エトランジェ_2

エトランジェ 喫茶店にまつわらない短編集

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その6「クリスマスケーキ」

 いつの間にやら「嫌です」が「無理です」になっていた。
感情の問題が可能性の問題にすり替わる。俺の都合など蚊帳の外ってことだ。
つまるところ、丸め込まれている。

「ケーキを作るのはいいですけれど、しまう場所がないんですよ」
「あら、じゃあ作るのはいいのね? なら冷蔵庫はなんとかするわよ」
 言葉尻を捉えられてしまった。
クリスマスケーキなんて大変だから作りたくない、喫茶店の仕事じゃない、と言い続けてきたのに。僅かばかりの譲歩が致命傷になることもあるのだ。
「いや、よくない……」と言いかけたところで止める。
 恵未叔母さんは、言質を取ればもう用はない、とばかりに姿を消していた。磨りガラスの向こうに悪魔の影像が蠢いている。追う気力はない。

 喫茶店のクリスマスケーキ。
 いったいどれくらいの需要があるのだろう。まったく数が読めない。
「クリスマスケーキ欲しい?」身近なところでリサーチしてみる。
「欲しいです!」即答。マイちゃんの表情から「いただきます」のニュアンスを感じる。
「タダじゃないよ? あと、うちのケーキね」
「じゃあ、要らない。もう、イナモリジュウゾウで予約してるんで」
 行列のできるケーキ屋さんと比較されてもなあ。
「作るんですか? ケーキ」
 そうらしいよ、と他人事のように答えた。

 仕方ないので暇を見てスポンジだけ焼いておく。
スライスして冷凍すればそれほど嵩張らない。余っても別の用途で使えるし、端切れはティラミスの底にでもすればいい。
 問題はミキサーだ。小さな卓上ミキサーでは生地を仕込んでもせいぜい1度にマンケ型2台が関の山。中型ミキサーをリースできないだろうか。いや、今度は型が足りなくなってしまう。買い足すか? いやいや、クリスマス以外に使い道がない。
結局、暇を見てちびちびと焼く。

 夕方、田中が来店した。
田中は客のいない時にしか入店しないので、来ない方が店にとっては良い状況ではある。例によって茂じいは逃げた。
「ケーキやるんだってな」田中は無表情で言った。
「ちょっと待て。なんで知っているんだ?」
「恵未さんから聞いた」まぁ、それしかないよな……。
「あんたケーキ買って祝う相手いるの?」
「24、25で半分ずつ食べるんだよ」田中は無表情のまま言った。

 閉店間際、恵未叔母さんが荷物を抱えてやって来た。
「これがトレイでこっちは箱ね。ローソクも必要よね」
 文句の1つも言おうとしたのだが、すでにペースを握られている。恵未叔母さんは、頼んでもいないのに包材のサンプルを見せに来たのだという。調理台がにわかにクリスマスに染まっていく。

「あの、田中さんからケーキの話をされたんですけど」
「そうなの。注文していただいたわよ。よろしくね」
「えーと、もう予約開始している感じですか?」何も聞いてないんですけれど、は飲み込んだ。
「もうクリスマスまで1週間切ってるのよ? 遅いくらいよ」
 現状把握と歯止めの必要を痛切に感じる。想像の2割増しくらい状況が悪い。
「田中以外にも注文していただいているんですかねえ……」
「今のところ8個かしら」
「あの、まだケーキの内容を決めていないですよねえ……」
「大丈夫よ、しっかり注文はメモしてあるから。ちょっと待ってね」
 恵未叔母さんはカバンから分厚い手帳取り出して開いた。この手帳には俺の人生に足りないものが全部詰まっている、そんな気がする。

「ええと、普通のケーキが5つ、チョコ味が1つ、ブッシュ・ド・ノエルが2つ、ね。よろしく」

 限定30個。種類は5号のショートケーキのみ。俺が勝ち取った妥協点。20個ラインは易々と突破されてしまった。受けてしまったチョコとノエルも作らねばならない。頭が痛い。
「飾り付けくらいなら手伝いますよ」ありがとう、マイちゃん。
「でも、パーティとかデートとかあるんじゃないの」夜からなんで。あ、そう。

 もはや躊躇している余裕はない。知り合いの業者に生クリームとチョコプレート、八百屋に苺とベリー類を発注。合羽橋でサンタやトナカイのデコ飾り、恵未叔母さん指定の包材を買い揃える。スポンジを焼いてスライス、その間にコーヒーを淹れたり、プリンを焼いたり。
 気が付けば一生懸命働いてしまっている。まるでケーキ屋さんみたいだ。1番避けたかった事態に陥っている。

「ちょっと待ってくださいよ。どうするつもりですか」
「困ったわねえ」恵未叔母さんは申し訳なさそうな顔をしているが、困っているのは圧倒的に俺である。
 クリスマスイヴまで、あと3日。そろそろ受け取りが始まろうかという段になって、未だ冷蔵庫の件が解決していないのだ。

「この状況じゃ、ケーキ作れませんって」
「でもね、冷蔵庫を買っても赤字になっちゃうわよね」恵未叔母さんは思案をめぐらしている様子。この段階で悩む事案ではないと思うのだけれど。こうなったら最悪、家庭用の冷蔵庫でもいい。
「あの……」
「じゃあ、お客さんが来てから作るのはどう?」閃いちゃった。恵未叔母さんは俺の提案を遮るように切り出した。見たことないくらいの笑顔だが、瞳の底にベクトルの違う感情が仄めいている、気がする。
「あの……」
「もう時間もないし、それしかないと思うの」

 俺は悟った。事は筋書き通りに進んでいるのだと。最初から冷蔵庫など用意するつもりはなかったのだ。俺にケーキ製造マシーンになれと言うのだ。
「分かりました。ただし条件があります。期間中、俺はバックヤードから一切出ませんからね」
「いいわよ。ちゃんとケーキ作ってくれるなら。お得意様がいらっしゃるから、私もずっといるし」いなくていいです。
「飾り付けの手伝いが必要なら私やるわよ」
「マイちゃんがいいです」

 斯くして俺のバックヤード立てこもりクリスマスは幕を開けた。実は始まってしまえばたいしたことはない。準備の方がずっと大変だ。
無理矢理冷蔵庫にスペースを作り、なんとか3台はストックを置けるようにした。これでだいぶ余裕が生まれた。マイちゃんに飾り付けを覚えてもらったら、あとは暇なくらいだ。
鶴の恩返しよろしく、ピシャリと引き戸は閉じてある。俺はマイちゃんとゲームで狩りを楽しんだ。

 こうしてエトランジェのクリスマスは終わった。
「お疲れさま。大変だったわね」恵未叔母さんからコーヒーを受け取る。
「大変でしたよ」ギリギリ伝わらない程度の嫌みを込めてみた。
「あら、ケーキ余ってるじゃない」
「予備ですよ。何が起きるか分からないですし。叔母さん持ってってください」
「いいわよ、溥くん持って帰って」
 意外な答えが返ってきた。下手したら1台余計に作らされると思っていたのに。
「いや、俺は持て余しちゃうので。お孫さんにどうです?」
 恵未叔母さんは微笑んで言った。
「大丈夫よ、家にはイナモリジュウゾウのケーキがあるから」

表紙イラスト 凪沙さん #短編小説 #小説

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