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土居豊のエッセイ【関西オーケストラ演奏会事情 〜20世紀末から21世紀初頭まで】演奏会レビュー編 朝比奈隆と大阪フィル、1980〜90年代〈その6 大阪フィルと若杉弘の奇跡のマーラー〉

土居豊のエッセイ【関西オーケストラ演奏会事情 〜20世紀末から21世紀初頭まで】
演奏会レビュー編 朝比奈隆と大阪フィル、1980〜90年代

〈その6 大阪フィルと若杉弘の奇跡のマーラー〉


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正直言って、マーラーの交響曲の中でも第7番だけは、聴き始めてから長らく、意味がわからなかった。それもそのはず、この曲は、マーラー作品の中でも特に難儀な一曲なのだ。


※引用
『グスタフ・マーラー 失われた無限を求めて』アンリ=ルイ・ド・ラ・グランジュより
《交響曲第7番は、間違いなく、マーラーの作品のなかでもっとも謎が多く、また人気のない曲である。
(中略)
一見、交響曲第7番がたどる、夜から昼へ、敗北から勝利へという道筋はかなり単純に思われる。》


このラ・グランジュの記述のように、5番と並んで、悲劇的な開始から終楽章の勝利のファンファーレへ、というベートーヴェンの5番のようなシンプルな構造だと思って聴けば、そう聴けないこともない。けれど、そう思うには、どうしても1楽章がギクシャクしすぎるし、最後の5楽章も、勝利の凱歌というには、何度も繰り返し蹴つまずく。


※同
《第1楽章の序奏からすでに、テナーホルンの暗く雄弁な主題は皮肉っぽい小行進曲によって中断される。調性が不安定なこの行進曲は、前後をつなぐ役割を果たしている。たちまちのうちに、この作品においてはもはや即座に理解できるものは何もないという印象が強くなる。
(中略)
第7番は第6番のペシミズムのあとを受け、第8番の信仰を証する祈りに先んじているが、この曲だけで、マーラーのなかに叙事詩を描く大フレスコ画の音楽家、思想家、哲学者、または逆に時代遅れのロマン主義者、つまり人間の嘆きを歌う者しか認めないことがいかに馬鹿げているかは明らかだ。なぜなら、すべてが皮肉で、多義的で、不自然なこの交響曲にはそのいずれも一切存在していないからである。》


この曲を生演奏で初めて聴いたのは、以下のエッセイにまとめたように、1989年のことだった。

※エッセイ「クラシック演奏定点観測〜バブル期の日本クラシック演奏会」
第19回
エリアフ・インバル指揮 ベルリン放送交響楽団 来日公演 1989年
https://note.com/doiyutaka/n/n3787af53f6ef

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もちろん、その前に録音で何度も聴いていたのだが、上記のように、なんとも理解しにくい音楽だったので、マーラーの曲の中でも聴く回数は最も少なかった。
1984年録音のアバド指揮シカゴ交響楽団のCDが発売されて、そのCDを買って聴いたとき、この曲の意味がようやくわかったような気になった。
そうはいっても、聴いていてもっとも理解に苦しむのは、この曲の冒頭から活躍するテノールホルンだ。この楽器は元々が軍楽隊の楽器でドイツのブラスバンドでよく使われる。吹奏楽のマーチングをやったことのある人ならおなじみの楽器であるアルトホルンとは違う系統の、音域の高いチューバ系楽器だ。その音はオケの中で使うには荒々しく開放的で、どう考えてもオケの金管群としっくり融け合わない。
だが、それこそがマーラーの意図だというのを、この曲の解説やマーラーについての本で読んで、一応知ってはいた。だが、そう言われても、聴く側としては、もう一つ、しっくりこない。何より、テノールホルンが耳障りで、交響曲第7番の1楽章はあまり好んで聴く気にならないのだ。

※テノールホルンとは違う系統の楽器、ワーグナーチューバ

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ところが、実のところ、このテノールホルンが理解できれば7番を理解できるということが、だんだんわかってきた。
いろいろな録音を聴き比べるうち、この1楽章のテノールホルンの扱いの違いが、楽曲理解の決めてになることに気づいたからだ。
実のところ、録音で聴いて最初に納得がいったアバド&シカゴ響の演奏では、テノールホルンの扱いがずいぶんと雑だというのも、聴き比べるとわかってきた。
その点で、もっともテノールホルンの扱いが見事に効果的なのは、テンシュテット指揮ロンドン・フィルの録音だと思うのだが、このことは後でのべる。

さて、肝心の若杉弘指揮の大阪フィルの演奏会だが、このマーラー7番を実演で聴くまで、何度も接してきた。そのいずれもが完成度の高い、素晴らしい演奏会だった。同じ大阪フィルとは思えないほど、合奏の密度が緻密で、見事に合っている。さらに演奏の振幅の大きさや、主に大編成の曲が多いのだがそのアンサンブルの巧みさ、全く文句をつけられないぐらいの演奏が繰り広げられた。
だから、このマーラー7番にも、期待はしていた。その期待をはるかに超える超名演になろうとは。


※演奏会データ
大阪フィルハーモニー交響楽団
第280回定期演奏会
指揮:若杉弘

曲目
マーラー
交響曲大7番ホ短調「夜の歌」

1994年4月12日
大阪 フェスティバルホール


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この日、早めにフェスティバルホールに着いて、よく行っていた地下のカフェレストランで早めの夕食を食べていた。フェスティバルホールとグランドホテルの地下にある名店街の飲食店では、いつも数人、オーケストラ団員が演奏会前の食事をしているのだが、この日も、筆者が座っていた席の近くに楽員たちが食事しつつおしゃべりしていた。その話が、マーラーの7番の演奏についてだと気づいて、筆者は聞き耳を立てた。「何言うてるか、さっぱりわからん」「難しいなあ」と、途切れ途切れに聞こえる言葉から、若杉弘のマーラーのリハーサルについて愚痴っているのだと察せられた。
やはり、若杉弘の指揮は大阪フィルにはかなり難しく、説明が理解できていないのだろうか、それとも、これは関西人らしい照れ隠しだろうか。
音楽監督の朝比奈隆のリハーサルは、曲について小難しい説明はしないとのことなので、それとの比較でやはり若杉弘の練習は説明が小難しいのだろうな、というのは十分想像できた。
特にマーラーの7番だから、通常の曲よりも若杉の説明が難しくなるのも当然だろう。何しろ、マーラーにかけては日本人指揮者の中でも特別に力を入れている人だからだ。この日の演奏会パンフレットにも、若杉弘のマーラーへの傾倒ぶりを示す座談が掲載されていた。


※大阪フィルハーモニー交響楽団第280回定期演奏会のパンフレットより引用
《若杉弘:この作品だったら自分の思いを委ねてメッセージを送れる、これに一歩でも近付けば音楽をして生きている証になるという、そんな気持ちですね。それに、自分で自分を律するところもあって「これ(マーラー)しかない」と決めていた。
(中略)
私から見ても、マーラーのなかでは最もとっつきにくい曲(笑)。ところが、あるときドイツのオーケストラの友人が、有名な指揮者のもとで、この第7番を弾いていたんです。僕は客席で聴いてた。済んでから、僕はわけもなく感動してたら、その友人が「ねっ、まさに音楽のユーゲント様式だよねっ」と言うんです。そこで僕はハッと思いあたって。僕も美術が大好きなものですから。それからは第7番の楽譜をむさぼるように読みました。今まで一番遠かったものが、今度は一番近いものになった感じでした》

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筆者としても、以前から若杉の演奏に感銘を受けていたので、この日のマーラー7番は、大いに期待してはいた。ただ、オケが大阪フィルなので、やっぱりアンサンブルが荒くて細かいミスが多いだろうな、と予想もしていた。
ところが、演奏が始まってみると、これ以上ないほどの名演奏だったのだ。
この日、特に大阪フィルが絶好調だったのかもしれないし、若杉弘のリハーサルが、前述のように楽員に愚痴らせるぐらい力のこもったものだったのかもしれない。それにしても、そこまでの名演になろうとは、筆者は全く想像できなかった。
この日の演奏の細部がどうだったか、思い出せないのだが、この長い交響曲が、謎めいた1楽章から、しんみりとして陰気な中間楽章を経て、急転直下で輝かしい響きをこれでもかとぶつけてくる終楽章まで、ほとんど弛緩するところがなかった。何より、小柄で痩身の若杉が、激しい身振りで全身を目まぐるしく躍動させ続ける指揮ぶりは、まるで同じく小柄痩身だったマーラーの、語り伝えられる指揮姿そのもののように見えた。まるでマーラーその人が若杉に乗り移ったかのように見えたのだ。

さて、この日の演奏の細部を思い出せないので、次善の策として、若杉弘の指揮による同曲の録音を参考にしたい。


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若杉&東京都交響楽団のマーラー交響曲第7番、第1楽章の練習番号No.38から43までは、特に美しく、また特徴的だ。この交響曲の中でも最も天国的に美しいこの箇所を、若杉はいかにもロマンティックかつ崇高なまでの美しさで演奏している。ところが、その次が問題箇所だ。続くNo.42からの金管群に、No.43から加わるテノールホルンの音色が完璧に溶け合っているのが、まるで吹奏楽の合奏のように聴こえるのだ。これは、管楽器奏者の奏法がほぼ吹奏楽的にそろっているからであろう。これこそ、日本の交響楽団の演奏における大きな特徴だといえるのではないか。あるいは、この時の楽器はテノールホルンではなく、吹奏楽で一般的に使われるユーフォニアムだったのかもしれない。そうであれば、音色が他の金管群と揃っているのも無理はない。
同じ箇所を、例えばアバド指揮のシカゴ交響楽団の演奏で聴くと、テノールホルンだけは異なる奏法をとっているように聴こえるが、恐らくはそれがマーラーの意図通りなのだろう。
同じく、欧州を代表するオーケストラであるロイヤル・コンセルトヘボウ管弦楽団の演奏でも、シカゴ響の場合とは異なるが、テノールホルンが際立つような特徴ある奏法を披露している。
特に興味深いのが、テンシュテット指揮ロンドン・フィルの場合だ。マーラーが交響曲第7番のスコアに指定したドイツ系のテノールホルンは、英国ブラスバンドでも使われるサクソルン属の管楽器と似た、野太い音色の金管楽器だ。はたしてこの録音のテノールホルンが、英国ブラスバンドのテノールホルン(E♭管のアルトホルン)なのか、ユーフォニアムなのか、もしかしてワーグナーチューバなのか、定かではない。だがこの録音できくテノールホルンの音色は、オケの中で他の金管群とはっきり異なり、合奏が分厚く重なる箇所でも頭一つ飛び出て聴こえる。こういう効果を、マーラーは狙ったのだろうと思われるのだ。
それらと比較すると、若杉の指揮による東京都響のテノールホルンは、繊細に美しすぎるのだ。また、金管合奏の音色が揃いすぎているのだ。これは、吹奏楽の盛んな日本の金管楽器群の、宿命的な癖だというべきかもしれない。日本の吹奏楽で育まれた金管楽器の奏法は、良きにつけ悪しきにつけ、美しくない音色で演奏するのを嫌う癖があるのではないか、と筆者は考えている。

ところで、
若杉弘の演奏を初めて生演奏で聴いたのは、まだオーケストラの実演を聴くようになってから日の浅い高校生の頃だ。この時は、若杉弘だからと言うよりは、マーラー「大地の歌」を聴きたかったのだ。


※演奏会データ

指揮:若杉弘
アルト:グヴェンドリン・キルレブルー
テノール:マンフレッド・ユンク
管弦楽:京都市交響楽団

曲目
マーラー
アダージョ 嬰ヘ長調〜交響曲第10番(未完成)より

大地の歌

1984年11月22日
大阪 ザ・シンフォニーホール


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土居豊:作家・文芸ソムリエ。近刊 『司馬遼太郎『翔ぶが如く』読解 西郷隆盛という虚像』(関西学院大学出版会) https://www.amazon.co.jp/dp/4862832679/