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心に「弱い」とかあるんか

心とかメンタルとかが「弱い」と形容されることはよくあると思う。少なくとも私は、「メンタル弱いな」と言われることがある。そして、ほぼすべての場合、ここでの「弱い」には「悪い」という意味付けがなされているように思う。

そもそもどんな時に「心が弱い」と言われるのか。私は毎日色んな場面で涙ぐんだり、目で見て明らかなぐらいに落ち込むことがある。涙ぐむのはいかんと思ってはいるのだが、自分が納得できないことや理屈よりなにより嫌悪感を催す場において、自分で自分の感情を認識する前に、悲しいのか怒っているのか分かるよりも先に、涙がぶわっときてしまう。
最近では、涙ぐむぐらいで収まっているが、一時期あまりにも泣くものだから、どうにかしようと、なぜそもそも人が泣くのか検索してみた。私が納得した説は、人は混乱し、情報が上手く整理できないときに泣くというものである。となると、泣いてしまうのはどうしようもない。不意にわけわからんことが起こるから泣いちゃうのだから。混乱して、その状況を拒絶したり、逃げたり、いっかい落ち着こうとしたり、そんなこんなで涙は出てくるのだ、きっと。

「心が弱い」問題に戻ると、そんな風にしばしば涙ぐむ私であるが、涙ぐんでしまうからと言って「弱い」と言われるのは心外なのである。だって、別に「弱い」から泣いているわけではないのだ。ただ混乱と嫌悪によってその涙は引き起こされているわけなのだから、「弱い」のではなく、その事態をどう捉えるか、どう受け止めているか、それだけのことだろう。もしかしたら、私の物事の捉え方や感じ方が、多くの人よりも過剰なのかもしれない。でもそれだけのことだ。別にそこで「弱い」とか「強い」とかいう尺度を用いる意味が分からない。

更に、そこで「弱い」ことに「悪い」という価値がつけられていることが心外だ。「弱くていかんぞ」と言われても、それは「私はあなたの顔が嫌いです」とか「私はあなたのものの考え方が嫌いです」というのと同じで、言ったら失礼だし、顔と同じように、物事の感じ方も人それぞれで、良いとか悪いとか評価できるものじゃないし、「良く」なろうと変えるべきものでもない。なのにたいていは、「強くなれ」「強いのが良い」とそれが絶対的な価値かのように言われる。

ああ、うんざり、うんざり。

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