第一開『秋』飴町ゆゆき

 秋は食べ物がおいしくっていけない。

 饅頭怖いで言うなれば、わたしはもっぱら秋が怖い。

 先日、山の中で栗をみかけた。台風の通過を受けてか多くの実が青い殻のままであちこちに落ちてしまっている。もったいない。そういえば、とわたしは栗ご飯というものをしばらく食べていないことを思い出した。あのこがね色した実がつややかな白米に包まれてお茶碗でもって食卓へ踊り出でる様は、久しく口にせずともありありと眼前に思い浮かべることができる。渾然一体。ほのかな塩気と栗の甘みがあいまって、口内は忽然と秋である。ああ栗ご飯。栗ご飯。茶碗を握らんとするわたしの手は空を切った。

 コンビニやスーパーの菓子棚で見かける季節限定テイストは、夏のチョコミントから一変してマロンか芋かパンプキンだ。気が早いものでハロウィン関係のパッケージがすでに棚を埋め尽くす勢いである。しかしなかなかどうして、パンプキン味のお菓子がヒットしているイメージがあまりない。美味しいと思った記憶もあまりない。だがまあカボチャ諸氏には冬の煮物になるまで出番を待ってもらうがよかろうとも思う。芋はといえば甘味であれば当然おいしく、ご飯にしても悪くはないのだが、こと栗ご飯と並んでしまうとやはり見劣りするというもの。比肩することはまずない。

 そんな話をしていると、同行者から栗の下処理の煩雑さについて指摘が入った。なるほど、確かに収穫からの手間を考えても一番面倒くさいのは栗だ。芋とて掘り出したものを洗うだけで調理できる。栗は外殻から実を出して虫食いを選別して内殻を割って出てきた薄皮をさらに剥いて、と可食部を取り出すだけでこの手間だ。渋皮煮などはさらに手間が十重二十重にかかると聞く。世の中には手間のわりにさほどうまくもないものがいくつかあるが、栗についてはそれらの反例を一掃してあまりある説得力で「手間をかければうまい」とつよく語りかけてくるようだ。以前、山中で手に入れたきのこから細かい木屑を丁寧に取り除いた時も、それと同じようなことを思ったものだ。

 対して、手間をかけずともうまいものだってごまんとある。果物なんかがそうなわけだが、少し前なら梨、今は葡萄でもう少しすると柿が来るだろうか。いちじくやアケビなんてものもあると、たいへんよろしい。そのままで食べられる果物についてはあれこれと言葉を弄したところでしようもないので控えるが、代わりといってはなんだけどもスタジオジブリの映画『平成狸合戦ぽんぽこ』はご存じだろうか? 狸たちの生活が四季を通して描かれている作品の、特に秋のシーンが印象深い。あの種々様々な里山の実りを口にくわえて、まあおいしそうに食べるのだ。そんな彼らが人間の食べるハンバーガーやてんぷらを欲する様が哀愁を誘わずして、いや、なんだ、まあこの話はいい。

 柿もいいが牡蠣の話もしておきたい。混ぜご飯については栗に譲るとして、牡蠣もいろんな食べ方のできる食材だ。真牡蠣のピークは冬であるからまだ早いと言われれば、まあそうなのだが。

 もう今から20年近く前の話になるが、わたしが小学生の時分、父に連れられて大人の会合に混ぜてもらうことがしばしばあった。仔細は省くが、父は海の男である。すると仲間が集まるのもまた海である。そうして毎年欠かさず秋に行われていたその会合というのが、実のところ牡蠣パーティーだったのだ。牡蠣のパーティーである。牡蠣とパーティーである。ただし踊ってもらうのは腹の中でだ。海に面した広場でバーベキュー台をいくつも並べて、片や生牡蠣、その場でナイフで開かれたぷるぷるの身にチュッとレモンを絞ってつるりといただく。片や蒸し牡蠣、焼き牡蠣、少し縮んで濃縮された身を刻み葱や紅葉おろしでさっぱりと。隣ではなんと牡蠣フライだ。揚げたてを箸でつまむと油がちるちるとまだ音を立てているのがわかる。口に入れる、刹那出す。熱い。当たり前だ。そんな判断すら鈍らせるほどに牡蠣が口の中に押し寄せてくるのだ。おとなたちは寄ってたかって食え食え、ほらこれを食えとわたしの皿を牡蠣で埋め尽くす。口に入れる。熱い。うまい。なんてこった。これは恐ろしいことだ。

 しかしそんな贅沢をさせてもらったのも、あとになって数えてみれば数年間ほどだったろうか。幼かったながらにわたしはそのときのことをよく覚えていて、今でも秋になると思い出す。だからわたしにとっては牡蠣は秋のものなのだ。

 とかく実りの多き秋にあって、わたしは何も食べずにはいられない。我慢なぞして太らぬのはむしろ秋に失礼というものだ。おいしいものはおいしいうちに、そして秋にはそれがたくさんある。ならば答えはおのずとひとつ、わたしはただ一心不乱の大食漢になるのみだ。前述の会はその後、メンバーの多忙と加齢で開かれなくなってしまったようだけれど、逆にそれもあって、いつかあんなふうに、自分の友達みんなでわいわいとただおいしいものを食べたいものだ、というのが、わたしの人生の当面の目標にもなった。そうしてそこに家族も呼べるといい。おいしいものを食べて顔をしかめる人を、わたしはまだ知らないものだから。

 まあなにせ、そういうことがしたいな、と思うようになったら、それはわたしの秋がやってきた証拠なのだ。

 そうして、先日リサイクルショップで見つけたバーベキューコンロを、わたしは取りもあえず炭と一緒に車に積み込んだ。

 予定はまだない。おいしいものと、それを共に食べる人とを、わたしはこれから探しに行く。だって秋はまだ、始まったばかりだ。

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