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【OBインタビュー】FC琉球で働く内藤剛志氏。「同朋高校サッカー部で人間性がもすごく成長できた」

「サッカーに関わる仕事がしたい」。

そんな想いを胸に、サッカー部OBの内藤剛志氏は同朋高校を卒業後は新潟県のサッカーの専門教育機関「 JAPANサッカーカレッジ」に入学。今はJ2で昇格争い中のFC琉球で「スクールマスターコーチ」と「アカデミー広報」を担当している。

サッカー業界への就職は難しい中、内藤氏はどのような道を歩みJクラブに就職したのか。

そして、同朋高校サッカー部での3年間で、何を学び何を得たのか。FC琉球での活躍ぶりを聞くとともに、どんな高校生活を過ごしたのかを振り返ってもらった。

JAPANサッカーカレッジを卒業後はFC刈谷の広報担当に

──同朋高校を2015年に卒業されてから今は何をされているのでしょうか。

内藤 今はJリーグのFC琉球で「スクールマスターコーチ」という役職と「アカデミー広報」を担当しています。「スクールマスターコーチ」という仕事は、年少さんから小学3年生までを対象に沖縄各地でのスクールの指導とスクール全体の運営管理として企画運営をやらせてもらっています。「アカデミー広報」の方はアカデミーの活動をSNS等で紹介することがメイン。あとはユースの選手に取材依頼が来た時の対応をしています。

──なぜ地元の愛知県を出て沖縄県のクラブで働いているのでしょうか。

内藤 専門学校を卒業して元々JFLのFC刈谷で広報の仕事を3年間やらせてもらっていましたが、やはり「いつかはJクラブで働きたいな」と思って求人を探していたところ琉球が募集していたので。

──進学先の専門学校はどこだったのでしょうか。

内藤 JAPANサッカーカレッジです。高校3年生の夏くらいに(全国高校サッカー)選手権に出られなかったら選手としてはサッカーを辞めようと思っていました。夏くらいに選手権に出るのは難しそうだなと思い始めた時に、進路を決めるに当たりサッカーをしないのであればどの方向に進もうかと考えたました。ですがその時「自分からサッカーがなくなったら何があるんだろう」と思って、結局何も思いつかなかった。それだったらサッカーに関わる仕事がしたいなと思ったからです。あと、漫画の『GIANT KILLING(ジャイアントキリング)』を読んでクラブ運営のこともそこには書かれていて、「サッカーってプロを目指すだけじゃないんだ」と思ってこの仕事を目指しました。

──JAPANサッカーカレッジは新潟県の学校でしたがそこで迷いはありませんでしたか?

内藤 少しありました。他の道も探しましたがJクラブへ就職する方法がサッカーカレッジ以外に見つけられなくて、愛知の大学のスポーツマネジメント学科へ進もうかとも思っていました。ですがそこよりも専門の学校で2年間頑張ろうと考えてサッカーカレッジの道を選びました。

──そして卒業後にFC刈谷へスタッフとして入団した。

内藤 そうですね。FC刈谷は小さいクラブだったのでいろいろなことをしましたね。ホームゲームの時は運営担当として撮影からマッチコミッショナーの会議やピッチチェックも全て行いましたしSNSの更新もしていました。平日は幼稚園や保育園での巡回スクールにも行きましたし、1年目は本当に何でも屋でした。

──かなり大変そうですが……。

内藤 マニュアルが何もなかったので全部人伝に聞いて、「それでいいの?」と思うものはその場でやり方を変えたりとかしていて、全部自分で考えてやらなければいけなかったのはすごく大変でしたね。でも、初めてサッカークラブで働けて充実感はありました。

サッカー部の森岡監督と出会えたことは大きかった

──苦労している時に高校で学んだことが生きているなと感じたことはありましたか?

内藤 これは“体育会系あるある”だと思いますけど3年間で簡単に部活を辞めなかったことは「継続」という意味で繋がっていると思います。あとは先ほど話した「他人を認める」ということに関しては、刈谷の時もいろいろな人がいましたけどそこでいろいろな意見を聞き入れることができたのは高校の時の経験が繋がっているんじゃないかと。

──同朋高校での3年間を振り返って、どんな高校生活を過ごしましたか?

内藤 選手権のメンバーには絡めませんでしたけど、「同朋で良かったな」とすごく思います。森岡(優介)監督と出会えたことは大きくて、サッカー面もそうですし人間的なことが3年間すごく成長させてもらいました。僕はBチームをまとめる立場でもあったのでそこでの経験は今年から頂いた「スクールマスターコーチ」という役職をしている今でも生きています。

──高校3年間で学んだことや得たものは何かありますか?

内藤 人に対して受け入れやすくなったなと。いろいろな人がいると思いますけど、高校の時に「いろいろな人を認めよう」という話になりました。「自分が絶対に正しいわけではないので他人の意見をしっかりと聞き入れた方がいい」と当時言われて、それがすごく印象に残っています。それは社会人になった今もすごく生きてますね。「自分はこう思っていたけれど、こういう考え方があるんだ」という考え方を高校の時に学びました。

──そこから仕事にもある程度慣れたところだと思いますけど2年目、3年目はどんなことをされていましたか?

内藤 2年目は1年目と大きく変わらず、3年目はクラブの人が少し増えたので作業が分担されて仕事が少し楽になりました。でも、一人五役が一人三役に変わったくらいでしたが(笑)。けれどそれのおかげでSNSとか一つひとつの業務に対してこだわりを持ってやれるようになりましたね。新型コロナウイルスの影響で今年の3月に亡くなってしまったのですが、2年目に監督が外国人監督(ビラ・ヴェイガ氏)に代わって、その時は新鮮で面白かったですね。2年目、3年目は他のクラブのSNSを研究して取り入れることもありましたし、それが2年目、3年目での変化かなと思います。

──刈谷への入団を決めたのはやはり地元の愛知県だったからでしょうか。

内藤 そうですね。就活の時にJクラブへ行ける可能性もありましたが条件も刈谷とそんなに変わりませんでしたし「1年目にJクラブへ行ってもやれることは少ないだろうな」と。「それなら地域クラブでいろいろなことに携われた方が経験になるな」と思って、それで刈谷にしました。

今は充実感がある。同朋では後々生きてくることをたくさん学べた

──FC琉球で働き出してから仕事にはもう慣れましたか?

内藤 今年がFC琉球で働き出して2年目なんですが1年目は新型コロナウイルスが流行し始めた時期と被ってしまって何もできなかった。リーグ開幕戦の次の週に沖縄に来たのですが第2節目から延期になってしまったので3カ月くらいほとんど何もできずずっと在宅での仕事だったので気持ち的にも落ち込んでしまって夏くらいまでは「しんどかったな」という印象でした。リーグ戦が再開してからの業務的なミスが増えたりとなかなか調子が上がらずもどかしかったですが、少し慣れてきたくらいから仕事も楽しくなってきて今は充実感があります。

──仕事に慣れるようになって充実感を得るようになったきっかけは何かあったのでしょうか。

内藤 10月くらいにサッカースクールの体験があったのですがすごく大当たりして会員がどっと増えたり、ライターさんが会場に来ていらしてたのでその人にインタビューをしてもらって記事にしてもらうことがあったのでそこで「もっと頑張ろう」と思えたからですね。あとは3月にサッカースクールの「卒業大会」というのを全スクール生を集めてやった時もみんなすごく楽しんでくれて、「やってよかったな」とそれでモチベーションが上がりました。ポイント、ポイントでそういったことが起きるようになってから今のいい感じに繋がっています。

──今は念願だったJクラブで働くことができて充実感も感じていますが今後の目標は何かありますか?

内藤 「また地元に貢献したいな」という気持ちがあって、FC刈谷に戻るのか、名古屋グランパスで働くのか、はたまたサッカークラブではない他のスポーツに携わってもみたい。やってみたいことがいろいろあるので正直、「これ」という明確なビジョンはまだできてないです。

──ですがスポーツには何かしらの形で携わりたい気持ちが強い。

内藤 そうですね。ずっとサッカーに携わっているので、スポーツ系の何かの仕事がいいなと思っています。

──今のご自身の経験を踏まえ同朋高校を受験しようか迷っている方に向けて伝えたいことは何かありますか?

内藤 人工芝のグラウンドもありますしコーチも多いので各カテゴリー見てもらえることはすごく大きい。いい環境だと思いますし、それ以上に人間性の成長がすごくできると思います。なので卒業してサッカーを続けるにしろ続けないにしろ、後々生きてくることをたくさん学べると思います。主体性を監督は求めていると思うので、そういったところが同朋のサッカー部に入って一番学べる。まだ殻を破れていない中学生にとってもいい選択になると思います。

Photos:©️FC RYUKYU

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