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FEEL EARTH MEMORY #3

のちに伝説として語り継がれる「壁に鼻クソ塗りたくり事件」。全社員を震撼させたこの事件は、毎週恒例の「全体朝礼」において周知された。「全体朝礼」とは、月曜日の出社時刻・昼12時に、約70~80人の全部署・全社員が円陣を組んで集い、指名された幾人かが大声で「今週の抱負」を叫ぶという馬鹿げた習慣のことだ。

ぼくはこういう体育会系の習性を毛嫌いしていた。幼いころから、できるだけそういう場から離れたいと思っていたし、だからこそ読書や音楽といった1人で愉しめる世界へと逃げ込んだ。ライターを志したのも、その延長線上での出来心だった。

その日の「全体朝礼」に話を戻そう。
円陣の中央で、営業部長はイキり立っていた。イキり立つといっても、もちろん「おマタ(風俗情報紙では性器のことをこう表記した。全社共通の統一表記であり、違反すると酷く叱咤された!)」のことではない。営業部長は怒鳴った。

「おい、おまえらふざけんな! 誰の仕業じゃ!!」

窓ガラスがビビるほどの大声で叫んだかと思うと、彼はそばにあったゴミ箱を思いっきり蹴り上げた。まるでラグビーボールのように。One for All, All for One. 1人が皆を怒り、皆が1人に慄く。

しかし、社員のほとんどは、なぜ自分たちが怒鳴られているのかまったく分かっていなかった。

そのとき、ぼくの隣にはつい先週入社したばかりの新人くんがいた。新人くんは初め、なぜかニヤケ顔を浮かべていたが、数秒後にものすごくシリアスな表情になった。赤塚不二夫のタッチから小池一夫のタッチへの劇的な変化。人間はパニックに陥ると、まずはその事態を真正面から受け取め切れない。目の前で起こっている事象について、さまざまな角度から眺め、さまざまな推論を検証し、これは「最悪の事態」ではないと信じようとする。しかし、その努力も徒労だと悟ると、あとは絶望の淵へと吸い込まれていくのみ。このときの数秒間は、新人くんにそんなシークエンスを味わわせていたのだろう。

さて、営業部長の怒鳴り声は続いている。
「誰の仕業やって聞いとんねん! 階段の壁に『鼻くそ』を塗りたくったやつは! 誰や! 出てこい!! おまえか? おまえか? おまえか? ああ!? 出てこいや!!」
円陣の内側をゆっくりと歩き、一人ひとりの肩を激しく揺すっていく。

階段の壁を「鼻くそ」で塗りたくる? いったいなんのことだ? 誰もがまだ状況をうまく飲み込めていなかった。営業部長は怒りのあまり、順を追って説明することができないでいたのだ。

そこで、傍らにいた副本部長が、二の句を継ぐべく円陣の中央へと歩み出た。

「じつは先週末、ビルの管理会社からうちへ連絡があったんや。2Fと3Fをつなぐ階段の踊り場、そこにある壁が妙な汚れ方をしている、と。その階段を使うのはうちだけやから、クレームを付けられたってワケや。まあ、そこまではエエわ。ホコリやタバコ(当時はどこでも喫煙OKだった)の煙で汚れるんはよくあることやさかいな。で、本題はここからや。その汚れがあまりに妙なもんやから、管理会社が調べてみたところ、どうやらその汚れは『鼻くそ』やったらしい。あのな、言うとっけどな、ひとかけらやふたかけらやないぞ。ほぼ壁一面や。長期間にわたり鼻くそをなすり付け続けたやつがいて、そのせいで元々は真っ白やった壁が、『白と茶色の2トーン』になってもうてるんや!」

初めこそ紳士的だった副本部長も、最終的には感情を露わしていた。「おれは情けないわ!」と苦虫を噛みつぶす副本部長を見ながら、ぼくもまた同感だった。「早く辞めたい」という切実な想いは募る一方だった。

全体朝礼はそのあと、小学校の学級会の様相を呈していった。営業部長の号令のもと、全社員が目をつむらされ、「よし、もうええやろ! 犯人は正直に手ぇ挙げろ!」。

ぼくはうっすら目を開けて辺りを見回したが、手を挙げた人間は見当たらなかった。そりゃそうだろう。ていうか、手を挙げるやつがほんとうにいるとでも思っているのだろうか。ああ、なんと低レベルな集いなのだろう。アタマがクラクラする。いっそのこと、「はい、エラいすんませなんだ! ほうです、ワイがやりました。ほな辞めさせてもらいますよってに。サイナラ」とでも言って、振り返ることなくこの場から立ち去りたかった。

「まあエエわ。そのうち犯人暴いたる! なんか心当たりあるやつは、あとでこっそりおれに教えに来い! 言うとくけどな、管理会社からは『リフォーム代を弁償するか、テナントを出て行くか』の2択を迫られてるんやぞ。なっさけない!」

営業部長が吐き捨て、ギリギリと歯ぎしりを響かせたのち、程なくして全体朝礼は解散となった。「鼻くそ」のせいで、ビルから追い出される会社。そんなのは聞いたことがない。ぼくはなぜか興奮していた。

解散後、自分の机に向かうふりをしながら、同僚とともに「現場」となった階段の踊り場へと向かった。いままでまったく気付かなかったが、その光景は驚くべきものだった。ビル内の壁はすべて白で統一されているというのに、その壁だけ、確かに「白と茶色の2トーン」になっていたのだ。

壁に近づくと、真犯人が誰であるかはすぐに窺い知れた。茶色くなっていたのは、身長170cmのぼくが精一杯手を伸ばしても、まだ15cmほど届かない高さ。つまり、身長185cm以上の長身でないと、壁に鼻くそは塗りたくれないのだ。となると、やつしかいない。製版部に属す、宇宙船サジタリウスのジラフのようなアイツ……。だが、ぼくたちはチクるようなことはしなかった。そんなことより、一刻も早くこの会社を辞めたいと思っていたからだ。

・・・(つづく)