Late for the Sky

今から40数年前の、まだ携帯もSNSもない頃のオールド・ファッションなラヴ・ストーリー。旅先の九州で運命的な出会いを果たした二人。数ヶ月後の再開の後、遠距離恋愛にも関わらず、順調に愛を育んでいたが…。

 
雲行きが怪しくなってきたのは薄々感じていた。クリスマス以来会っていなかった。と言うのは、千恵子が長野市内から野尻湖の近くの系列の病院に移ったからだ。転勤の代わりに彼女は正社員の座を手に入れた。転勤は三ヶ月限定だった。当然長野からは通いきれないので、寮住まいという事になった。三ヶ月過ぎたら戻ってくるので、長野のアパートはそのままにしておくとの事だった。当然転勤、昇進についての相談は受けたが、「嫌だ、転勤しないで」とは言えなかった。昇進に千恵子の声は弾んでいた。「おめでとう」と言うのが精一杯だった。病院のスタッフが少なくなった分、仕事に忙殺されているようだった。連絡が日を追うごとに少なくなっていった。「忙しいんだからしょうがないよ。そのうちまたゆっくり話す機会できるよ」、今の環境に手ごたえを感じている千恵子にそう慰められた。連絡手段を電話から手紙に変えた。毎日のように手紙した。毎週末には長野に帰るはずだから宛先は長野のアパートにしておいた。会いに飛んで行きたいのはやまやまだったが、その気持をぐっと抑えて博士課程入試の受験勉強に集中するようにした。今、長野に通ったらさすがにまずいだろう、そう思っていた。でも誰に対してまずかったのだろうか。気もそぞろだった。集中できなかった。その結果受験は惨敗した。が落ちた事よりも、これで晴れて長野に行けるという思いの方が強かった。長野で就職しよう。そう思っていた。
 
初見で千恵子が自我にコーティングされているのが分かった。ひび割れた箇所は無かった。表情が硬かった。冗談を言っても不器用に愛想笑いを返すだけだった。が、「何かあったの」と聞く勇気は無かった。怖かった。想像はついていた。いつものホスピタリティ精神も全く無かった。歓迎されていないのが嫌なほど分かった。窓から斜めに差し込む午後の光が埃の乱舞を照らし出している。部屋の埃っぽい臭いが主人の長い不在を物語っていた。
「お腹すいたから、何処かレストランでも行かない」
重たい雰囲気にいたたまれず口火を切った。返事は無かったが、千恵子が急いで外出の支度を始めたのがOKのサインだった。俺と話したくもないのか。そう思うと酷く悲しくなった。一体彼女に何が起こったんだろう。クリスマスまではあんなに仲良かったのに。アパートを出て、レストランに着くまで終始無言のままだった。
 
当然のようにオムライスを注文した。話を切り出すには酒の力が必要だった。生中をあっという間に飲みほした。これである程度胆力がついた。何を言われても耐えられる。準備はできた。驚いた事に、話を切り出したのは千恵子の方からだった。声のトーンはどこかよそゆきだった。
「試験どうだったの」
「落ちたよ」
「どうするの」
「働くよ」
「失敗したの私のせい」
「そうじゃない。努力しなかった事も含めて自分自身の能力不足。確かに大事な時期に君に夢中になって勉強に手が付かなかった。でもそれは君には関係ない事。君に熱上げたのは誰に頼まれたわけでもないから…」
しどろもどろだった。語尾が沈黙に吸い込まれてゆく。
「とにかく君のせいではないから、安心してよ。それより何かあったの。いつもと全然違うよ」
言った直後、しまったと思った。
千恵子は黙っていた。しばらくして「私もビール頼もう」と言った。ビールが来るとゆっくりと一口飲み、意を決したかのように重い口を開いた。
「私達もう終わりにしない」
一瞬何を言われたのか分からなかった。同時に「グシャッ」と何かがつぶれたような音がした。次に今聞いた事は嘘に違いないと思った。
「えっ、今何て言ったの」
「もう終わりにしましょう」
意に反して突然笑い声をあげてしまった。店のスタッフがこちらをにらんだ。可笑しくもないのに何故笑ったんだろう。悪い予感があまりにも見事に的中してしまった為だろうか。この笑いは否認だった。
 
「これで達磨の弟子になれる」独り言が思わず口に出てしまった。
「えっ、高崎で達磨でも売るの」
「違う、達磨大師。達磨大師の話知ってるよね」
「知らない」
ある大金持ちの商家の跡取りが達磨大師の説法にえらく感動して、弟子を志願したが断り続けられる。何もかも捨てて達磨大師の元にはせ参じたにも関わらずだ。一計を案じ大師の先回りをして、言われる通り何もかも捨てたのに、何故弟子にしてくれないのかを問うた。答えは「お前にはまだ捨てるべきものがある」、そういう話だ。院にも落ちた、千恵子にもふられた。私には達磨大師の弟子に志願しても良い資格ができたように思えた。端折ってその話をした。
 
「あなたのそういう所が分らない。酷く私を不安にするの」
ディランに振り回されたジョン・バエズのような台詞を言った。
「どういう所」
「だって突然の別れを告げられても、急に笑いだしたり、関係のない達磨の話を始めたり。ついていけない。あなたが良く解らない」
「どれも俺にとっては地続きなんだ。私という一続きの領野なんだ」
「わからない。普通はまず別れの理由聞くでしょ。それから何とか関係を修復しようとするでしょ。元カレは真っ赤になって怒った。ああいうのが普通の反応なのに」
「だってしょうがないでしょ。ここで嫌だ嫌だっていくら泣き喚いたいところで、何したところで、君が一人で決めた別れは覆らないでしょ」
「つらくないの」
「そんな事聞くなよ。つらいに決まってんだろう。こんなにうまく行った恋愛なんていままで無かった。このまま一緒になるもんだとばかり思ってた。だから余計つらいんだよ。もう生きてる意味なんてないかもしれない」
「君って振られても素直なんだね。普通そういう事、自分を振った相手に冷静に言えないでしょ。第三者が立ち会っていたら、私が一方的に悪者にされちゃいそうで嫌だ」
 
千恵子は再度ビールを一口飲んでから、言葉を継いだ。
「これだけは言わせて。たとえ君が聞く耳持っていなくてもね。はじめは、君が私を好きだという事が素直に嬉しかった。私も君が好きだった。ところがだんだんと状況が変わってきた。私が君を好きになっていく速度におかまいなく、ものすごいスピードで君は私に夢中になっていった。何でそんなに急ぐの。私の気持ちも少しは考えてよ。君は私に私以上のものを見ていた。私は私よ。だからだんだんと君の愛情を重荷に感ずるようになっていった。だんだんと居心地悪くなっていった。
特にこの一ヶ月本当君変だった。毎日のように手紙くれたでしょ。最初は微笑ましいと思っていた。ところが、週末長野に戻って郵便受けを開けるのがだんだんと気が重くなっていった。いつも郵便受けには10通近くの君からの手紙が入っていたから。最後にはもう読むのやめたわ。
それで決めたの。今度君と会った時、もし居心地の悪さを感じたら、しばらく距離をおこうって。実際会ってみたら、自分でそう思っていた以上に苦痛だった。一刻も早く君の前から逃げ出したいと思った。罪悪感はあるけど。生理的にもう無理なの。だからもう別れるしかないと思った。そういう事。本当はこういう事話したくなかった。お互いに傷つくだけだから。何も言わないでお別れっていうのが一番良かった。でも成り行きでこうなってしまった」
千恵子は唇を噛んだ。
 
分かっていた。千恵子が私から距離をおこうとしている事は。初めの頃、千恵子は私の、私は千恵子の、お互いがお互いのシェルターだった。二人で抱き合ってさえいれば、外界に吹き荒れる嵐を避ける事が出来ると思っていた。ところが、そんなつもりは全くなかったのだが、無意識に私が彼女に与えた勇気で、社会復帰を果たし順応するにつれ、千恵子は段々と私というシェルターを必ずしも必要としなくても良くなっていった。
逆に、私は増々千恵子に溺れていった。千恵子はそこへ逃げ込んでいれば安心できる、唯一のサンクチュアリだったのだから。二人のバランスが徐々に崩れいった。二人の間に隙間風が吹くようになっていった。私に出来たのは、今度こそ捕まえたと思っていた愛が、強く握った拳の指の間から砂粒のようにこぼれ落ちて行くのを、鳥のウィッシュボーン越しに、ただ眺めている事だけだった。あまりにも強く握りしめてしまったのだ。過度に千恵子に依存してしまったのだ。ぞっとするほど夢中だった。それを重荷に感ずる千恵子の気持ちもわからないではないが、そんな気配りができるほど私には余裕が無かった。袋小路に追い詰められていたのだ。
 
始めは私の周りをぶんぶんと飛びまわっていた千恵子の別れの言葉は、じわじわとボディーブローのように内部に浸潤してきた。私の自我は千恵子のそれと区別がつかないくらいに混ざりあっていた。そこから千恵子の自我が引き揚げていったのだ。この突然の引き潮は私の内壁にあまたの擦り傷を残していった。私という大地に亀裂が走ったのだ。亀裂は徐々に深くなり、そこから私は裂けていった。だから生木が引き裂かれるように痛かった。「痛い」というのがこの時の一番的を射た感覚だった。「感情は内臓の感覚である」という長年理解できなかった命題がこの時初めて腑に落ちたような気がした。
「痛い」
「どうしたの。何処か痛いの。君飲みすぎ。自分を振った人間相手にやけ酒飲まないでよ。もう止めなさい。それだけ飲んだら体壊すよ」
アルコールで感覚を麻痺させようとしていたのだろうか。それとも、突然空いてしまった空洞をアルコールで満たそうとしていたのだろうか。どちらにしろ、この場合の飲酒は緩慢な自殺だった。どれだけ飲んだらアルコールで溺死できるのだろうか。虚ろな頭でそんな馬鹿な事を考えていた。店のスタッフが嫌な顔をした。私の醜態に気をもんでいるのだ。ここはレストランだ。居酒屋ではない。ファミレスでもない。もう出よう。帰ろう。でも何処へ。
 
ふらふらと店を出た。突然ヘッドライトの閃光とクラクション、ブレーキ音が同時に襲ってきた。危うく轢かれる所だった。運転手がクルマから身を乗り出して罵声を浴びせかけてきた。
「何処見て歩いてんだ。轢かれそうになったのに、にやにやしてんじゃねえ。何だ、只の酔っ払いか」
嘲るように罵声を浴びせた。そう言うと満足したのか走り去っていった。
 
「しょうがないなあ。こんなに酔っちゃって。だから止めなさいって言ったでしょ。まっすぐ歩ける?」
千恵子にかかえられて、彼女のアパートに戻った。この期に及んで優しくして欲しくは無かった。情け無かったが、その時は、千恵子に身を任せるしかなかった。
「しょうがないから今日は泊まっていきなさい。私、明日仕事だから、始発の列車で野尻湖へ戻る。君も始発の列車で東京へ帰りなさい」
酔った頭に虚ろに響いた。自然に涙があふれてきた。止まらない。どうしよう。
「今度は泣き上戸。いい加減にしてよね。泣きたいのはこっちの方よ」
 
人間ってこんなに泣けるんだって驚けるくらい泣いた。身体中の水分がなくなって干上がってしまうのではと思えるくらい泣いた。涙がエンドレスで押し寄せてきた。どうやら泣き疲れて寝てしまったようだ。深夜にふと目を覚ました。毛布がかかっていた。この優しさも残酷だ。ハッとした。「俺は一人ぼっちになってしまったんだ」という驚きの何と虚しい事か。涙が止まるくらいの虚しい驚きだった。手を伸ばせば触れる事ができるくらいのところに千恵子が寝ている。だが千恵子はもう他人よりも遠い人になってしまった。もう二度とあの微笑みを見る事はないだろう。もう二度と千恵子を抱く事は出来ないだろう。もう二度と千恵子のオムライスを味わう事もないだろう。絶望とはこういう事だったのか。嫌というほど味わった。
 
昔、語学学校と大学のダブル・スクールをしていた頃、「孤独の甘美な気高さ」という点では立原道造とどこか通ずる所のあるJackson BrowneのLate for the Skyを愛聴していた。デヴィッド・リンドレイのギターが胸に刺さる。恋愛には憧れていた。が、そこに歌われているような悲痛な恋愛はしたくない。そんな事を語学学校の女友達とままごとのような疑似恋愛をしながら思っていた。その数年後にそこに歌われているような悲痛きわまりない失恋を実人生でトレースするとは、全く夢想だにしていなかった。クリスマスまでは私の人生はバラ色そのものだった。が、突然の失恋は私を奈落の底へ突き落とした。去年のクリスマスまでは「We Have It All」だった。それが今や「We Had It All」に、過去形になってしまった。
 
駅までどうやって来たのかも覚えていなかった。全く夢遊病者のようだった。私の後ろを歩いてきた千恵子が話しかけてきた。彼女の予想していた以上に打ちのめされている私の姿を見て、憐みからなのか、あまりに深く傷つけてしまった事への罪悪感から来る後ろめたさからなのか、それともその両方からなのか、声音は妙に優しかった。
「じゃ、これでお別れね。今思い返してみるとこの一年楽しかったわ。それに君はある意味私の恩人だしね。元気でね…」
 
これが愛の火床に微かに残った残り火の最後の輝きって奴か。人はそこに一縷の望みを託す。が、この希望は絶望の化身なのだ。地蔵菩薩が閻魔大王の化身であるように。それにこの言葉は、傲慢さに裏打ちされた慈悲だ。そう思った。普通なら怒っただろう。が、この時、私の心はあまりにも粉々に打ち砕かれていたので、怒りの感情すら湧いてこなかった。それよりもこの場からすぐにでも消え去りたかった。千恵子の言葉にいたたまれず、彼女に背を向けて階段を上り始めた。千恵子が追いかけてきた。もう少しで中央連絡通路だという所で千恵子は追いついた。
 
「待ってよ。人の話最後まで聞きなさいよ。失礼よ。忘れてた。これ取りに来たんでしょ」
と言って、チョコレートの箱を私に手渡した。そう数時間前まではヴァレンタインだった。
「いらない」
 
一旦受け取ったチョコレートの箱から手を離した。チョコレートの箱は階段を勢いよく、音を立てて転げ落ちて行った。最後には、四角い箱の角がつぶれ、壊れ、包装紙も破れて、階段下の汚れた雪の吹き溜まりで止まった。勢いよく箱から飛び出た数粒のチョコは残雪が解けてできた汚れた水たまりの氷上を滑り、壁にぶつかり悲鳴をあげて止まった。時のペレットが悲しみのハンマーに押し潰されてしまったのだろうか、一連の動きはスローモーションの映像として私の網膜に映った。デ・パルマの「アンタッチャブル」のシカゴ駅での乳母車のシーンを見ているようだった。その光景を今でも鮮やかに覚えている。二人の間の何か決定的なものが壊れる「ガシャ」という音を聞いたような気がした。
千恵子は「あっ」と小さく叫び声をあげた。怒りとも悲しみともつかない表情を浮かべ、私を睨んだ。哀れな奴とでも思っているのだろうか。
 
私は振りかえる事なく残りの階段を駆け上がり、中央連絡通路を進み、次に階段を駆け下り、上野行きの列車に飛び乗り、窓際の席に座った。別れの挨拶もせずに。何か一言でも発しようとすると、嗚咽になってしまう。何もかもフリーズしていたのだ。
視線を上げて、隣の線路に停車している列車に何気なく目を転じた。何とその列車の窓際の席に、窓ガラス二枚を隔ててすぐそこに、千恵子が座っていた。まるでボックス席に斜め向かいに座っているかのようだった。視線が会った。が、見つめ合っていたのではない。お互いフリーズして視線を動かせなかったのだ。千恵子の頬に一筋の涙の跡を見たような気がした。千恵子は泣いているのだろうか。涙で曇った私の目にはわからない。
こんな偶然ってあるのだろうか。こんなドラマチックな別れってあるのだろうか。まるでメロドラマのワンシーンのようだ。こんな事が私に起こっていいのだろうか。私はこの光景に酔ってしまった。この陶酔がさよならと感謝を千恵子に告げる最後のチャンスを私から奪っていった。数秒後、私の嘆きと千恵子を乗せて、野尻湖行きの列車がゆっくりと暗闇の中に吸い込まれていった。
 
これで完全に終わった。私を乗せた上野行列車もその後すぐ出発した。空はまだ漆黒だった。次の瞬間、オレンジ色の炎の舌先が山の端から現れ、徐々に闇を侵食していった。まるでアメーバーのようだ。瞬く間に朝焼けが空全体に燃え広がっていった。こんな鮮やかな朝焼けはいままで見た事が無かった。地獄の業火の様だった。空だけでなく、大地全体、何もかも焼き尽くしてしまえ。この列車も焼き尽くしてしまえ。そうすれば私の身体ごと、千恵子との思い出も何もかも消えてなくなる。
 
私の希望は叶わなかった。やがて、夜が明けていった。昨日と変わらぬ普通の朝が訪れた。が、私にだけは朝は訪れない。私の時間は昨日の夜で止まったままだ。闇の中に取り残されてしまったのだ。空は私を置いてきぼりにした。私は空に遅れてしまった。



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