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風さへあつき

忘れずはなれし袖もやこほるらん寝ぬ夜の床の霜のさむしろ
定家

忘れてはいないでしょうね、わたしのこと。今夜は寒いよ。わたしのことを思ってお気に入りの袖が涙で濡れて、きっと凍ってるよね?わたしも寝られない。さむしろ*(敷物)に霜でも降りてきそう。

来なくなった男を恋い焦がれる女の立場で詠む。当然、フィクションだ。女心をリアルに描写することがテーマなんじゃない。炎と燃える恋慕を、凍る涙と霜降るさむしろで描いた凄技。寒色だけで構成された画面が熱い。

もう一首。これは真夏に出会いたかった。

ゆきなやむ牛のあゆみに立つ塵の風さへあつき夏の小車
定家

この描写力。「写真」を字義通り真を写すという意味にとると、まさにある夏の日の「写真」だ。前の一首のように想像力と構成力で詠むかと思えば、写実だって超一流。

和歌は貴族のたしなみだったはずだ。貴族の和歌に「ゆきなやむ牛」は現れない。牛はいたとしても、豪華な牛車を優雅に引いている。「小車」(庶民の荷車)はありえない。他の貴族たちの目に入らない無数の情景がこうして詠まれるのを待っている。当然、新古今和歌集には撰ばれない。やっと百年後の玉葉和歌集に載せられた。

同じことは現代の写真にも言える。高性能のカメラ・アプリを誰もが使えたとしても、目に入らないものは写せない。風さへあつき夏を、撮れるか。

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* さむしろ|さ=狭、むしろ=蓆。現代日本語では、農家などで作業のために地面に敷く藁編みの敷物を指すが、もともと蓆は敷物一般を指す。べつに粗末な敷物という意味ではない。「さむしろ」は幅の狭い敷物で、「寒さ」とも掛けられている。

写真は、富澤大輔写真集 "GALAPA" から。



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