メシア 【5】

慌ただしさにより、夢の中から引き戻された気がする。昨晩は寝床で寝ずに机で日記を書きながら寝ていたようだ。背の高い方の窓からまだ朝6時の光が床に差し込む。いつのまにか床に落ちていた日記を拾い上げ、椅子から立ち上がる。どうも、周りの民家から人が動く音が聞こえる。ゆっくりと納屋の戸を押した。

隣人たちもいろいろな私物を手にバタバタとしている。ちらっと金貨なども手の平に持っているのも見える。一心不乱に地面に物を埋める。また、家の前の道をいかにも綺麗であるか、凛しているかとみえるように整えている。普段は穏やかな日々を過ごしている老婆も慌てふためき、前の道の整理作業を大勢の男どもとしている。

空気がやはり穏やかではないものだった。歩いているとこちらの方に掛けてくる者。居酒屋の主人であった。たまに夜中の男手が足らないときに引っ張られて仕事を押し付けてくることが多い。「おまえはなにをしている。歩いている暇があるのか。」怒号に近い声だ。「すみません、ご主人。今日は朝からなにかあるのでしょうか、隣人の様子がおかしい。あなたもそう。」居酒屋の主人は話し出す。ほんの数時間前、この村を統括する領主サーベルから各村、集落に使いが来たようだった。「王が来る。」村人たちの顔色が変わるのに十分な情報であった。王の名前は知らない。ただ、王が訪れた村が、最近潰されたことを聞いた。それはかなり離れた、いくつも山を越えた場所の村であった。理由はしらないが、「破棄」との一言で、村の建物が消え、村人は各地に飛ぶ。所有していた土地は王の所有となる。領主の意見など通りはしない。いや、意見などした者の消息は、まったく貧富の差などなく塵のように消えることは、立って歩けるようになったばかりの子供たちでさえ知る。

ただ、僕はというと、この村ではいないことになっている。村人だれもが認識しているし、知覚をしている。しかし、他からの、つまり外的なものからは一切の情報を遮断されるが如く、僕の存在は抹殺されている。村人たちの私怨のものではなく、業のためか、過去のことか、僕自身は知る由もないけれど。そういった暗黙の認識のため、外的な、王の行列ではまさに知られることがないように、そういった災難があるとき、僕は村の奥深くに隠れる。それが常だ。「そう、また急な」とひとりで呟いた。

少しの衣類と、食べ物と、あの日記を抱えるために今しがた出てきた納屋に戻る。納屋の中に入ると、そこにはちょうど飲み物と少しのパンが置いてあった。こういう時、自分の身の回りをしながらも村の人たちは、抹殺をしているそんな「空気」にお供えものをする。そんな表現があるのか分からないけれど、大切にしてくれている。ありがたい。それを麻で出来たカバンに入れた。

木の箱を踏み台にして納屋の窓に手をかけ、勢いよく飛び越えた。ふわりと宙に浮き、体を回転させて、地面にゆっくりと着地する。草むらで、ちょうど伸び始めた名前を知らない雑草を踏み鳴らしながら山の方へ進む。数秒後に納屋の戸が開かれたような、そんな音が聞こえた気がした。過去に一度、王の行列が来た際には聞かなかった音だった。二回目で知る。足音を消し、木々が生い茂る森に入り、北へ北へ進む。

森の奥深く、少し開けた場所にて、物見ができるところがある。外からは見えないが、この高さからなら村の全景が見通せる。ちょうど後ろは石の岩盤でできた山があり、その向こうは分からない。さっきまでは朝だったのに、森の中では時間間隔が消える。気づけば太陽は落ち、夜が駆けてきていた。村の方を見る。火の明かりが行列を為している。その行列は、華やかに見えている。なにか、生き物のようの蠢いている。そして、村の一軒の家が燃え盛っているのがかすかに見えた。そこは、おそらく僕のあの納屋ではないけれど、心と肺に重く重力をかけるように、気分を落ち込ませるようだ。過ぎ去るのを待つ。パンを一つかじる。虫の音がしているはずだが、今の気分ではそれを聴き取ることができず、パンを噛み切る租借音だけが、頭の中に音を立ててる、そんな気がした。日記を開く。見えない。明かりをつけることはできないため、月がかすかに光を下ろしている場所でページを開き、真っ白な余白をじっと見つめる。悲壮。その二文字をどう表現したらいいのだろうか。もう一度、赤々とした光の方を見る。

びゅうっっと風が吹いて、前髪がふわっと上がった。まだ眠くはない。けれどそのまま、しばらく目を閉じることにした。

【5部 了】





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