人見知り②

人見知りだ。

正確には、人見知りだった。ある程度歳を重ね、様々な人と接して改善された。と信じたい。


痛感したとある体験がある。高校生の頃、前日の夜から台風の影響で午後からの登校にする、という日があった。十代後半、毎日が楽しくてしょうがなかった私たちにとって、とんでもない喜びのようだった。
いつもとは異なり、目覚ましもかけずに起きる。ゆっくり支度をし、それでも余った時間はテレビを見て過ごす。時間になり家を出る。電車に乗り、学校の最寄り駅に着く。駅の構内、駅からの学校までの道では、同じ高校の生徒を複数見つけた。友人も何人か見つけた。「早速声を掛けよう」そう思ったが、とある疑問は浮かんだ。
「一言目に何と声を掛ければいいのだろうか。」
いつものように朝からの投稿ならば「おはよう」でいいのだ。しかし今はお昼時。少なくとも「おはよう」の時間ではない。では「こんにちは」か。いやそれは畏まりすぎてはいないか。これから授業を受けるのに「お疲れ」も違う。
結局答えは出ず、知り合いに気付かれないように下を向いて登校した。


思うに、人見知りな人とは自意識過剰な人だ。「誰もが自分を気にしている。その期待に応えなければ、いやそれを越えなければ」と考えてしまっている。「よくありたい」という人間の向上心の根本が、一般の人とは違った形に、また過剰な形に発現してしまっているだけだ。


思い返すと、自分でも情けない話だ。「何を小さなことで」という感情も湧いてくる。しかし毎日に一喜一憂していた高校生。その当時の私を責める権利など私を含めだれにもない。思えばこの経験が私の心に残っており、無意識的に人見知りを正そうとしていたのかもしれない。
結果オーライだ。

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