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「不登校(予備軍)/行き渋り」で学校に行きづらい長男くんと

『不登校』や『行き渋り』という言葉について、1年ぶりに考えている。少し前に我が家の長男氏が学校に行きづらくなってしまった点をポストしたが、実は1年前にも学校に行けなくなった時期があった。

同様に級友との関係がこじれてしまった結果であったものの、確かに眉を潜めるような内容であったことと、それを受けて涙ながらに「学校に行くのがツラい」と話を出された時には夫婦揃って顔を見合わせ複雑な気持ちになったものだ。

今回は、前回ほど深刻な事柄が合ったわけでもないが、時期的なものなのか何なのか、とにかく学校へ足が遠いている。

どうも、おはよう!会えなかった時のために、こんにちは!こんばんは!おやすみなさい!えんどう @ryosuke_endo です。

『学校は好き』『学校は楽しい』

これは紛れもない、彼の言葉だ。

学校へ行きづらくなっている現状でも、この感情に全く嘘偽りがあるとは思えないほど快活に述べてくれている。

普段も彼の口から聞かれる学校の様子は、時にはトラブルもあるだろうが特段困り果ててしまうようなこともなく、言い方はおかしいが「平常運転」だったし、ただ日常的に夫婦共働きの状況で毎日が忙しなく過ぎていったこと以外は特に大きな陰りはなかったと感じている。

では、なぜ学校に足が向かないのか。

我々の対応に依存して(甘えて)いるのかもしれないし、彼なりに踏ん切りがつきづらい状況や条件があるのかもしれない。

1年前の前回、彼は確かに散々な目に合ってしまった。「それは学校に行くのがツラくなるのは仕方がない」と納得しかなかったため、むしろ学校に行くことを制限してしまおうかと思ったほどだ。

しかし、彼はそれを乗り越えた。

散々な目に合った事柄を踏まえ、対象となる人物の人格を嫌うのではなく、その行為だけを見て謝罪があれば何ともないと言いのけたのである。

「罪を憎んで人を憎まず」を地で行く人間を目の当たりにしたわけだが、今回も行きづらくなったきっかけは級友や他のクラスの児童とのトラブルがあったであろうことは聞いているものの、それも日常的なものであり解決が困難なものではなかった。

そして、今回も前回同様きっかけとなった事柄に対し謝罪があり、今後当人が気をつけてくれるのであれば気にしないし、それ以降は「これまで通り」で構わないと平然と述べるのである。しかし、学校には行けなくなってしまった。

明確な問題点があるわけでもなければ、学校が嫌いなわけでもないのに学校には行けないのである。

甘やかしなどではない

一点、上で「我々の対応に甘えているのかもしれない」と書いた。

彼の視点で見た際に、その性向があることは否定しないが、ぼくと妻さんとの間には相当な葛藤があることだけは付け加えておく。

「引きずってでも学校に行かせる」だなんてことは当然考えた。ただ行きたくないだけでわがままを述べているだけであることは既に思考した上で対応済みである。

しかし、短期的にはそれで解決するかもしれないが、長期的に見た際にはどうか。仮に、今回は引きずっていった結果、彼が「諦めること」で学校に通うことになったとしよう。

親側から見た、その成功体験は次にも同じ行動を取ることになるだろう。それが2回3回と続き、親側は何の疑問も抱かずに同様の態度と姿勢で突き放し、それを当然であることを提示し続けたとして、それは親子関係が構築できているのだろうか。

本当に学校でいじめにあっていたり、相当困難な状況に立たされるような状態になっていたとして、無理やりに突き放してばかりきた親は子どもから「話をしてもらえる」のだろうか。

おそらく無理だ。

子ども側は忖度をすることだろう。忖度をした結果、断られるような提示をすること自体が無意であると考え、相談をすることの敷居が非常に高くなるのは目に見えている。

ぼくたち夫婦が子どもたちに提示したい態度はそうではない。

自らの意思で決めたこと。学校に行くことですら、それを彼らに求めたいし、そうなるように関係性を対等にしていきたい。簡単ではないことは重々承知している。実感もしている。相当困難だ。

今回は長男くんの性格も相まって、なかなか苦労をしているのは事実である。少し弱気なところもあれば、挫けてしまった事柄に対し「やる」と決めて行動するまでに時間がかかることも少なくない。

ぼくたち夫婦が年齢と体格、何よりも生活権に盾にマウントを取っては彼に行動を強制したところで、後々に必要な時に求めている情報を出してくれない状況を生み出す関係性を構築したいとは思わない。

家族だからこそ他人であることを前提に

今後、彼の主な生活圏や交友圏は自宅を離れる一方だろう。

肉体的な成長に伴い、物理的な移動距離が広がっていくだろうし、物理的な距離が広がるに連れて興味や関心は自宅や我々夫婦から離れていくことになるだろう。

そうなったとしても大事な話をできる関係であること、そんな話がしやすい関係であること、そうでありたいとそうであるべきだ。ただ、これもぼくや妻さんのワガママなのかもしれないとも考える。

ぼくや妻さんが彼らをいくら思っていたとしても、彼らにとっては迷惑な話になるのかもしれないし、ウザったいのかもしれない。

ぼくたちが抱く思いを彼に押し付けることもしたくないし、彼にそれをありがたく感じてもらいたいとも思わない。そうなるのだとしたら本質的ではない。

ぼくや妻さんもそうだし、ぼくと彼とは家族ではあるが別人であり、他人だ。だからこそ、相手の感情や行動を理解する姿勢や態度を取る必要がある。

もし、上で家族だという点を理由に「わかっている」、「どうせ甘えている」「厳しくすることこそ家族」みたいな思考に至るのであれば、それこそ甘えだ。自分の思考を「わかってくれる」と伝える行為をサボっているのだから。

結構な日にちを休んだ。

学校側とも相談し、直接本人を含めて担任と面談をした。その場ではにこやかに笑顔を見せていたものの、やはり翌日になると学校に行くことがどうもダメになる。そんなことを繰り返している。

なかなか、難しいなと感じながら過ごしているが、これができるのも今だけなのだと考えると、感慨深いものでもある。

複雑な心境だが、悪くはない。いや、よくはないだろうけど。

ではでは。

えんどう

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