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FEEL EARTH MEMORY #7

あれからどれくらいの時が過ぎたのだろう。気付くとぼくは、薄暗くイカ臭い店の奥に置かれた安っぽいビニールのソファに腰掛け、蝶ネクタイを着けたオールバックのおっさんの唇の動きをみつめていた。にわかには信じがたいことだが、おっさんはまるで、己が生きていることを恥ずかしいとは一度も思ったことがない、というような口調で何かを静かに唱えていた。説教のように捉えることもできなくはないが、恐らくそれは、生まれ落ちてしまったことへの呪詛に違いなかった。さらに哀れなことに、その口調は途中から曲がりくねり、幾度も袋小路にぶち当たり、そしてどこでもないカラフルな「お菓子の家」みたいなところに辿り着いた。

「アンタもツラい想いをしたやろけど、それがアンタの成長につながると思たんよ。でも、まあもうじゅうぶん反省したやろ。だから、今度からはあんまり他人のことをナメたらアカンで」

はい、と頷きながらぼくは思った。ほざけ。臭い息吐きかけんな。ウンコ喉に詰まらせて窒息せえ。手段は問わん。可及的速やかに死んでくれ。頼む、この通り。なんやったら5千円出したる。欲しいやろ? カネのため以外にこんなとこで働く理由なんてないやろ。かわいそに。さすがに口には出せなかったが、顔にははっきりと出した。

ついさっき、雨の御堂筋で阿呆みたいにぼーっと突っ立っていたときは、なんというか暗澹としてて、ほいで何故かちょっとセンチメンタルも入ってて、内向きなことばっか考えてたけど、「もうええわ、入っといで」と店内に誘われたのをきっかけに、脳みそ全体に倦怠感がぐるぐるととぐろを巻いて、もう全部どうでもよくなっていた。っていうかムカついていた。店員にドツかれたりして怪我でもしたら、そのまま警察に駆け込んでもうたろ。よっしゃ、これでようやっとこの世界からお別れできる。そう思ってたのに、またか、また引き戻されてまうんか。もうええわ。やってられるか。どもありがっとって、ハイヒールでもよう言わんわ。

その後のことはあんまり覚えてないが、外に出ると雨は上がっていた。それもムカついた。なんじゃこの展開、マンガかえ。いや、んなわけあるかえ。どんなマンガじゃい。それははっきり口にも出した。けっこうデカ目の声量で出した。結局、なんだかんだで3時間ほども棒にふってしまった。まあ、土下座謝罪では相場といえる所要時間だったが、〆切に追われていたぼくにとってはケッタクソ悪かった。

ムシャクシャしながら、とりあえずタワレコへ向かった。4階のワールドミュージックフロアでテキトーに散財して鬱憤を晴らしたかった。サイフにはたぶん1200円くらいしか入ってなかったが、きっとまだカードの利用可能額は8000円ほど余ってるはず。コレを使ってしまうと週末のパーティで使う分がなくなってしまうが、アコムの利用可能額もまだあと7000円くらいはあるし、最悪の場合はカノゲンに貸してもらおう。知ったことか。

この時分、ぼくが毎日暗い気持ちで過ごしていた理由はいくつかあって、もっともデカかったのは風俗業界の仕事のことだったが、それと同じくらい借金というのも糸を引いていた。消費者金融2社から計120万、地元(大阪郊外)の信用金庫から70万、OMCカードのキャッシング枠から30万を借りていて、毎月、最低返済額だけで8~9万を徴収(リキラリアット)されていた。給料はだいたい25万ほどあったが、借金を返し、家賃・光熱費・携帯電話代などを差し引くと、給料日のうちにあっという間に手元には3、4万ほどしかなくなった。

それなのに毎週末、クラブで遊んだあと早朝ヘルスでヌいたり、CDやレコード、マンガにも次々と手を出していた。借金は膨れ上がるばかりで、ひっきりなしに取り立ての電話がかかってきた。

「今月の返済分、まだ入金確認できてないんですけど、どうなってますのん」

毎月のことなので、相手もかなりぞんざいな口の利き方をする。電話口だというのに、ぼくはヘイコラ頭を下げ、いわば「リモート土下座」でなんとか場をやり過ごそうとした。そういう生活がもう何年もずっと続いていた。そんな暮らしがおかしくてあなたの横顔みつめてたのはかぐや姫の赤ちょうちん。でも、ぼくにはみつめる横顔もなかった。どうせあの世まで取り立てには来れやせんし、もうどうにでもなれ、ああこりゃこりゃだった。

そんな日々の中で学んだのは、電気代は少しでも滞納するとスグに送電をストップするということ。深夜まで仕事をしてボロアパートに帰って来ると、なにもかも真っ暗、冷蔵庫の中身は腐ってるってことがよくあった。ただ、携帯電話は2ヶ月くらい、水道代とガス代は3、4ヶ月くらいは溜め込んでもだいじょうぶだということも体得していた。

「あ、明日ちょうどお金が入ってくることになっているので、それでスグに送金します」

「あれ、おかしいな。今日振り込んだはずなんですけど。あ、振り込みしたのが15時過ぎちゃってたからかもしれない。明日、もう一度入金確認してもらえますか」

どちらもウソだったが、そんな苦し紛れな言い訳で、なんとか毎日を凌いでいた。しかし、消費者金融だけは怖かった。何度か数ヶ月分の支払いを遅延したことがあったのだが、途中で電話の声が女性からおっさんに代わり、督促状を送るだの、勤務先や家族に電話するだの、けっこう怖いことを言われたのだ。だから、消費者金融の分だけは毎月まっ先に返済するようにしていたのだが、どうしてもそれができない時も何度かあった。

その日、ぼくはタクシーでなんばに向かっていた。借金を抱えているくせにタクシーなんてナマイキだが、乗らなければ約束の取材時間にどうしても間に合わないタイミングだった。もし間に合わなければ、当然のごとく、また土下座謝罪せねばならない。それは避けたかった。

電話が鳴ったのは、タクシーをつかまえる直前だった。画面に通知された電話番号から、それがここ数日ずっと無視し続けている督促電話だということは分かったが、そろそろ応対しないとヤバいのではないかと勘が働いた。案の定、電話の声は怒気をはらんでいた。

「いい加減にしてくれないと、こちらも出る方法が……」

そんな意味のことを言われたように思う。ぼくはタクシーの中でひたすら謝り続けた。そういうところに人柄や育ちの良さが出てしまうのだろう。相手に姿は見えないというのに、電話片手にぼくは何度も実際に頭を下げた。もしかしたら、そのときの風を切る音が伝わり、それほどまでに誠意を込めて謝っているのならと、こちらの心情を慮って譲歩してくれるかもしれない。そんな甘えがなかったといえばウソになる。

だが、世の中はそんなに甘くない。譲歩してくれるわけもなく、ガンガンに詰められ、ガンガンに頭を下げさせられた挙げ句、明日の朝10時までに必ず返済入金をするという約束をさせられた。できもしない約束をさせられ、ひたすら謝り続けるというのは、精神的にも肉体的にもキツい。電話を切るころには、疲れとともに、変な汗が一気に噴き出していた。車窓に流れる風景がどんどん色褪せていった。

タクシーはアムザの前に停めた。料金は1600円くらい。汚いナイロンのサイフから、なけなしのカネをかき集めて支払う。時計を見ると、取材時刻まであと数分。ああ、これはダッシュしなければ間に合わんな。お釣りを受け取ると同時に、バックパックを背負って虚飾まみれの街へと走り出そうとすると、運転手がぼくを呼び止めた。

「にーちゃん、ちょっとちょっと」

初老の運転手は、助手席の窓を開け、ぼくに向かって三本の指を立てる。

「あんな、聞いてもうたんや、さっきの電話。でもあれ、街金やなさそうやな。ほうやったら3ヶ月はだいじょぶや! 3ヶ月はぜったいにアイツらなーんもよう手ぇ出せへん。ワシも経験あるから分かるねん。ほなな、がんばりやー」

ふわっと、時空から解放された気がした。そして、その一瞬の後、土下座とは違う意味で、また地べたにべったりくっついた。何かを言いたいのだけど、それが何なのかが分からず、しばらく立ちすくんだのち、ああそうか、「ありがとう」やわと思った。タクシーはすでに御堂筋方向へ走り出していた。