エトランジェ_2

エトランジェ 喫茶店にまつわらない短編集

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その4「ベンティ」

フレックスタイムを採用した覚えはないのに、マイちゃんは自由に出勤する。彼女がルーズなわけではない。問題は雇用側にある。問題なのは雇用側が問題ないと判断していることだ。俺個人としては問題ないと思っている。結局よくわからない。

「はじめてスタバでベンティって言えたんですよ」
マイちゃんは顔と同じくらいのプラスティック容器を振って氷を鳴らした。仮にも喫茶店にスタバのコーヒーを持ち込むのはどうかと思う。
マイちゃんは客席を確認するとバックヤードに消えて、エプロンと三角巾を身につけてすぐに戻ってきた。珍しく今日は客の入りが良い。

 洗い物を片付けると、表はふたりで大丈夫だろう、とセルフジャッジを下し、気配を殺してバックヤードに逃げ込んだ。この辺のタイミングは一朝一夕で掴めるもんじゃない。もっとも俺には仕込みという大義名分があるので後ろ暗さはない。
 冷蔵庫からシュクレ生地を出して調理台の上で戻しておく。オーブンの電源をオン。いくつかタルト型を並べて、スプレーオイルを吹き付ける。仕事してる感、は出た。丸椅子に腰掛けひと息つく。引き戸の隙間からクラシックが聞こえる。ブルックナーではない。

 出し抜けに引き戸が開く。
「ヒロシくん、ワン・ホットケーキ・プリーズ」マイちゃんが鼻から上だけこちらに覗かせて、マクドナルド方式でオーダーを読み上げた。そこはスタバでいいじゃないか。
「あいよ」場末の遊園地のメリーゴーランド係のように立ち上がると、クレープパンを二つ並べて火にかける。3段のホットケーキを作るのに2つしか焼けないのはちょっと歯痒い。
けれど、一方で急ぎたくない気持ちもある。うちはファーストフードじゃない。なんでもかんでも早く出てくると思ったら大間違いだ。エトランジェに流れる時間は外界より1.5倍遅い。ちょっと横暴かもしれない。

「できた?」突然声をかけられてビクリと反応してしまう。いつの間に入ってきたのだろう。
「まっだ。そんなにすぐできないよ」
「いいよ、急いでないから」それはマイちゃんが、でしょ。
「お客さんは?」
「うん、林田さんだから」

 マイちゃんはそれで伝わった、と思ったらしくバックヤードの片隅に置いた自分のカバンをかき混ぜている。実際伝わったし、ちゃんとシロップと皿をトレイに用意してある。要領の良い子だな、と思う。最初の二枚を皿に載せ、もう一枚の生地をクレープパンに流す。

「タルトにしたんだ? 何タルト?」
「逆に訊くけど、何タルトだと嬉しいの」うーん。マイちゃんは脳内の選手名鑑で野球選手を探し当てる時のような顔をして考えている。答えを待つ間にホットケーキが焼けてしまいそうだ。
「木の実の、松の実? 松の実タルトってあるよね? それがいい」
「ずいぶん渋いの選んだね。女の子ならフルーツタルトかなと思ったのに」
「甘いの苦手なの」松の実タルトだって甘いけどね。「はいどうぞ」焼き上がったホットケーキを頂上に積み上げる。
「スタバは平気なのに?」なんで? マイちゃんは不思議そうな顔で振り返る。
「なんとかプラペチーノとか飲むんでしょ。甘いの。ベンティだっけ?」
「ヒロシくんもおじさんだねぇ」え、なんで? なんなの?
 
 お客さん待ってるから。マイちゃんは意地の悪い笑みをたたえてホールに戻っていった。引き戸の隙間からクラシックが聞こえる。今度はブルックナーだった。

 結局、閉店前にマイちゃんが早上がりしたので、俺は答えを知れずじまいだった。行きも自由なら帰りも自由だ。まぁ、今のところはそれで問題ない。じゅうぶん働いてくれてるし。なにせ時間が1.5倍で流れている。

 あれこれタルトを焼きながらiPadで調べてみる。ああ、あれベンティって読むんだ。サイズの英語。怖くてトールとグランデしか頼んだことないよ。そんなつまらないことでおじさん呼ばわりされたのかと思うと、ちょっと腹が立つ。
 俺は得意げに「ベンティ」の容器を振るマイちゃんを思い出しながら、松の実のタルトをオーブンに入れた。

表紙イラスト 凪沙さん #短編小説 #小説

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