DIC川村記念美術館①
8月末に来年1月末をもって閉館のアナウンスがあったDIC川村記念美術館(その後9月末に来年3月まで延長するアナウンスあり)ですが、この美術館の素晴らしいところの一つである「庭」について、私の主観で書いてみました。
DIC川村記念美術館の構成要素とは
作品、建物、庭園が三位一体となっています。
作品は日本人に馴染みのある印象派絵画は少なく、1900年代半ばのアメリカ抽象絵画が多くみられます。ここで所有されている絵画のサイズは2メートル✖️4メートルほどの大作ばかり。
日頃見慣れない抽象画が広い室内に展示されています。
建物は、大日本インキ化学工業者の創業2代目の川村勝己氏の高校の学友、海老原一郎氏が担当。当館では、ロスコルームに向かう廊下の緊張感とそれを解き放つ象徴のような窓の緑など、作品に向かう経路そのものも工夫されています。また、2階の木漏れ日の部屋は、長方形の部屋の2面の大きな窓から緑が溢れかえるように設計されており、時間と共に差し込む光の変化が楽しめます。
庭
そして今回伝えたい庭。
のどか。長閑。
これは2024年4月半ばの写真ですが、桜が散り始めています。淡いピンク、薄い緑に濃い緑が成長し始め、明るい空に照らされています。
美術館のホームページによると
春は桜、白木蓮、睡蓮、ヒツジグサ、ヤマユリ
秋はリンドウ、モミジ
秋はユキワリソウにオシドリ🦆
冬はフクジュソウ、ロウバイ
が咲いたり(飛来したり)するようです。
(ホームページには書いてないけど、梅雨のアジサイはアジサイだけの小径が庭園内にあります)
4月に行った時は、仕事の期初の繁忙シーズンで緑を求めていったのですが、藤棚(藤はまだ咲いていなかった)のベンチに座ってお弁当を食べながらのんびりし、裸足になって芝生の感覚を楽しんだりしました。
「山笑う」という言葉がありますが、まさにそんな感じ。大笑いでなく、ゆっくり芽吹いたものたちが、陽気と共に笑んでいる、そんな感じでした。
里山の四季を感じるということ
「山笑う」とは北宋時代の郭熙についての画論『山水訓』から来ているようです。
春山淡治而如笑 (春の山はうっすらと艶めき、微笑みあっている)
夏山蒼翠而如滴 (秋の山は青々と生気に満ちている)
秋山明浄而如化粧 (秋の山は澄んで清らかな空気を感じ、色づき始める)
冬山惨淡而如睡 (冬の山はぼんやりと薄暗く、まるで眠りについたようだ)
(カッコ内は私の意訳)
この場にいるだけで、四季を感じ、日差しの強さ弱さを感じ、季節ごとの植物や昆虫・動物の囁きを聞き、その空間を楽しめる、そんな場所になっているのがこの庭です。
庭がある美術館の意味
人間の方が植物やその他の動物より優れているわけではなく、人間が生きるのには動植物が必要。人間的も地球の存在の一つであり、動植物も同等。
人間中心主義で気持ちが苦しくなった時、自然と遊ぶことで保たれる気持ちは大きい。
アートとは作品単体を指すものではなく、それをどう受けとめ、どう感じ、生きる支えになるものであり、DIC川村記念美術館は作品・館物だけでなく庭と一体となって人を生かしているのだと思います。
晩夏の写真
言いたいことは書いたので、9月半ばに行った時の庭の写真を載せます。
今年は夏が暑かったので秋はまだ、、と思っていたら一部紅葉に向かっていました。山滴るから秋化粧へ。
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