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不妊治療のこと②

娘を授かるまでの①から続いて、これは第二子を授かれなかった②。
途中からただの愚痴と弱音になります。

2017年7月に無事に娘を出産し、家事育児に翻弄されながらも、段々第二子についての話を夫とするようになった。
私も夫も異性二人兄弟の下の子で、以前から自分たちも二人くらい子供が欲しいと共通認識を持っていた。家を買う時も車を買い替える話をしている時も、ベースは自分たちが四人家族になったらという意識だったと思う。それくらいに、当たり前のように娘の次の子供のことを考えていた。
とはいえ自然妊娠は望めないと自覚していたので、問題は『 いつ不妊治療を再開するか』ということ。私としては1度娘を2歳で保育園に預けて働きつつ、4歳で幼稚園に入園すると同時に第二子が出来たらいいなぁとぼんやり考えていたが、勿論そううまくはいかないことは百も承知だし、そうこうしているうちに高齢出産のゾーンに突入してしまうので早々に第二子の治療を始めることにした。2019年の冬頃のことだ。

娘の卒乳と生理の再開を待ち、再びクリニックに通い始めたのだが、ここで予想外の出来事が2つあった。
1つ目は不妊治療のクリニックがいつの間にか移転しており、これまではバス1本で行けていたのに今度は2回電車を乗り換えなければならなくなってしまったこと。1番負担にならないルートを考え乗り換えが1回で済むように最寄りから少し離れた駅まで車で行くことにしたのだが、この時点で駅前のコインパーキングが1日800円。電車代が往復で700円。交通費が既にヤバい。  
もう1つは、前回お世話になった鍼灸院が先生の入院のため開店休業状態になっていたこと。娘がいるので以前のようにおいそれとは通えなかったと思うが、それでも前回の相棒を失ってしまって若干不安の残るスタートとなった。

治療自体はすぐに始められた。
娘の時の受精卵が2つ凍結されていたので再び体外受精を試みることになったのだ。前担当してくれた先生が再び診てくれることになったのでその点に関しては安心だった。(ちなみにこの先生、前回陽性判定をくれた時も「はいよかったねおめでとう」くらいのテンションのサバサバした女性なのだが、娘連れで通っていた私が珍しかったのかいつも診察と関係の無い気楽なお喋りをしてくれた。気楽すぎて体外受精の措置の時に「息子の習い事辞めようと思ってるんだよねー」と話しかけられるほど気楽だった)

血液検査をし再び薬を処方され、こうして通院を始めた訳だが、大きな問題がひとつあった。前回と違い、娘を連れていかなければならないということだ。
不妊クリニックと子供、特に幼児は相性が悪い。そもそも基本は子供連れで来ないでくれと注意書きに記載されているのは、待合室は狭いし待ち時間もかかるし、あとは他の患者さんの心情に配慮してのことだ。私も第一子の時に幼児連れで来ている人を見て、正直「なんで子供連れてこんなとこに」とか「もう1人いるじゃん」という感情を抱いてしまったことがある。子供が欲しくても出来ないから通っているのに、そこで子供の声を聞くのは中々心に堪える経験だった。
しかし、今度はこちらの状況が変わってしまった。2歳にも満たない娘が待合室で大人しくしている訳がないので一応用意されているウェイティングルームに入るのだが、ここがまぁ狭い。3畳ほどしかない空間に多いと5組くらいの母子が押し込まれることになる。狭いし苦しいし娘を御さないといけないしで非常に大変だった。採血が終われば1時間ほど待機になるので、私は外に出るようにしていた。公園や本屋やゲームセンターなど、まるで馴染みのない駅だったが娘と散歩しまくったお陰で駅前だけなら人に案内できるほど詳しくなった。まぁ結局会計で30分以上待たされるのでウェイティングルームに待機して居なくてはならないのだが…。

色んな方向に気を遣いながら、残っていた受精卵2つを移植してみたがら特筆事項もないほどさらっと陰性だった。妊娠出産を経ると子宮環境が良くなって妊娠しやすくなるという説があって、実は早々に出来ちゃうんじゃないかしら、なんて淡い期待を抱いていたが、淡いまま打ち砕かれて掻き消えてしまった。考えてみれば当然だ。娘の時だってあれこれ試して3回目でようやく実を結んだのだから。
落ち込む私に先生から示されたのは「もう一度採卵からしてみない?」という提案。残っていた受精卵も妊娠の可能性は十分にあったグレードだったので、もう一度採卵すればきっと妊娠出来ると思うよ、というものだった。
私は悩んだ。採卵からまた始めるとなれば薬と注射を増やし、これまで以上に娘を連れて通院を増やさなければならない。そしてお金も飛んでいき、しかし飛んだ分に見合う結果が得られるとは限らない…。
でも、やはり子供が欲しかった。
もう一度赤ちゃんをこの手に抱きたかったし、なにより赤ちゃんが大好きな娘に弟か妹を作ってもあげたかった。夫は「1人居るしもう十分楽しいよ」というスタンスではあったが、「負担が掛かるのはあなただし、でもそのあなたがどうしてもやりたいなら応援する」と言ってくれた。
市の助成金がまだ残っていることも後押しになり、私はもう一度採卵することを決めた。体外受精の処置の時はさすがに娘を連れて行けず夫に仕事を休んで貰っていたが、もっと頻回になることから申し訳なさを感じつつも義母に協力を依頼した。義母は快く応じてくれ、1ヶ月に1回ほど我が家に来て娘の面倒を見てくれることになった。こうして2人の協力を得ながら、私のラストチャレンジが始まった。

2回目なので勝手は分かるが、それでもやはり薬で太るし注射は痛かった。そして、やはり前回より体力が衰えているのか治療自体が身体に堪える気がした。採卵直後、麻酔が切れたあとの下腹部の痛みは呻いてのたうち回るレベルで、最後だと思わなければ耐えきれなかったと思う。
前回同様受精卵は5個出来て、胚盤胞まで育った。私の場合問題はここからだ。育った卵がお腹に居着いてくれるかどうかが勝負の分かれ目だった。

しかし、もう結果は分かっている。勿体ぶらずに以下に結果を並べる。
1回目、かすりもしない陰性。
2回目、かすりもしない陰性。
3回目、一気に2つ戻してみるも陰性。
4回目、着床しかけたが、化学流産。
試合終了。

ちなみにこの全てで、「妊娠確率は70パーセント以上」と先生のお墨付きだった。全て30パーセントを通ってきた自分に、我ながら感動すら覚えてしまう。
ブログ検索魔になり、フライング検査も数え切れないくらいした。「双子ちゃんができたらどうしよ~」とか「また女の子だったら名前は〇〇かな~」なんて、夢のまた夢で、市の助成金も使い切ったところで夫に「もう十分にやったよ、おしまいにしよう」と説得されて私は不妊治療にピリオドを打つことになった。

およそ1年に及ぶ治療の途中、義姉や友人の妊娠が次々に発覚した。彼女たちは自然に妊娠して出産して、自然に二児の母になっていった。勿論彼女たちは何も悪くない。けど、笑顔でおめでとうを言うことがしんどかった。何もしなくてもするっと妊娠する人もいるのにどうして私はこんなにお金をかけて労力使っても妊娠しないんだろうと、最後の陰性判定を聞いた日、久しぶりに自分のために大泣きした。

妊娠は奇跡だ。沢山の奇跡の糸が合わさって紡ぐ壮大な物語だと思う。残念ながら私はその糸を2回手繰ることは出来なかった。
「1人いるんだからいいじゃない」と実母には言われた。正直一番言われたくない言葉だった。
児童センターやスイミングで第二子を連れてくるお母さんが増えて、娘はその度に「かわいいあかちゃん~♡」と言って近づいて、小さな保護者になっているお姉ちゃんやお兄ちゃんに威嚇される。何故怒られたか分からない悲しそうな背中を、私は見つめることしか出来ない。その1人のためにきょうだいを作ってあげたいと望むことは、贅沢なことなのだろうか。

人間は、状況も違えば感じていることもそれぞれ違う。一概に同じものさしで誰が一番不幸で可哀想かを論じたいのではないし、置かれた場所で頑張るしかないことも分かっている。
けれど、きっとこれからもずっと、朝起きてトイレに行ってああそうだ2人目が望めないんだっけということ認識して一日が始まるのだろう。直後に比べれば徐々に痛みは鈍くなって誤魔化し方も上手くなってきたが、きっとこの自己嫌悪や周りを羨む気持ちがキレイさっぱり無くなる日は多分来ないのだろう。

これを書いている今だって、私は物分りのいいフリをして、突然奇跡が起きてくれないか願っている。
通院はやめても多嚢胞性卵巣症候群に効くというサプリを飲んで、ダイエットをして、早寝早起きを心がけて、諦めていたけど自然妊娠できました、なんて広告みたいな謳い文句を言える日を、諦めの悪いことに私は未だに待っている。

これは夫にも義母にも実母にも言えない、私の意地だ。

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