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卑怯な精神で、書く。

 書くことは、私にとって、読むことよりも重大で、他人の短歌は旧Twitterのタイムラインに流れてくるのを拾う程度で、歌集も数冊は持っているものの、ほとんど目を通さないでいる。往時は専ら、古文体の和歌を詠んでいたが、それでは評価を得られないので、今は結局、現代語で短歌を創っている。尤も、私の和歌が評価されないのは、私が浅学の徒で、古今調と新古今調の違いも未だ諒解していないからなのであるが。
 それでも、古典和歌に対する憧憬を捨てた訳ではない。普段から読む歌は古典である。別に現代短歌と比べて古典和歌が格調高いとか主張するつもりはないし、その資格も、学位さえ持たない私にはない。ただ何となく、平安時代の華やかな文化と、月だの花だのと誇張して、恋慕の情を明らかにすることに躊躇のない時代性が好きなだけである。
 恋心を伝えるということに関して、現代の日本は非常に繊細である。告白することには、大なる勇気と、失敗したときに被る侮蔑と恥辱への恐怖を抱かざるをえない。まして私のような醜男には、成功する目処はなく、従って恋愛というものは、ただ徒に心魂をすり減らすだけのものである。挙げ句、周囲では、いかにもモテなさそうな男に偽の恋文を渡してその反応を楽しむ下劣な遊びや、「好きじゃないのに好意を伝えられるのは不快」だとの言説も起こり、より一層形見の狭い思いがある。
 かく言う私も一度、偽の恋文を渡されたことがある。クラスメイトある女子から、別の女子から私に渡すよう頼まれたという体で受け取ったのだが、私はというと、その場で手紙を流し読みして、びりびりと破いて教室のゴミ箱にすててしまった。
 「面と向かって渡すのが礼儀だろうに、人づてに渡すとは無礼だ」と思っての行動だったのだが、その女子と、グルだった輩は、自分らの魂胆がハナからバレていたのだと勘違いして、よく分からないことを色々言って、私の機嫌を直そうとした。手紙が偽物だとは知らなかった私は、さすがに破り捨てるのは不味かったかと心配している時に、友人から事の真相を教えられてようやく安堵したという具合だった。
 こんな風に、自分から告白する勇気はない癖に、告白されるとその体裁をひどく気にするような卑怯な人格なので、不細工な風貌に拍車を掛けてモテないのである。
とはいえ、モテるとモテないとに関わらず恋をするのは人の性であるので、「一時の気の迷い」だとか「私が好いても迷惑なだけだろう」とか、果ては「恋は精神病の一種だ」などと、あれこれ言い訳を考えて自分の心を慰める習慣ができあがった。旧Twitterに投稿しているのは、そうやって否定して破り去って鬱積した私の恋慕であるが、要するに排泄物である。
書くことは、私にとってただの脱糞に過ぎない。世の中を変えたいだとか、文学の追究だとかいう立派な精神は持ち合わせていない。ただ少し人目に触れたいという卑怯卑屈の精神だけが、SNSに投稿する動機である。
こういう人間に対して種々の罵倒と叱責を与えるべきことは当然だと思うが、それを文字に起こすのがあまりにも億劫で気が重いので、本文はここで終わりにする。

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