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「かさね」と「継起」

正法眼蔵「現成公案」から:

諸法の仏法なる時節
すなはち迷悟あり修行あり生あり死あり諸仏あり衆生あり
万法ともにわれにあらざる時節
まどひなくさとりなく諸仏なく衆生なく生なく滅なし
仏道もとより豊倹より跳出せるゆえに
生滅あり迷悟あり生仏あり
しかもかくのごとくなりといへども
花は愛惜にちり 草は棄嫌におふるのみなり

近代的な知の構図なら、何かメインテーマ(Mとしよう)があって、それを説明するための小テーマや、基礎となる諸々のデータ、推論のプロセス、関連事項の説明などが、Mに向かって収束していくように配列されるだろう。Mを目的点として、そこに手前からだんだん近づいていくようになっている。絵画の遠近法のような構成をとっているわけだ。

だが中世日本の遠近法はそれではなかった。ものの奥行きは「かさね」の技によってつくられた。

安原盛彦[1] によると、寝殿造は「奥」について極められた空間だった。基本構成は、外から内に向かって、庭 → 簀子(すのこ、濡縁のこと) → 庇(ひさし) → 母屋(もや) と層状になっていて、これに板戸や障子など建築的仕切と、簾や几帳などの室内的仕切を以て、室礼(しつらい)が作られた。さらに、扇・香・着物という身体的仕切に包まれるようにして、寝殿の主人である女君がいた。重ねられるさまざまな室礼はどれも対等であり、同時存在する。近代的遠近法のような、主題に向かう序列はない。

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中世後期、寝殿造は書院造に置き換わる。母屋の周りにかさねられる静的な構造に代えて、庭に沿って雁行する廊が、その屈折点を廻るたびに現れる風景の継起をひきおこす。これは時間的・動的な「かさね」といえる。

次に茶室が出現した。露地を通りながら庭の草花を眺める。その継起のプロセスが躙口(にじりぐち) を境に切断され、外部を見せない制御された光のもとで、茶がおこなわれる。たった今通ってきた露地は、消え去ったわけではない。それは直前の記憶として茶の所作にかさねられる。再び茶室から出れば、そこには先ほどと変らない露地があるばかりだ。露地の自然と、茶室の作為。この対比がさらに空間の継起にかさねられる。

道元は、仏法を説くのに「時節」という言葉を使っている。仏法という主題に向かって論証を組み上げる遠近法ではなく、継起する空間のなかに仏法を置くというやりかただ。彼の父・源通親は平氏政権の重臣だった。厳島神社の海景の奥に経典を納める事業(平家納経)に中心人物として関わったにちがいない。とすれば、仏法はそれだけを純粋に論理として究めるのではなく、自然から作為までのすべての「室礼」の一部として、継起すべきものだ。

インドの胡地からはるばる仏法はこうして形を変えて、道元の手にある。仏法が世界を満たす時、迷悟あり、修行あり、生あり、死あり、諸仏があり、衆生がある。それらすべてが消え、迷いもさとりもなく、諸仏も衆生もなく、なにも生じず、なにも滅しない時もある。世界はその二層をもつ。いや、二層を設えたと言うべきか。豊かだったり倹(つつ)ましかったりするこの世界=露地に、仏法という作為をかさねる。所作をおえて外に出てみれば、そこにはなんら変ることなく、花がちり、草が生えているばかりだ。

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[1] 安原盛彦 2016: 日本建築空間史 –– 中心と奥 (鹿島出版会)。図はその 59図を使用。

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