第八開『羽』飴町ゆゆき

 鳥の羽を集めるのが趣味だという人に会ったことがある。

 自宅の庭や、職場の駐車場など、何気なく歩いているだけでも地面に落ちている鳥の羽を発見できるのだという。この人は趣味の動物観察のために方々の山林へ遠出する際にも地面に目を光らせているらしいが、住宅地近くの雑木林も穴場なのだということで、早朝に散歩がてら羽を探しに行くこともあるのだというから驚きだ。


 ところで、地面に落ちていたものは、汚い。

 当たり前である。ともすると我々は「3秒ルール」などという呪文を唱えて事実を抹消せんとする傾向にあるが、一般的には、口に入れる物などは最もその清潔さに気を遣う部類といえるだろう。しかし口に入れないからといってそのものの不潔が許されるわけでもない。手ずから地面より拾い、収集し保管するものなどはそれにあたるだろう。鉱石などは集めてからも、手に取っていろんな角度から眺めるのがよいのだと聞くこともある。中には舐めて味を確かめる人までいるようだ。やはり手元に置くほど自分が好きなものであるからには、きれいであるに越したことはない。
 では羽はというと、これはやっかいである。ただでさえ地面に落ちていて汚いのに、そればかりか元はといえば鳥の体の一部である。人間の髪の毛であっても、自分のもの以外はあまり落ちているものを触りたくない人が多いだろう。それが鳥である。動物なのだ。彼らは我々科学文明にずぶずぶの人間からすると遥かに不潔な環境に晒されて生活している。その体表面の一部がまさしく羽なのである。その身にまとった塵や泥はもちろんのこと、血や糞尿などの分泌物から、ダニやノミなどの微細な虫ばかりか、ウィルスや病原菌まで様々なものがこれでもかと付着している可能性もある。

 汚くないわけがない。

 しかし、それをうれしげに拾う人は確かに存在するのだ。

 鳥の羽などというものは、いつ何時、自分の目の前に落ちているかわからない。だから準備は常に必要だ。かの人ともなると、外出する際は必ずピンセットとビニール袋を持ち歩いているという徹底ぶりである。それについては、以前、異性と街中をデート中にどうしても拾いたい羽を見つけてしまい、断りを入れてからそれを回収したところ、後日お付き合いの解消を申し出られた、というところまで、なにやらはにかみながら話をしてくれた。はにかんでいる場合ではないと教えてあげたかったが、まあ他人の人生は好き好きである。そこまで熱中してやまないものを得られた点において、彼は幸福そうであるし、それはそれでよいのかもしれない。
 さて、かようにたいへん汚い鳥の羽だが、別に素手で拾い集めてはいないことからも、衛生面に気を使っていないわけではないことはわかるだろう。聞けば、拾った羽は持ち帰ってからよく石鹸で洗い、電子レンジで加熱することで大方殺菌できるのだという。レンジにそんな使い方もあったのかと目からうろこが落ちる思いだ。メーカーは今後取説に付記するとよいが、併せて、恋人や配偶者に見つからないよう警告もするべきだろう。

 こうして乾かして殺菌もできた羽は、毛並みを整えられてからフィルムに封入され、ファイルに整理される。昆虫採集と同じようなもので、いつ、どこで拾った、どの鳥の羽かという情報が書かれた認識タグと一緒にだ。慣れてくると当然羽を見ただけでどの鳥かもわかるようだが、たまに見かけない羽を見つけたときは、それはまたうれしいのだという。図鑑を引っ張り出して、いわゆる「同定」作業が始まる。あまりに興奮したときは先述の洗浄や殺菌も忘れて、自室にこもって羽に見入ってしまうこともあるという。これではまだ当分は恋人もできないだろう。


 翻って考えるに、「きれい」とはいったい何なのだろう。
 鳥の羽といって、純白の羽が空からふわりと落ちてくるのを想像する人にとっては、羽は「きれい」なものかもしれない。しかしその実、大概の鳥の羽は汚く、「きれい」なものとして我々の手に渡るまでにはそれなりの処理が施されなければならない。(劇場版アニメ『リズと青い鳥』で希美が拾った青い羽をみぞれにわたし、受け取ったみぞれが後生大事に扱っているシーンがあったが、私はあれを内心ひやひやしながら観ていた。まったくの野暮である。)
 幸か不幸か、我々の目に「汚さ」というものは見えない。明らかなものを除き、ほとんどこれは可視化されていない概念だ。例えば、公衆トイレの便座に糞尿が飛び散っているのをみれば誰でも座るのを嫌がるが、誰かが拭き取った後であれば気にもならないかもしれない。しかしそれはただの紙で拭いただけかもしれないし、自分でアルコールを吹き付けた紙で拭いたとしても、そこにはまだ拭ききれず菌が繁殖しているところがあるかもしれない。拭くだけでは飽き足らず、除菌ペーパーを便座の上に敷かないと用を足せない人もいると聞く。こういったことをどこまでも追求して気にしてしまう人を潔癖症と呼ぶのであろうが、きっと多くの人はそうではないだろう。

 結局私たちにとって、自分で「きれいだ」と認識できさえすれば、それは「きれい」なものなのだ。「汚い」と認識できない限り、我々はその「汚さ」に気づくことができない。ついでに言っておくと、(世のお嬢さんがたはこれを聞くと耳を疑うようだが)、男子トイレでは手を洗った後にハンカチで拭き取る者は少数派である。嘘だと思うのなら駅や高速道路の公衆トイレを入り口から観察してみてほしい。彼らのうち驚くほど多くの者が、さっきまでおちんちんにあてがっていた手をサッと流れる水に通したかと思うと、手をぷらぷら振り回してしぶきをあたりに散らしながら外へ出ていき、歩きながらズボンのふとももかポケットの中で濡れを拭き取る。温風機をきちんと使う者がいたら民度が高い証拠だ。もしこれらがくたびれた中年だけのしぐさだというのなら、中学校や高等学校の男子便所を見よ。彼らはなんなら石鹸も使わずに、蛇口で濡らしただけのその手のまま、自分の前髪をせっせといじりだす。そうした手で隣の生徒に教科書を見せたり後ろにプリントを配ったりしているのだ。

 ただ、だからといって、我々はそれに気が付かない限り、「汚い」と認識することはできていない。事実としてそんな汚い手でタッチされようが愛し気に髪を撫でられようが、我々の身には特に何も起こらない。目に見えないものは能動的に意識しない限り、存在しないのと一緒なのだ。

 古来より日本に根付く「ケガレ」は未だ古いものではない。ただし、心に神を宿さない現代の人たちにとってそれは、誰かに知られないと発生しないものでもある。我々は科学文明を享受しているつもりで、事実は「無知」という共同幻想の中にずぶずぶと全身を突っ込みながら生活しているのだ。そうすると先に挙げた「3秒ルール」は、自分で自分や周囲の認識を捻じ曲げて「汚い」という属性の付加をなかったことにしてしまうものだ。現実的・唯物的には地面への付着と素手での接触で膨大な雑菌が食品に付着していることにまったく違いはないのだが、認識論的には何も起こらなかったことにされる。いわば3秒ルールは「無知」という幻想を作り出す、非常に呪術的な儀式なのだ。


 では無知は果たして悪だろうか。

 これについて私は一概には言えない。無知に悪とレッテルを貼れば、悪から逃れようと人は動く。そうすれば結果的に大勢が誰かの作った偽の「知」に踊らされることになるのは、世にはびこる疑似科学が暴かれるたびに我々が目にしてきた通りだ。だったら無知は善かといえば、これでは知がないがしろにされてしまうので、これもまた是とは言い難い。

 さすれば結局のところ「無知の知」こそが我々の目指すところなのかもしれない。なんのことはない、答えは2千年以上も昔にえらいひとが出してくれていたのだ。そしてこの場合、知を振り捨てて「知らなかったことにする」あの「3秒ルール」は、さしずめ「知の無知」といったところだろうか。私はなかなかどうして、これも嫌いになれないでいる。
 ところで「無知の知」で知られるソクラテスは今わの際に、医術の神アスクレピオスに雄鶏を供えるようプラトンに言い残したということだ。もしかするとこれをくだんの知人に教えてしまったら、今度は歴史の中から羽を拾おうとするかもしれない。けれど私はここで「知の無知」を発動して、思いついてしまったことを、その人にはなんにも言わないことにした。これ以上、かの人の未来の恋人との仲を裂くわけにはいかないからだ。

「拾うならせめて、クピドの羽を。」

 そんなクサい文句を思いついて、私はやっぱり、何も思いついていないことにした。3秒以内だから、何も問題はない。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?