負け犬の泣き言

こんにちは、犬です。

皆さん、イルミネーションは好きですか?
僕は好きです。
ピカピカ光ってるのが綺麗なので好きです。
馬鹿なので、光ってたら好きです。

この季節は街中がピカピカ光ってるので、
ああ街行く人々も光ってるのが好きな馬鹿なんだろうなあと嬉しくなります。

僕は基本的に冬が好きです。
冷たくて澄んだ空気も清潔感があって吸いやすいし、
イルミネーションだけでなく星空が綺麗なのも光ってて好きです。
また、どこに行っても聞こえてくるおちゃらけたクリスマスソングも
社会全体が浮き足立ってて微笑ましく思います。

でも、この季節に感じる嫌なことといえば、アレです。


彼女がいない。


普段は、独り身であることに特別何かを思うことはありません。
「あー彼女ほしいなあ」
くらいです。

しかし、街のイルミネーションを一目見るとどうでしょう。
「あー!!!彼女ほしいなあ!!!」
になります。


一体なぜ、イルミネーションの灯りやクリスマスの香りを感じると
彼女がいないことにダメージを受けるのでしょうか。

それは、人間が「ある」を見ると「ない」を感じるからだと僕は思います。


僕たちは普段生活していて「ない」ことに気が付くことは少ないと思います。
身の回りに存在していないものより、存在を認識できるものに注意が向くからです。
つまり、基本的には「ない」ことを忘れている時間の方が長いはずです。

前述の恋人に関しては、
恋人がいない人は四六時中「ない」状態です。
しかし、それについて常に考えている人はあまりいません。

一方、恋人がいる人は「ある」状態なので、四六時中とは言わずとも、恋人について考えている時間は少なからずあるはずです。

そして恋人がいない人は、街中でカップル、つまり「ある」状態の人達を見ることで、忘れていたはずの「ない」を思い知らされることになります。

そして「あいつら、映画『模倣犯』のラストの中居君みたいにならないかな」と思うわけです。わからない人は、映画『キングスマン』のクライマックスの方でもいいです。


恋人に限らず、街中では様々なところで「ある」を目にします。
お金持ち、恵まれたルックス、大勢の友達。
「ある」まみれです。
今後は、金持ちイケメン集団のことを「あるあるさんとこの探検隊」と呼びましょう。


街中だけではなく、ネット上ではさらに濃密な「ある」が飛び交います。
才能、実績、美貌、人望、充実した生活。
SNSには他人の「ある」ものばかり流れています。

最近僕がSNSをほとんど見なくなったのはそのせいです。
これ以上自分の「ない」に耐えられなくなりました。
SNSで繋がりのある方々がいろんな世界で活躍しているのを見続けて、最初は色んな気持ちで活力にも繋がっていましたが、今はもう悲しい以外の感情が湧かなくなりました。


えらい人はきっとこういいます。
他人と比べたって仕方がないよ、と。

そうではないのです。
僕は決して、他者より劣っていることを嘆いているのではありません。

僕がつらく思うのは、自分が「ない」こと、
そして、それを「ある」を突きつけられるまで忘れていたこと。
自分が「ない」人間だということから目を背けていたことです。

ナンバーワンにならなくてもいい。
もともと特別なオンリーワン。
ですらないのです。ワン未満、ゼロです。


えらい人はきっとこう言います。
ゼロじゃなくなる努力はしたのか?何もせずに嘆くのは傲慢では?


うっせぇ。
正論で殴ってくんじゃねえ。


取り乱しました。
でも、実際そんな簡単なことではないと思います。
まず、スタートラインの違いに悲しくなります。

輝かしい生活を送っている方々も、きっと毎日努力していると思います。
がんばっているからこそ、素敵なんだと思います。

でも、その人達はきっと「努力しろよ」と言われて努力しているわけじゃないと思うんです。
きっと自ら努力できる素晴らしい人達だと思います。

「努力しろよ」と言われるのは、それすら「ない」という自身の醜悪さへの気付きにしかならず、それはもうほとんどトドメなんですだからほんと勘弁してください。


話を戻しますが、人は「ある」を認識することで「ない」に気付きます。

才能がある人を見ることで、自分の才能のなさに気付きます。
見目麗しい人を見ることで、自分の醜悪さに気付きます。
愛される人を見ることで、愛されない自分に気付きます。

毎日忙しそうに活躍している人の話を聞くと、
それを眺める活躍していない自分を知ります。

多くの人達から誕生日をお祝いされる人を見ると、
孤独に誕生日を過ごす自分が見えます。

誰かの死を悼み流れる多くの涙を見ると、
誰にも知られずに朽ちていく自分の死骸を想像します。

でもそれは、突然そうなったわけではなく、
その時に「気付く」だけであって
「忘れていた」だけであって
見たくないから見ないようにしていただけであって

街のイルミネーションは、そんな自分に気付かせてくれます。


ここまで地獄の責め苦みたいな文章を読んでくださった方に
さらに陰湿なお話をひとつお届けします。

他者の「ある」を知ることで自身の「ない」を知るように
他者の「ない」を知ることで自身の「ある」を知ることもあります。

僕は時々、自分が安全な家の中で身の危険を感じずに生活していることに猛烈に安堵することがあります。

世の中には、
家がなくこの寒空の下で生活していたり、
刑務所の中で生活していたり、
暴力や恐怖に脅かされながら生きている人もいます。
今、この瞬間にもです。

そう思うと自分は、仕事以外の時間は好きな時に食べて、好きな時に寝て、
今もベッドの上でキーボードを叩いて好きな文章を作成しているなんて
どれほど恵まれているんだろうと涙が出そうになります。

そんな風に今のところは平穏な生活を送っている僕ですが、
残念ながら、友達とか才能とか実績とか恋人とか結婚とか家族とかお金とか車とか
なんかそういう輝かしいものは一切ありません。

そんな「ない」僕を見て、皆さんはそれぞれの「ある」を感じてください。
そして、安堵して毎日を過ごしてください。
なんだか酷く惨めな嫌味のようにも見えますが、そうではありません。

どれほど歪な形であっても、
皆さんに安心を与えられる役割が「ある」と僕は安心できるのです。

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