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松浦理英子の風変わりなキャラたち

価値としての奇貨

 松浦理英子の小説に、もの悲しくもじんわりとした温もりを感じさせる「奇貨」という作品がある。主人公の語り手「私」は、本田という四十五歳の売れない私小説作家の男である。同性の友人をほとんど持たず、糖尿病による性的不能から女性との交渉もないこの孤独な中年男は、会社員時代の後輩であったレズビアンの七島美野(三十五歳)と奇妙な同居生活を送っている。本田の2LDKのマンションに「家賃を何割か負担するという条件」で、七島が入居するかたちとなった。当時、七島は、彼女が恋愛感情を抱いた会社の同僚の寒咲という女性にこっぴどく傷つけられ、どうしたらいいかと悩んでいたのだが、本田が「この家に越して来てはどうか」と提案したのである。はみ出し者同士の本田と七島は、とてもウマが合った。七島は本田のただ一人の親友と言っていい。

 ヘテロである本田は、それなりの女性体験を持っているが、どういうわけかその関係は長続きせず、恋愛のような濃い感情とは無縁の人生を送ってきた。本多が演じるのは、他人たちが繰り広げる幸福感に彩られた関係性が放つ輝きの光景の目撃者という役割にすぎない。たとえば象徴的な原型として、本田には大学時代の奇妙な体験がある。「大学の飲み会からの流れで女二人と私だけになって、その内の一人の女のアパートに泊めてもらうことになり、一Kの六畳間に雑魚寝していたら女二人が抱き合ってキスを始めたのだ」。女たちの交歓のさまから、本田は大いに性技を学び、本田は女の体に触れる時は「細かく、念入りに」を心がけ、複数の女から「やり方が優しいね」と世辞を言われるようにまでなる。甘美な光景の見物人!本多の寄る辺ない魂は、甘美な光景に支えられることよって、到来するかもしれない精神の破局を免れている(松浦の最新作『最愛の子ども』もまた、私立高校のクラスにおいて、幸福な家族を演じる3人の女子高生たちの甘美な光景を見守る他のクラスメートたち、という構図が出来上がっている)。

 「奇貨」における極めつけの見物は、本田による盗聴である。七島にヒサという名の同性の友人が出来て、にわかに生き生きとし始めた七島の様子が本田は気になってしかたがない。隣の部屋から聞こえてくる楽し気な長電話の弾む声を聞くにつれ、「七島ばかりが楽しそうであることへの嫉妬」を幼稚にも感じると同時に、七島とヒサとの間には「私が七島に与えることのできないまばゆい何かがあり、私にとっては未知の幸福」を見出せるのではないかと、妄想を走らせる本田は、ついに越えてはならない一線を越えてしまう。七島の部屋に盗聴を仕掛けるのだ。それが許すまじきものであると知りつつも、本田は卑しいと同時にどこか可愛げもある奇天烈な言い訳を自分に言い聞かせながら実行する。

 ああ、一線を越えた、七島の信頼を裏切った、自分で自分を汚してしまった、という思いが胸苦しく立ち上がるとともに、これでおれも覗き見や盗み聞きをする人物を許せるようになるだろうな、という考えも静かに滲み出して来た。だいたいおれはもっと早くにこういう糞にまみれて同じような糞にまみれた連中と抱擁を交わさなければならなかったんだ、そうすればもっと視野も広く寛大になれいつまでも一人ではなかったかも知れない。おれはおれ流の糞にまみれて人を寄せつけなかったんだけれど、やっとかつて知らない匂いを放つ糞に身を投げた、ほしいものを獲りに行く<攻め>の姿勢にもたぶん初めてなれた、これはこれでいいことなんじゃないか、と妄言がずるずるとひり出される。寝言は後だ、獲りに行くぞ、と自分を奮い立たせる。

「奇貨」

 卑劣ではあるが愛嬌もある。江戸川乱歩が同じようなことを書けば、粘着性が高く重苦しくなるところだが、松浦の筆致は哀感がひょうひょうとしていて軽い。卑劣さと哀感がいい感じで仕上がっている。松浦というと、尖った少女のイメージが強く近寄りがたいところがあったが、糞野郎へのシンパシーをも持ち合わせ、懐の広いところを見せる。こうして本田による盗聴行為が始まり、七島とヒサとの会話から、寒咲とのバトルのやりとりの情報も得ることができ、その強烈な場面の熱と輝きを浴びて、強度に満ちた光景を渇望する本田の心も昂揚する。「いいぞ七島、もっとあがけ、もがけ、みじめになれ、そしておれにおまえの熱くて濁った濃い感情を分けてくれ」。

 盗聴という薄汚れた行為からある種の充実感を引き出す本田であったが、もちろんのこと、本田の過ちは七島に知られることになる。本田は心から七島に謝罪するが、本田自身、七島との関係がもはや元には戻らないことを痛切に自覚している。「何で盗み聞きなんてしたの?何が知りたかったの?」と七島から問われると、「友達同士の睦まじい遣り取りを」と答えて七島を呆れさせ、さらに子供の頃から無意識下に潜在していたものが、七島と新しい友人との交流の熱に接することで呼び出されたのだと告白する。「畜生、何十年も男同士のつき合いになんて興味ないと思って生きてきたのに」。

 本田の後悔はもう間に合わない。二人の同居解消が決定し、失ったものの大きさに改めて気づいた本田は、七島のことを作品タイトルである「奇貨」にたとえる。「奇貨居くべしって言うじゃないか。珍しい品物や人材のことだよ」。

 おれの珍しさにはあんまり価値がないけど。きみにはある。何しろきみは男社会からはみ出した男の味方をして一緒にいてくれる女だからな。それも母親だとか姉みたいに上から叱咤激励したり包み込もうとしたりするんじゃなくて、妹が兄貴にするみたいにそっと肩を並べてくれたり、ささやかな何かを手渡してくれるようなやり方で。初めて会社の飲み会で会った時からそんなふうだったよな。芯の強い妹みたいなきみにいつも力づけてもらってたよ。女房なんかいらないけれど、きみにはそばにいてほしかった。

「奇貨」

 本田は一生の間に一度出会えるか出会いないような貴重な人間を失ったようである。本田にとっては、「奇貨」は類まれなる高貴な価値をあらわす宝石のようなものとして受けとめられているが、本稿では「高貴な価値」を脱色して、違う角度からそれを考えてみたい。そのような考察を通して、松浦理英子と梶原一騎の共通点を見出し、さらには両者の差異を確認したい。

幼態成熟としての奇貨

 「奇貨」の「奇」という漢字には、「すばらしい」「めずらしい」という意味があると同時に「あやしい」という意味もある。また、「貨」はもともと「宝」の意味を持つ一方で、「通貨」の意味もある。とするなら、「奇貨」は、信任された一般通貨の対となるような概念ととらえることができよう。貨幣自体は、単なる紙切れであり金属にすぎないが、それは商品と商品を媒介する便利なツールであり、いわば言語のように人々の間で交換される媒体であり、したがって市場経済それ自体の機能を支える法のような役割を果たす。秩序(主に市場)を維持し、複数の人々におけるやりとり(コミュニケーション)を保証する一般通貨という装置は、ラカンが言うところの「象徴界」や「大文字の他者」という概念に似ている。「象徴界」とはわれわれの存在自体を規定する「構造」のようなものであり、その中で生じる人間関係を客観的に保証する第三者のような上位の審級を、ラカンは「大文字の他者」として定立化した。平たく言えば一般通貨は一般規範のようなものなのである。

 一般通貨を一般規範と見立てるなら、奇貨とはいかなるものになるか。言うまでもなく、それは「一般」からの逸脱現象である。松浦理英子の中心的主題である同性愛は、異性愛という一般規範からの逸脱現象であるし、「種同一性障害」なる新しい症候とともに「犬になりたい」という願望を生きる『犬身』のヒロイン八束房恵にいたっては、人間という類そのものから大きくはみ出してしまう。松浦作品の登場人物たちは、様々なやり方を通して一般規範に異議申し立てをするが、先述したように一般規範が象徴界に属するものであるとするなら、松浦作品の登場人物たちは、象徴界とは別のシステムとして機能する想像界と親和性の高い存在であると言える。システムを統治する象徴界が成人男性の空間であるとするなら、母子密着的な想像界は女子供の空間である。松浦理英子という作家には、象徴界へと参入しそれと引き換えに大人という存在になる、という社会的申し合わせに対する強い違和感がある。小説『セバスチャン』をめぐる富岡幸一郎との対話において、松浦は「幼態成熟」という概念へのこだわりを述べている。

 大人になるということが、いわゆる男になることであり、女になることであらざるを得ないような仕組みに世界はなってる。そのことに対する仕組みになってる。そのことに対する懐疑がありますよね。

 当時私は幼態成熟――生物学のほうで言うネオテニーですが、ある種の動物が子供が大人になるというかたちで成熟するんじゃなくて、子供の形のまま成熟してしまうという概念を知らなかったんです。知っていれば、勇気づけられただろうし、作品を作るにあたって援用したんだと思うんですが、知らないながらも漠然と、男や女にならなくても人は成熟できるのではないか、と考えていました。

「<畸形>からのまなざし」

 「既成の世界のシステム」に対する根の深い拒否感がある。それは存在の根源からやって来るような衝動であり、それゆえ生の全領域に及ぶような波及力がある。松浦作品に接して読者がまず目にするのは、レズビアンのようなセクシャリティに関わるものである。それは異性愛という成人男性の価値観を軸とした象徴界的な一般規範に対する抵抗を内包しているが、ことは性愛現象だけに限定されず、経済現象にもあてはまる。先に私は、象徴界を一般通貨とパラレルなものとしてとらえたが、それは一般通貨なるものが象徴界としてある「市場」における商品交換という経済行為とセットになっていることを含意する。それに対して奇貨は、それとは別のシステムを生きる。奇貨は、贈与と返礼という互酬のシステムを作動せる。

 奇貨は贈与と関わっている。松浦理英子と梶原一騎が交差するのはこの地点においてである。

友愛への情熱

 松浦理英子と梶原一騎の組み合わせというのは、奇異に見えるかもしれない。一方はフェミニズムの近傍にいる異端派であるし、もう一方は男尊女卑の信奉者に見えるマチズムの権化である。けれども両者に等距離で接近してみると、同じ血の匂いがすることがわかる。二人ともマゾヒズムに親和性が高く、それゆえ享楽への志向性が極めて強い。またそのことと連動して友愛の世界に過剰な情熱でのめり込んでゆく。

 小説「奇貨」では「友達ロマンス」なる言葉がキーワードとなっていた。七島が享受している「友達ロマンス」によって本田はおかしな行動に走るのだし、そしてさらにそれが昂進するにつれて本田は「同性の友達がほしい」と熱く願う予想外の自分を発見するまでにいたる。「友達ロマンス」といえば、七島以上に梶原一騎ワールドはその宝庫である。『巨人の星』における星飛雄馬と伴宙太の関係然り。星と花形満、佐門豊作の関係然り。あるいは星と牧場春彦との関係然り。『あしたのジョー』における矢吹丈と力石徹の関係も然り。そしてまたジョーとウルフ金串、カーロス・リベラとの関係然り。そのいずれもが、一般通貨によって統べられた味気ない市場空間とは性質を異にする、濃密な異世界で熱すぎる感情を沸騰させている。商品の売買という無機質な営みとは遠く隔たった魂のやりとりがドラマティックに描かれている。

 梶原一騎作品の登場人物たちの行動原理は贈与である。彼らは、ライバル同士という互酬的システムにおいて、善意純度100パーセントのような感情の塊りを互いにやりとりする。星飛雄馬の敵役であった速水譲次が持つ腹黒い計算高さを排した彼らの友情共同体は、一種の母胎空間を形成していて、そこに出入りする資格を持つには、彼らは成人男性へと成熟してはならない。いうなれば幼態成熟を宿命づけられている。矢吹丈が、力石徹やカーロス・リベラが属していたバンタム級にこだわるあまり、育ちざかりの体の体重増加を否定していたように、星飛雄馬もプロ野球界に入りながら、負ければ甲子園を去らねばならない高校球児のごとく生き急ぐ。川上哲治監督はそのような星の姿を「すべてかゼロか」と評する。じっさい飛雄馬はわずか4年で選手生命を終えてしまうのである。飛雄馬に限らず梶原作品の主要な登場人物たちは短命である。矢吹丈もカーロス・リベラも、パンチ・ドランカーとなり、死へと追い込まれる。しかも彼らは財を築くわけでもなく、無冠の帝王としてボクシング界を去る。冷めた目で見るなら、彼らは犬死をしたとしか言えないのである。

 「犬死」。これは侮蔑されるべき言葉であろうか。いやそうではない、と梶原一騎は異議を唱える。そして松浦理英子もまた、「犬死」という行為の名誉回復を図る存在を作品に登場させている。言うまでもなく、『犬身』のフサである。犬死においても、松浦と梶原は交差する。だがそこには微妙な差異もある。松浦作品のフサは犬であるが、梶原作品の飛雄馬やジョーは人間だからである。それは文字として表わせば、「犬身」と「献身」の違いとなるだろう。「犬身」と「献身」の差異に、おそらく松浦理英子と梶原一騎の差異がある。この地点において松浦と梶原の遭遇と別離がある。

「犬身」と「献身」

 松浦作品は、『犬身』以前から読んでいたし、『セバスチャン』の寄る辺なさには強く惹かれもしたが、一方で、この人は高踏派=美意識高そうだ、と近寄りがたさも感じていたのは事実だ。松浦理英子との距離が縮まったのは『犬身』に接してからである。「犬身」という聞きなれない言葉は、「献身」から来ているのはすぐにわかることだし、シャレとしての切れ味は今一つだとも思ったが、「献身」という言葉に思い入れを示す人はずいぶんと珍しい、と新鮮な驚きがあった。子供の頃絵本で読んだオスカー・ワイルドの『幸福の王子』に対する懐かしさが無意識の奥の柔らかい部分を刺激し、図らずも私はイタイケな子供に素直に戻らされたのである。『幸福の王子』が肯定されるような環境を求めていたのだと思う。『幸福の王子』に惹かれるような子どもは、間違いなく不幸だが、では、『犬身』というタイトルを持つ小説はいかなる作品であるのか。

 八束房恵という象徴的な名前を持つ『犬身』の主人公は、その名前にふさわしく、小学校2年生の時に「わたしは犬です」という題名の作文を書くほど「犬になりたい」という願望を強く抱いている。『犬の眼』というタウン誌の編集者をしていた房恵は、「天狼」というバーのマスター朱尾献と知り合いになるが、人間を遥かに超越した異能の持ち主の朱尾の力によって、房恵は願い通りに雄犬フサへと変貌を遂げ、女性陶芸家の飼い犬となる。飼い主の名は玉石梓。八束房恵といい玉石梓といい、『南総里見八犬伝』をすぐさま連想させる名前であり、作品世界は犬の匂いが立ち込めているのだが、さらには房恵たちが暮らす土地(狗児市)には「犬啼山」がそびえ、バー天狼のカウンター奥の棚にはジャコメッティの『犬』のレプリカが置かれ、また天狼では「ソルティ・ドッグ」「ブルドッグ」が飲み交わされるのだから、犬尽くしの運動は果てしなく続き、幼児の多幸感に満ち溢れている。「犬身」は「献身」以前に、文字通りの犬の肉体である。そしてこの犬の肉体は、愛する飼い主の愛情を一身に浴びる幸福の受容器としてある。フサは乳幼児の幸福感を思う存分享受している。ところでこれは松浦理英子に見られる関係性の原型ではあるまいか。

 というのも『セバスチャン』における麻希子と背理の関係がどうにもうまく理解できなかったのだが、『犬身』を読んで、この関係は母親と赤ん坊の関係につながっているのではないかと思い当たった。麻希子と背理の関係における麻希子の背理への従属ぶりは、いびつなほど不均衡に見えたのだが、それは母親に生殺与奪の権利を預ける赤ん坊が抱く恐怖感と母親の愛情を独占できることの万能感とに通じている。そこには贈与の原型がある。梓とフサの関係は母親と乳児の関係に似ている。彼らの関係は想像界=奇貨の空間なのだ。彼らが向きあわねばならないのは象徴界=一般通貨の世界である。象徴界と想像界の間で引き裂かれることが玉石梓の悲劇である。それは、吉本隆明の言葉を借りれば、冷酷で抑圧的な共同幻想と二人の人間の間で形成される性的にエロティックな対幻想との対立関係に似ている。それでは、フサがやがて知ることになる玉石梓が向きあっていた残酷な現実はいかなるものであったか。

 狗児市で「ホテル乾」を経営する一族の長女である玉石梓は、親の資産を背景に陶芸家として生活している。玉石家の家族構成は、父と母、そして梓の5歳年上の兄およびその妻と夫婦の間に生まれたばかりの長男である。親の財力で工房付きの一軒家を建ててもらい、曲がりなりにも梓がプロの陶芸家として活動していけるのは、一族が経営するホテルが梓の作品を買い取ってくれるからである。梓とフサが享受している想像界の空間は、一般通貨の世界がきちんと機能する象徴界の安定があってこそなのである。ただ「玉石家」という象徴界には所々にひびが入っている。玉石家の経済基盤は祖父の代に築かれたものであるが、二代目の父は経営者としても家長としても無力に等しく物語の途中で失踪し姿をくらます。ふがいない夫に落胆する母は、慢性的なヒステリー状態で、二人の子供に依存しきり、子供たちを消耗させる。母は息子を溺愛し、反面、娘には冷淡で、母と梓の関係はほぼ損壊していると言っていい。梓の心の支えは、バルセロナに住む未澄という名の友人と飼い犬のフサである。

 やがてフサは、安定しているかに見える生活の裏側で崩壊しかかっている梓の無残な生の姿を知ることになる。梓が中学1年生の時から、兄の彬による性的虐待が始まり、実兄との性関係が梓が三十歳になる現在まで続いていたのである。そのような残酷な現実に対する緩衝材としてフサとの親密な関係はあった。梓は母親のようにフサに接し、お返しに娘のようにフサから歓びを受け取っていた。実生活で崩壊していた家族関係(対幻想)を梓はフサに求めていた。梓は、兄との秘密を親友の未澄にも、ましてや家族にも言えずにいるが、意を決して母に告白しようとする瞬間がある。兄との関係を清算しようと自宅で彬と対決しながらも、体を求められたとき、梓は母に電話をかけ、「お母さん、来て、助けて」と最後の願いを母に発するが、その必死の言葉は虚しく宙に消えてゆくしかない。梓はとどめを刺され、この喪失の体験は最後の破局へと梓を押しやることになるだろう。

 梓と兄彬の関係の叙述はじつに鬱陶しく、読んでいてげんなりするところが多々あって、さっさと家出しろ、未澄の住むバルセロナに逃げろ、と思うことしばしばであり、じっさい未澄も、梓の近親相姦の秘密は知らないながらも、狗児市で生きづらそうな梓に「バルセロナに移って来ない?」と誘いかけるが、梓の返事はこうだ。「兄はどうでもいいんだけど、母を捨てられないのよ。わたしまで父みたいにいなくなったら、あの人、きっとおかしくなっちゃうわ」この言葉には、梓のなけなしの献身の欲望が表明されている。そしてそれは、献身の負の側面を背負ってもいる。

 こういうことだ。献身の欲望の根っこには、母から愛されなかった子供の「みじめなこの私を肯定してほしい」という母を乞う呻きのようなものが存在するのであり、その欲望の発芽形態は、ひとまずは、「犬身」という言葉で言いあらわされるように思う。その芽が成人男性へと成熟した時「献身」という言葉へと変貌する。先に松浦理英子と梶原一騎の差異は「犬身」と「献身」の差異だと述べたのは、そういうことを意味する(ただし梶原作品の悲劇のヒーローたちは「献身」から「犬身」のほうへと微妙に舵を切ってしまうのだが)。言いかえれば、「犬身」は想像界に奉仕するが、「献身」は象徴界に奉仕する。献身と象徴界の関係について、精神科医の斎藤環は次のように述べている。

 これらの教訓が教えてくれるのは、象徴的な意味でのフェアプレーの精神だ。自己犠牲も、少ない欲望を持つことも、結果的には「象徴界」に、それなりのものを払っていることを意味している。ということは、これらのお話は「支払ったものは報われる」ということが教訓になるか。でもそんなことを言えば、たいていの美談の構図は、こういう形におさまるよね。匿名での寄付とか、ボランティアとかね。つまり象徴界は、人間に無限の欲望をもたらすと同時に、あらゆる文化において、こうした自己犠牲的な「支払い」への欲望もセットで与えてくれるってわけだ。

『生き延びるためのラカン』

 「支払ったものは報われる」という思考は、いかにも象徴界にふさわしく、一般通貨の美学であると言いうる。共通の通貨を共有することで人々は共通の価値観を分かち合い、無限の欲望は自己犠牲的な支払いへの欲望で相殺される。人がそこに属する秩序は、そのような仕組みをその内部に組み込むことで、安定して作動することができる。社会というものが健全に存続するのであれば、それはそれでいい。けれども邪まな政治的思惑がそれにかかわる場合は注意を要する。

 たとえば、戦争などに動員される状況においては「献身」はたちどころに色合いを変えてしまう。「国王のために命を捧げろ」という言葉をそう簡単に肯定することはできない。国家に献身を尽くす無名の兵士は、「英霊」として象徴界に登録される、というストーリーを安易に信じるわけにはいかない。「献身」という運動は、象徴界の悪意に巻き込まれる時、負の側面を露わにするだろう。見捨てられた寂しさを慰撫しようと腕を差し伸べる母の誘惑を演じるように、象徴界はイタイケな魂に「崇高なる殉職者」という名称を手渡そうとするだろう。象徴界に愛着する者にとってこれは願ってもない申し出である。ではいったいどうすればよいのか。象徴界からの積極的な捨て子になれと、と松浦理英子は提案する。

 フサの最後を思い出そう。彬の暴力から梓を救い出そうと、果敢にも彬に襲い掛かったフサは彬の振り下ろす壺によって殴り殺されるが、象徴界(法の世界)においては、フサの死は「器物損壊罪」としてしか登録されない。象徴界において、それは文字通りの犬死である。悪い冗談のような不均衡ぶりである。けれどもその悪い冗談をことさら強調することで、松浦理英子は象徴界を戯画化し、それを思い切り侮蔑している。象徴界などその程度のものだ、と。そして象徴界が侮蔑されると同時に、「献身」は象徴界におけるポジションを失い、意味を失うことになる。宙をさまよう「献身」は、天狼のマスター朱尾によって、想像界の「犬身」として復活させられるだろう。物語の最後で、フサの「支払い」は報われる。

 ところで「天狼」という言葉から、私はどうしても矢吹丈を連想してしまう。原作者の梶原一騎の頭の中では、「野生児ジョー」「喧嘩屋ジョー」というイメージとして「狼」はあっただろうが、『犬身』と並行して梶原作品を読んだ場合、矢吹丈は象徴界と想像界の中間地帯をきわどいバランスをとりながら生きるイタイケな魂の持ち主に見えてくる(そもそも「狼」は「犬」と類縁性の深い動物である)。矢吹丈は象徴界の献身のほうへ転びかねない可能性もあるが、無冠の帝王を全うすることで象徴界に取り込まれることを回避している。矢吹が持つ「幼態成熟」の資質が、象徴界への抵抗として働いている。「幼態成熟」という資質を共有することで梓と矢吹は協働することが可能であるかに見える。成人として対した場合両者は決別するしかないが、少年と少女なら二人はともに歩むことができるかもしれない。しかしながら、おそらく松浦は二人の遭遇を望んではいない。松浦の拒否の理由が私にはつかみかねるが、その拒否は少女マンガと少年マンガというジャンルの違いから生まれるとしか思いつかいない。

すれ違う少女マンガと少年マンガ

 私が松浦理英子と梶原一騎の並行性に思い至ったのは、「奇貨」の次のようなエピソードを読んだ時である。私小説作家である本田が小説のネタとして、ある妄想のことを七島と友人のヒサに語って聞かせる場面がある。それは「飛行機の中に一組の男女がすわってる。男は女にぞっこん惚れてるけど、女の方はいっとき男とつき合ったものの今ではこの男を絶対に愛さないと決めている」という内容のものだ。「どうしてそう決めてるんですか?」とのヒサの問いに本田は次のように答える。

 そうだな。男の純真さの中に何か女の自尊心を傷つけるところがあるんだと思ってくれるかな。そんな二人が行きがかり上一緒に乗った飛行機がハイジャックに遭うんだ。着陸した先でお決まりの外部との交渉があって、一部乗客を飛行機から降ろし解放することになる。まずはモラルに従って子連れ客を降ろし、他にも何人か適当に選んで解放するんだけど、なぜか男も目に留まるんだ。ご都合主義でごめんよ。男の顔があまりに情けなかったからだってことにでもしといてくれ。
 男は戸惑いながらも立ち上がるんだけど、ハイジャックの顔色を窺いながら隣の女の腕を取り一緒に降りようとする。犯人たちも黙認する雰囲気なんだ。ところが、女は男の手を振り払って言う。「あなたに助けてもらうくらいなら死んだ方がましよ」と。この女はどうにもならないと悟った男は、胸の張り裂ける思いで初めて女の横っ面を思い切り平手打ちし、泣きながら飛行機を降りる。

「奇貨」

 「男の純真さの中に何か女の自尊心を傷つけるところがある」って、もはやこうなってしまったら、男と女はすれ違うしかあるまい。どちらか一方が悪い、ということは言えない。ジュゴンとアホウドリが出会って心を通わせようとしたが、属する類が違って無理だった、としか言えない。本多が語るこの場面を読んで、私は『あしたのジョー』の印象的な挿話であったジョーと乾物屋の紀ちゃんのデート・シーンのことを思い出さずにはいられなかった。「真っ白な灰しか残らない、燃えているような充実感」を語るジョーに、「ついて行けそうもない」と応じる紀ちゃんの姿が思い浮かんだのだった。

 思うに、松浦理英子と梶原一騎の違いは、少女マンガと少年マンガの違いというところに起因するのではなかろうか。私事で申し訳ないが、私は「日本SF作家クラブ」という団体のメンバーであるのだが、知り合いのメンバーと話していて、カルチャーショックめいたものを覚えるのは、マンガ体験が根本的に異なっているな、ということである。私以外のメンバーは、出自が私がその名を聞いたこともないような少女マンガ作品であるのに対し、一方私は、その土台の部分に梶原作品のような少年マンガがある。SF関係者で梶原一騎の作品が好きなのは、私と夢枕獏ぐらいである。

 そもそも私と少女マンガのファースト・コンタクトがあまりよくなかった。私には5歳年上の従姉がいて、小学校3,4年くらいの頃、彼女が持っていた少女マンガの単行本を読んでみて、あまりの凄まじい展開に、これはオレには無理だわあ、と拒否反応を起こしてしまった。題名も作者も覚えてはいないが、今思い出しても相当低レベルで少女マンガ史には残っていないはずで、探し出すのは困難なはずである。少女マンガに対する心理的遠さは、子供が演歌に感じる遠さに匹敵するかに見えた。男と女は根本的に違う、とその時ぐらいに感じた。とはいうものの、その従姉の姉である私より7歳年上の従姉は、『あしたのジョー』」の大ファンであったのである。さらに彼女は、その数年後には少年サンデー連載中の『男組』に熱中し、少年マンガしか読まないような人であった。まあ、彼女は雅なものからは遠いような人で、中学時代はテニス選手で大田区で優勝していたはずで、高校卒業後婦人警官になると合気道で警察署内の四天王の一人になるような人であった。してみると、根本にあるのは、文化部と運動部の間に横たわる溝ということになるのであろうか?

 ともあれ、松浦理英子の作品は血中少女マンガ成分が相当に高く、『セバスチャン』の主人公はイラストレーターであるし、『ナチュラル・ウーマン』の主人公もマンガを描いていた。松浦作品に梶原一騎が入り込む余地はないかに見える。玉石梓と矢吹丈の遭遇はいかにして可能か?言語表現面でも絵のスタイルでも難しいとなると、ならば音楽面ではどうであろうか。

 松浦作品には、しばしな、音楽が登場する。『ナチュラル・ウーマン』におけるそのままずばりの「ナチュラル・ウーマン」(アレサ・フランクリン)や『セバスチャン』の同じくずばり「セバスチャン」(スティーヴ・ハーリィ)や『最愛の子ども』の「ラスト・ナイト」(パフ・ディディ)など。どれもお洒落で繊細で高踏派少女マンガの趣きがある。シティ・ソウルという雰囲気に満ち満ちている。間違っても「泪橋」を背景に流れていそうにない。乾物屋「林屋」の紀ちゃんが聞きそうにない。ましてや丹下団平など完全無視されそうである。

 私が密かに期待するのは、松浦作品への丹下団平の導入である。お洒落な都会派ソウルではなく、骨太な暑苦しいソウルである。ボビー・ウーマックのような(たとえば「ジーナ」)。

 私の一押しはトム・ジョーンズの「恋はメキメキ」である。冒頭のトムの雄叫びが梶原一騎の熱い血潮と通じ合い、丹下団平の頬を伝わる涙と呼応する。これぞ少年マンガの神髄!

 あるいは萩原健一の「Angel」。これまた少年マンガ路線の名曲で、ショーケンのボーカルがトム・ジョーンズの歌いっぷりによく似ていて、あたかもゴスペル・シンガーのように神がかっている。

 丹下団平とトム・ジョーンズが松浦作品に導入され、両者が化学反応を起こす時、少女マンガと少年マンガのすれ違いは、新たなる高次の文学表現となって、アッと驚く遭遇を演じることになるのであろうか。矢吹丈と林屋の紀ちゃんのすれ違った淡い恋が、松浦の筆によってリライト(rewrite)されることを密かに期待したい。何だったら矢吹丈が戯画化されてもよい。オレは受け入れるぞ。たぶん。

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