エトランジェ 喫茶店にまつわらない短編集
その8「バレンタイン」
マンジャリ、アビナオ、アラグアニ。グアナラ、カライブ、タナリヴァ・ラクテ。
「早口言葉?」恋の呪文。洒落たジョークのつもり。
客がいないのをいいことに、ヴァローナ社のサイトを眺めていた。耳慣れないチョコレートの名前が画面いっぱいに並んでいる。カタログ好きのマイちゃんが喜びそうなので見せてあげると案の定、食いつきが良い。
「これ、美味しいから高いの?」よんせん、ななひゃく、ごじゅう、にえん、とマイちゃんが呟く。
「あー、高いかなあ」高いと言えば高いけれど、1キログラム入りだし。
「コンビニの板チョコなら100円くらいじゃん」なるほど。そういう考え方もあるな。
チョコレートに何の恩義もないけれど、一応品質がどうのこうのと説明を試みる。チョコレートは遠くの遠い国からやってくるんだ、とかなんとか。
「でも、コンビニのチョコだってガーナだよ」たしかに。きっと遠いだろうな、ガーナ。
「じゃあ、美味しいから高いんだよ」当たってたじゃん。一周回って着地する。間違っていなければ正解だ。
閉店間際、恵未叔母さんがやってきて心拍数が跳ね上がる。クリスマスの次はバレンタインか。チョコと較べたらケーキの方がよっぽど楽だ。けれども、心配は杞憂に終わった。
「今年はエヴァンにしようかしら」
チョコレートは宝石だから、ブティックで選びたいのよ、とまでは言わなかったが、喫茶店で買うものだとは思っていないようだ。珍しく意見が合う。
「旦那さん喜びますね」マイちゃんは大きな勘違いしている。
「私が食べるのよ。あの人チョコレート嫌いだもの。大丈夫。帰ってくる前に食べちゃうから」恵未叔母さんは高笑いで答えを締めた。
「私のことよりマイちゃんはどうするの?」
その瞬間、茂じいがピクリと体を震わせたのを俺は見逃さなかった。無関心を装っているが、マイちゃんを孫か娘のごとく気にかけているのだ。時々、俺に内偵を依頼してきたりもする。とぼけて躱す身にもなって欲しい。
「あー。まあ、てきとーにバラ撒きますよ」
「彼氏は? 作ってあげればいいじゃない」恵未叔母さんの軽率な発言。別に隠しているわけじゃないけれど。
「英二くんも甘いの苦手なんですよ」
とうとう彼氏持ちなのがバレてしまった。茂じいの口が音も無く開いて閉じる。餌を待つ鯉、あるいは乗車のないバスのドア。あの口は「なにぃ!?」の「な」だろうか、「認めん!」の「み」だろうか。どちらにせよ、よく踏みとどまったものだと思う。かしましく盛り上がる女性陣をよそに、ただでさえ少ない茂じいの口数がどんどん減っていく。こんなにショックを受けるとは思わなかった。
「戸締まり頼んだぞ」
肩を落とすまいと、いつもより背筋の伸びた後ろ姿がかえって哀愁を感じさせる。気落ちした老人ほど放っておけないものはない。
「ちょっと、2人にお願いがあるんだけど」
俺は溜息を吐きながら財布を開くと、控えめな枚数の札束を確認して、もう一度溜息を吐いた。
2月14日。世はバレンタインデー。
「お先にー」
マイちゃんは急ぎ足で店を後にした。茂じいと2人きり。本来なら重苦しい空気が満ちていたに違いない。いつもはクラシックの店内になぜかボサノヴァが流れている。
「おい、溥」
閉店時間きっかりに、入口のプレートを裏返すと、注意深く辺りを気にしながら話かけてきた。
「見てみろ」
突き出してきた手の内には正方形の箱。刻まれているのは三つ葉葵ではなく、JEAN-PAUL HEVINの文字。茂じい、読めるのだろうか。
「なにこれ、すごいじゃん。誰から貰ったの」ボンボンショコラ4個入。2,018円(税込)。
「マイちゃんだよ。フランスの高級品らしい。フランス、しかもパリだぞ」と、やけにフランスを強調して言う。舶来品に極めて弱いのは世代の問題だろうか。
「溥。お前は何も貰わなかったのか?」
もらったよ。俺はカバンの中から板状のそれを取り出してみせた。茂じいは鼻を鳴らして、勝者の笑みを漏らす。まったく、面倒臭いジイさんだよ。
「このチョコだって遠くの遠い国から来たんだよ。知らなかった?」と言って、精一杯カカオ分の高い笑いを返した。
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