出会ったばかりの人間に話し過ぎたのを後悔しているようだった。遠い目をしていた。美人はそれだけでアドヴァンテージなはずなのに、意外と大変なんだなと、全くの他人事のように聞いていた。それが声音に出てしまった。
「色々、大変だったんだね」という私の素っ気ない言葉に、少し怒ったようだった。
唇を尖らして「今度は君が白状する番よ」と言った。

恥ずかしさを隠すためか、急にため口になったのだろうか。距離を一挙に縮めた大胆さに少し驚いた。「君」ときたか。フランス語では、初対面の人間とはVOUS(あなた)で呼び合う。それがだんだんと友達になっていくと、TU(君)で呼び合うようになる。少しは気を許してくれたのかなと思うと嬉しかった。

東京で院生やってる事。師弟関係が上手くいってないので辞めようかと思っている事。が、将来の事考えると、学校に残っていた方が良いのかなとも迷っている事。タイムリミットは来年の二月。院を辞めて佐賀の実家に戻る同期の友達と一緒に九州に来た事、その後一人で旅を続けている事などを、城山公園から鹿児島駅へ向かうバスの中で、白状させられた。むしろ言いたかったのかもしれない。少し気が楽になったような気がした。他人だったから話しやすかったのかも知れない。

ただ一つ嘘がある。院を辞めようと思ったのは、人間関係以外にもある。論文が全く認められなかったからだった。論文には自信があった。小説を集合で読むなんてまだ誰もやった事ないだろう。受験準備の余力が残らないくらい論文執筆に力を注いだ。バッテリー切れ寸前だった。その論文が「解らない」の一言で簡単に片付けられてしまった。無視されたと思った。「前衛の宿命さ」という友人の言葉に「かっこいい」と酔ったのは確かだが、研究を続ける意思は全く失せていた。心が折れてしまったのだ。今から考えれば甘ったれた考え方だが、その時はマジにそう思っていた。

努力が実を結ばない事は多々ある。その多くは徒労に終わる。実を結んだとしたら、それは余程ラッキーな事だ。しかし予期せぬ場面でその果実を手にする事もある。今から思えば、それが千恵子だったのかも知れない。

「私より深刻そうね。呑気なお坊ちゃんみたいな顔してるのに」
ムッとした。それを危うく顔に出しそうになった。気づいたのか、
「言い過ぎだったら御免なさい。でもこれでおあいこね」
いたずらっぽく微笑んだ。千恵子の微笑みはまた私を射抜いた。

そうかお互いにセンチメンタル・ジャーニーだったのか。こういうのアイデンティティ・クライシスっていうんだっけ。確か「ボヴァリー夫人」も「車輪の下」もそれを主題にしていたっけ。というかアイデンティティは近代文学のデフォルトだ。それに反旗を翻したのがヌーボー・ロマンだ。アイデンティティ抜きで文学の新しいOSを企てたが見事頓挫してしまった。その後の小説はオリジナルなきコピーと化している。そんな事を考えているうちにバスは鹿児島駅に戻った。

このまま別れるのは嫌だったので、食事に誘おうと思っていた矢先、
「何か食べない。時間ある?」と千恵子の方から聞いてきた。ランチの誘いも先を越されてしまった。先を越された事が気まずかったので黙っていたら、矢継ぎ早に、
「嫌なの。ねー、何食べる?」
相変わらず黙っていると、急に立ち止まり、こちらを向いて、
「ボクに言いたい事あるんだけど。デートの時はリードした方がいいよ。付き合った事ないの」とからかってきた。
「ボク」とはどうやら私の事らしい。少し優柔不断過ぎたかなと思って、「じゃ、あそこのレストランで、オムライスでも食べようか」と私は言った。
「やればできるじゃない」
苦笑した。何故千恵子は私をダメな弟のように扱うのだろう。

旅行に誘われたのは、レストランを出て、駅前のベンチで休んでいる時の事だった。10数分後、今起こっている事は夢に違いないといぶかっている私の視界に千恵子の姿が飛び込んで来た。亡霊ではない。
「ボク、お名前は?」
またからかってくる。そうだった。まだ、名前を知らずにいた。しかし私は幼稚園児ではない、院生だ。
「松本広太」
「えっ嘘、私も松本。千恵子って言います」
握手を求めてきた。何を今さらと思ったが私も「よろしく」と言い、差し出された千恵子の手を握った。ドキドキした。私よりも一回り小さな柔らかい手だった。暖かかった。夢ではないんだ。

指宿行の切符を買った事、途中下車して長崎鼻という所に行く事、今夜は指宿に泊る事などを駅舎に向かいながら、矢継ぎ早に彼女は話した。
「あなた、お坊ちゃんでしょ」
「そうだとして何で分るの?」
「働いた事のない、きれいな手してるから」

当たらずとも遠からずだった。数年前、入院していた時、お見舞いに来てくれた語学学校時代の女友達に「松本君って手がきれいなんだ」と言われた事を思い出した。死ぬか生きるかの大病だったらしい。が、私は寝ていただけであまり良く覚えていない。意識の半濁状態だったのだ。卒論審査も終わり、大学院の入試も終わり、4月から院生だという時、くも膜下出血で倒れた。とにかく疲れていた。いつまでも休んでいられるのがうれしかった。何故か助かるとも助からないとも思っていなかった。だから助かったのだと思う。大病をして変わった事が一つだけある。いままでは食べたいものは最後まで残しておくタイプだったのが、真っ先に好きなものを食べるようになった。待っている間に死んでしまったらどうする。自分の欲望を躊躇なく即座に実行する人間に無意識のうちに変わっていた。

頭の中ではいつもトム・ウェイツのOl'55が流れていた。驚いたのは、件の彼女が、「松本君が死んだら、私どうしたらいいの」とメロドラマのような台詞を吐きながら、泣き出した事だった。「I'm Riding with Lady Luck(6)」。そうかこの娘が私のLady Luckだったんだ。病気から回復したらこの娘にプロポーズしようと勝手に決心した。が、長いリハビリ生活の後、やっとのことで再会すると「私、今度結婚するの」と言われてしまった。ショックだった。が咄嗟に「おめでとう。良かったね」と言っていた。「どうって事ないさ(7)」と自分に言い聞かせた。そう思う事で傷を軽くしようとする防衛本能が働いたのだ。

今、私の幸運の女神は、目の前にいる千恵子かもしれない。それとも彼女は「悲しみ運ぶラッキー・スター(8)」なのか。

「さっきから何にやにやしてるの。何か気持ち悪い。変な事考えないでね。そんなつもりは無いからね」
「分かってるって」

雨だった。車窓に雨が斜めに刺さる。そこから見えるはずの海も白く煙っていて何も見えない。駅に停車する度に人々が下りてゆき、今は二人ぼっちだ。「We are All Alone(9)」か。ボックス席に始めは向かい合って座っていたが、今は横に並んで座っていた。

「さっき名前聞いてびっくりしちゃった」
「何で」
「だって同姓なんだよ。新しい姓に慣れるのって結構大変なんだって、結婚した友達が言ってた」
千恵子はいたずらっぽく微笑んだ。
「松本なんて姓、どこにでもあるよ」しどろもどろに言った。
「つまらない人。ときめかないの?」

似たようなシーンをテレビドラマで見た事があった。児戯だと馬鹿にしていた。が、実際の当事者となると違った。千恵子はド直球を投げてきた。試されているのか、遊ばれているのか。私の心臓はバクバクだった。

アンティームな空間だった。ユーフォリアのカプセルが繭玉のように二人を包んでいた。その中でそれぞれの自我が溶け出し自他未分化になっていく。いままで味わった事のない感覚だった。母親の腕に抱かれていた赤ん坊の頃はこんな感じだったんだろうか。これに父親が亀裂をいれる事、それがエディプスコンプレックスの始まりだというのが、フロイトの説だ。このカプセルは誰にも破られたくなかった。

「キスしていい」
彼女が答える前に、唇を奪った。千恵子の唇は柔らかかった。
「バカ」
千恵子は小声で言った。私の肩に頭をのせてきた。嬉しかった。このままどこまでも止まらないでいて欲しいと思った。私は今夢見ているだけなのだろうか。どのくらい経ったのだろう。

「急いで。降りるよ」荷物をまとめながら、千恵子は言った。
夢のような現実の中でまどろんでいた私の動作は緩慢だった。
「着いたよ。早くして。ドアしまっちゃうよ」

小さな駅舎は雨に煙っていた。こころなしか降り方が弱くなっている。しばらくすると上がるだろう。
「傘ある?」
「無い」
「まったく」
「こうしない。荷物は駅で預けられるみたいだからそうして、そこからは相合傘で、というのはどう」

荷物を預けに行くと、窓口の老人が「あんた達新婚さん」と聞いてきた。千恵子は「違います」、私は「何で」、ほぼ同時に言った。
「だって、凄く幸せそうだよ。見ていて何か微笑ましくなるよ。仲いいね。それとも姉弟かい?」初老の男は笑顔でそう答えた。繭玉は他人にも見えるのか。

バスの中でも、降りて歩き始めても、千恵子はまだ怒っていた。
「まったく。人のプライバシーに立ち入るな」
怒っている横顔もかわいいと思った。詮索されるのが大嫌いなんだ。なのに何故私にはプライベートに関する事教えてくれたんだろう。千恵子にとって少し特別な人間になれたのかもしれないと思うとうれしかった。しばらくたっても、千恵子はまだご機嫌斜めだった。気まずい沈黙が続いた。突然止まると、私の方を向いて、
「勘違いしないでね。私はそんな軽い女じゃないんだからね」
そういうと、また歩き出した。いままで見た事のない真剣な、思いつめたような表情だった。そうか、怒りの本当の原因は別の所にあったのか。軽率な行動をしてしまった自分自身に腹を立てているようだった。

「さっきは御免、謝るよ。つい…」
「まったく、謝るんだったら、そんな事するな」
こちらを見ずに言った。歩みを速めた。
「機嫌直しなよ」
と言うと余計怒りそうなので、しばらくほっておく事にした。

雨は完全にやんでいた。が、白く煙って空と海の区別がつかない。
「ネー、見て、亀の死骸があるよ」
目の前に黒い甲羅と白い灯台、海へと続く雨と波に濡れた岩畳があった。明るい声だった。その声に波音が被さる。良かった。機嫌が直ったようだ。「何に怒ってたの」
私は聞いた。直後しまったと思った。余計な事聞いてしまった。
「私、怒ってなんてないよ」
唇を尖らせて言った。意地っ張りだな。

何か茫洋とした風景だった。ここ長崎鼻は、浦島と乙姫が出会ったところだ。浦島は夢に弄ばれ時間を浪費してしまった。目覚めた時はもう死も間近なボロボロの老人だった。何か不吉な予感がした。私は今夢見ているだけなのだろうか。

「何ボーとしてんのよ」
千恵子が岩礁を小走りにこちらへやってきた。私の目の前で濡れた岩に足を滑らせ、危うくころびそうになった。危ない。咄嗟に彼女の腕をつかんで私の方へ引き寄せた。抱きしめるような体勢になってしまった。
「ありがとう」
思わず、彼女を抱く腕に力が入ってしまった。
「痛い。人目があるでしょ。放して」
「あ、御免」
「謝るんだったら、そんな事するな」
相変わらずボーとしている私に向かっていたずらっぽく言った。突き出した唇にキスしたい衝動を抑えるのは大変だった。そうしたら、また「バカ」と言われるだろう。
「これ夢じゃないよね。別れたくない」真顔で言った。
「何言ってんの。私達出会ったばかりじゃない。変な人。それより、どうしたの。顔色悪いよ」

また雨が降ってきた。開聞岳の上半分は雲に隠れている。波音が海のそばにいる事を教えてくれる。
「チェックインは別々だからね」
鹿児島から電話でこのホテルに予約を入れたのは千恵子だった、なので、予約したのは、二部屋なのか一部屋なのか知らなかった。別々の部屋で少しほっとした。が、半面落胆もした。
「隣同士なんだ」チェックインを終えると千恵子が言った。

夕食は外に行った。また、オムライスだった。せっかく海の側に来たのだから、魚が食べたかった。
「私、今オムライスに凄く凝っているんだ。だから鹿児島でオムライスって君が言った時、食べ物の趣味あってると思った。機会があったら食べさせてあげるね」
そんな機会はくるのだろうか。
「ビール頼んでいい」
「どうぞ。お酒飲むんだ。飲めない人だと思った。それだったら、人吉で買ってきた焼酎後で飲む」
「お土産でしょ。悪いよ」
「兄貴へのお土産だけどいいよ。また、何か買うから」
「何処で飲む?」
「どっちかの部屋。見せたくないものあるから、ボクの部屋にしない」
部屋に荷物を散乱させたままだったのを思いだした。
「嫌なの」
「何で」
「嫌そうな顔してるよ」
「荷物片付けるのめんどくさいと思っただけだよ」
「じゃー、私の部屋来る。鼻血出しても知らないよ」
ふきだしそうになった。結局私の部屋で飲む事になった。氷と水と乾きものを買ってホテルにそそくさと引き上げた。まだ雨は降っていた。

ノックの音で目を覚ました。いけない、寝てしまった。慌ててドアを開けると少し怒った様子の千恵子がいた。約束の時間を少しすぎていた。部屋に入り、後ろ手でドアを閉めながら言った。
「レディーの誘いを無視するな」
怒っていたのかもしれない。演技だったのかもしれない。
「御免、寝ちゃった」
「まったく。こんなかわいい子と二人きりで飲めるんだぞ。良く眠れるね」いたずらっぽく微笑んだ。また、からかってきた。
「御免」

千恵子は洗面台からグラスを二つ持ってきて、氷を入れ、焼酎を注いだ。乾きものは紙皿にあけた。手際よかった。
「まったく何にも出来ないお坊ちゃんなんだ。グラスぐらい準備しときなさいよ」
ほぼ、すっぴんの千恵子は、化粧した時とあまり変わりがなかった。きれいだった。むしろこっちの方が好きだ。シャワーを浴びてきたのか、いい匂いがした。
「何、ボーと人の顔みてるの」
「きれいだなと思って」
「当たり前の事言うな」お互いに爆笑した。

乾杯した。始めは今日の思い出話だった。杯を進めるうち、千恵子がだんだんと泣き始めた。Cry Like A Rainstorm(10)だった。泣き上戸?何か悪い事言ったかな。はじめはそう思ったが、そうではなさそうだった。もっと深刻そうだった。人生で始めて遭遇した場面だった。どうしていいか分からない。が変に慰めるより、何も言わずこのままにしておく方が良いように思えた。感情は爆発させた方がよい。貯め込むと引きずってしまう事がある。思わぬ場面で暴発してしまう。その場合、それを傍で見守ってくれる人間がいるのがベストなのだが。がそれは他人に自分の恥部をさらすような行為でもある。よっぽど親しい相手でないとできない。千恵子は私に対して無防備に心を開いてくれたのだ。嬉しかった。守ってあげたい。しかし、私も泣きたいぐらいの袋小路(Cul de Sac(11))にいた。

「お前これからどうするの?」
佐賀駅へクルマで送ってもらう途中、友人の飯田に聞いた。
「近いうちにフランスへ行く」
「向こうで何するの?」
「日本人観光客向けのガイド兼通訳。コーディネーターも兼ねる」
「お前ペラペラだからな」
「お前が酷過ぎるんだよ。知人が向こうでそういう会社立ち上げたんだ。そこを手伝う。ところでお前こそどうすんだよ」
「分からない。とにかく、後1年は院生できるから、その間に考える」
「かわいそう」
「俺が」
「違うよ。お前の両親。お前のしてる事は詐欺に近いぞ」
「そう言われてもな。修論書いて以来、まったくやる気が起らないんだ」「困った奴だな。Beaucoup désir!」
人間、何処かで、何かをしなければならない。その時の私は、この世の外ならどこでもいい、そんな気分だった。

どのくらい経ったのだろう。
「ネー、そこの君。こんな素敵なレディーの相手もしないで何考えてんの。帰るよ!」
椅子から立ちあがる振りをした。いつもの千恵子に戻った。ホットした。「御免、ちょっと考え事してた。音楽聞かない?」
荷物からウォークマンを取り出し、イヤホンの片方を彼女に差し出した。

ニール・ヤングのDon't Cry No Tearsだった。
「この人誰?」
「ニール・ヤング。アメリカのシンガーソングライター」
「好きなんだ?」
「マイ・モースト・フェヴァリット・シンガーだよ」
彼のかん高い不安定な声が、思春期の揺らぎに同期したのだ。今も病みつきになっている。「何歌ってんの」
「一言で言えば、泣かないでって歌だよ」
これは恋の終わりの歌だ。それとは逆に、今はそれぞれの抱えていた悲しみが、プラスとマイナスに帯電し、引かれ合い、新しい愛(New True Love)を発芽させようとしている。
「ずいぶん回りくどい慰め方。へー、こういうのが好きなんだ。私、日本語の歌の方がいい」
まだ目は赤かった。が、少し機嫌を直したようだ。良かった。何で泣いたのか、原因を知りたかった。が、お互いにシビアな状況にある似たもの同士、無粋な詮索は止めよう。

「じゃー、こういうのどう」
大滝詠一の「雨のウェンズディ」を再生した。
「今日の長崎鼻の風景思い出すでしょ」私は言った。
「雨のウェンズディ」は海を見ている倦怠期をむかえたカップルの歌だ。「傷つけあう言葉なら波より多い(12)」という印象的なフレーズがある。鈴木茂のギターがもの悲しくて良い。
「あまりピンと来ない。でもいい歌ね」思案気に千恵子が言った。後に、嫌というほどピンとくるようになるフレーズだったが。

「じゃー、これは」
今度は「Fun×4(フォータイム・ファン)」だ。「お目当てのあの娘に誘われて散歩に行ったら、あっという間に4人の子持ち (13)」になってしまったという、つきまっくてる男の歌だ。
「今のボクの歌だよ」
「お目当てのあの娘(14)って、私の事? でも私、散歩しない(15)なんて言ってないよ」
「旅行しないって言ったじゃん」
思わず語気を強めてしまった。
「そうだけど」
千恵子は困ったような顔をした。彼氏の事でも考えているのだろうか。

「じゃ、今度は『カレン(16)』ね」
千恵子がふきだした。
「これこそ、君にぴったりだよ」
失礼だなと思った。でも良かった。千恵子に微笑みが戻ってきた。カレンは片思いの失恋の歌だ。それでいて、「(僕を振るなんて)悲しい女だよ、君は(17)」と意気がっている、哀れな男の歌だ。今、私は「カレン」を卒業して、「Fun×4」の主人公になりつつある。足取りは危ぶいが。

「さっきの歌、もう一度聞かせて」
「Fun×4」まで巻き戻し、再生した。
「でも4人も子供産むのきついなー」
今度は思わず私がふきだした。
「変な事言うなよ。飛躍しすぎ」
お互いに顔を見合わせ爆笑した。

「ネー、私が泣いていた理由知りたい」急に真顔になって言った。
「…」
「聞いて欲しいの」

始めはうまくいっていた同僚との仲も、ちょっとしたミスの処理からギクシャクしてしまった。そんな大きな会社でもないので配置転換も望めない。そのうち同僚が上司に取り入り、自分がすっかり悪者になってしまった。自分のミスでもないのにしょっちゅう呼び出され怒鳴られた。だんだん嫌気がさしてきた。頭がおかしくなるんじゃないかとさえ思った。唯一の救いだった彼氏も自分を避けるようになってきた。許せないけれど、立場上仕方なかったのかも知れない。というのは、彼は会社に検査機器を納入する取引先の営業マンだったからだ。上司から「あいつと付き合うのは止めといた方がいいぞ」と毎日のように言われていたからだった。これは後でわかった事だけど。これ以上いたら精神的におかしくなると思って、心療内科の勧めもあり、逃げるように会社を辞めた。「何で私だけが」と思うと悔しくて毎晩涙が出てきた。眠れなかった。心療内科へ不眠と軽いうつ病の治療で通院したおかげで、だいぶ元気になったので、こうして今旅行している。

新聞でこの種の記事を読んだ事があった。眉唾だと思っていた。出来過ぎた悲劇だ。が、目の前に当事者がいた。彼女は泣いている。鹿児島のバスの中で「大変だったんだね」と素っ気なく言ってしまった事を恥じた。自分の抱えているトラブルをそこに重ねてしまった。泣いている千恵子を見て、ひどく愛おしく思った。気がつくと、抱き合って泣いていた。お互いの悲しみを重ねるように自然に唇を重ねた。交互にキスを繰り返した。いつしか、二人の顔は互いの涙と唾液でぐしょぐしょになっていた。でも決して嫌ではなかった。母親の羊水の中を漂っているような感覚だった。アンティームな空間だった。幸福だった。

どのくらい経ったのだろう。もう深夜だった。お互いの汚れた顔を指さして笑った。
「顔、洗わなくっちゃ」
洗面所から出てくると、
「もう寝なくちゃ」
と千恵子はいい、散らかったテーブルを片付け始めた。焼酎は半分強残っていた。
「これどうする」
「あげる。大事に飲んでね」いたずらっぽく微笑んだ。
「悪いよ」
「じゃー、お休み。私達それぞれ大きな悲しみに会ったんだから、その分幸せになる権利あるよね。そう思わない」
悲しげな微笑みを浮かべながら意味深な事を言った。どういう意味なんだろう。

「もう、行くね」
と言いながらドアの方へとゆっくり進んでいった。
「ちょっと待って」
と言いながら千恵子を追いかけた。
後ろから抱きしめた。はじめ、千恵子の身体が硬くなっているのが分った。が、だんだんと力が抜けていった。
「分かった。ちょっと待ってて」
今度は悲しみと唇だけではなく、身体を重ねた。

目が覚めた。隣にいるはずの千恵子がいないので焦った。やっぱり夢だったんだ。ベッドから起き上がり、ふとテーブルに目を落とすとメモがあった。「お早う。海岸に散歩行ってきます。後から来てね。」

夢でなくてよかった。急いで着替えて外へ飛び出すと、宝石箱を覆したような晴天だった。誰かが盛大に祝福してくれているみたいだ。こんな朝のBGMは音粒が飛び跳ねるように舞うベト7(ベートーベンの7番)の第1楽章か、高揚感が半端ない5番の第4楽章に決まりだ。祝祭の朝だ。本当に「Fun×4」みたいな展開になってきたぞ。今ならどんな事でもできそうな気がする。有頂天だった。喜びで気が狂いそうだった。

開聞岳が大きく見える。空の青に雲の白が縦横に走る。貝を拾う千恵子の肢体は、きらめく波よりも眩しかった。
「こっち。遅いぞ!」もう化粧していた。きれいだ。
「御免、寝坊しちゃった」
「ボクっていつもそうだよね。この貝殻見て。きれいでしょ」
「君の方がきれいだよ」本心だった。
「もう、まったく」
いつものバカップルに戻っていた。
「夕べ、君、うなされていたよ」
「えっ、全然記憶ないけど」
「何か、嫌だ、嫌だと騒いでたよ」
こころあたりは山ほどあった。
「君もいろいろ大変なんだね」お返しされた。

朝食を取りながら、今日の旅程を決めた。まず枕崎へ行ってカツオを食べる。オムライスはダメ。それから吹上浜に行って、時間があったら知覧へも行って、夕方に鹿児島へ戻ってくる。

お目当ての彼女を手に入れてしまったのだ。駅へ向かう途中、このあまりにもうまく行く、否、行き過ぎる展開にふと怖くなった。それに今日は千恵子とさよならだ。どうしよう。
「どうしたの。さっきから暗い顔してるよ」
「まだ旅続けるんでしょ」
「ついてくる」
「無理だよ。東京で用があるんだ」
「連絡先さっき交換したばかりじゃない。またすぐ会えるよ。女々しいぞ」千恵子はいたずらっぽく微笑んだ。

ジェットコースターのように激しく上下する感情に錐もみ状態にされながら、笑顔の仮面を被るのは大変だった。不安を振り払うように頭を振った。何も考えずに行こう。それからの事は良く覚えていない。ユーフォリアの完璧な球体だった。その中で二人の自我が溶けだしていく。午前中、枕崎へ向かう列車の中で何を話したんだろう。昼、カツオ定食を食べながら何を話したんだろう。午後、二人ぼっちの吹上浜で抱き合いながら何を話したんだろう。沢山の言葉が鈍色の吹上浜に消えていった。脳裏に張り付いているのは、「もう、まったく」と言った後の千恵子の屈託のない笑顔だけだった。千恵子と二人でいると、あっという間に時間が過ぎていく。気が付いた時はもう夕闇の鹿児島に戻っていた。

お互いの出発まで少し時間があったので、お茶した。はじめはバカップルだった。が、もう少しで来る別れを前にして、お互いに言葉もだんだん少なくなっていった。しばしの沈黙の後、千恵子が突然切り出した。
「何かあったら責任取ってね」思いつめたような表情だった。
「何かって」
「分かってるくせにとぼけて」言葉に怒りがこもっていた。
一瞬の間をおいて千恵子はいたずらっぽく笑った。
「冗談よ。君の困った顔面白かった。真っ青だったよ」
また、からかわれた。冗談でなくても全然かまわなかった。否、そうなる事を望んでいた。そうなれば新しい生活が否応なく始まる。今の生活とおさらばできる。
「時間、大丈夫」
「そうね、そろそろ行かなくっちゃ」

このやり取りで、沈みがちだった気分も少し軽くなったような気がした。「じゃー、気を付けてね」
「松本君もね」
「連絡するよ」
「私も写真送るね」
千恵子は思いつめたかのような顔をして言った。
「私決めたんだ…」
列車のドアが最後の言葉を遮った。

千恵子は何を決めたんだろう。千恵子を乗せた列車は夕闇に吸い込まれてい
った。この時のさよならはAdieu(アデユー)でなく、Au Revoir(オルヴォワール)だった。

                              (続く)

 
1Warren Zevon, Hasten Down the Wind, Warren Zevon
2大滝詠一、雨のウェンズディ(作詞:松本隆、作曲:大滝詠一)、
A Long Vacation
3Boz Scaggs, Hard Times, Down to Then Left
4Joni Mitchell, Blue, Blue
5Bob Dylan, Don't Think Twice, It's All Right の歌詞の仏訳
6Tom Waits, Ol'55(Tom Waits)の歌詞、 Closing Time
7The Band, It makes No Difference(Robbie Robertson), Northern Light,      Southern Cross
8青葉市子、悲しみのラッキースター(作詞・作曲:細野晴臣)の歌詞、
ラヂヲ
9Boz Scaggs, We're All Alone, Silk Degrees
10 Eric Kaz, Cry Like A Rainstorm, If You're Lonely
11 Eric Kaz, Cul de Sac(アルバム・タイトル)
12 雨のウェンズディ(作詞:松本隆、作曲:大滝詠一)の歌詞
13大滝詠一、Fun × 4(作詞:松本隆、作曲:大滝詠一)、A Long Vacation
14 Fun ×4(作詞:松本隆、作曲:大滝詠一)の歌詞
15 Fun ×4(作詞:松本隆、作曲:大滝詠一)の歌詞
16 大滝詠一、恋するカレン(作詞:松本隆、作曲:大滝詠一)、
A Long Vacation
17 恋するカレン(作詞:松本隆、作曲:大滝詠一)の歌詞


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