エトランジェ_1

エトランジェ 喫茶店にまつわらない短編集

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その7「トースト」

 ステンレス製のポップアップ式トースター。並行輸入の高級品だというそれは、滑らかな曲線とすっきりとした直線で形作られている。確かにセレブのキッチンに似合いそうだ。機能美が強調されたデザインは、パンしか焼けないくせに単なるパン焼き機ではないのだ、と自己主張している。

「同時に4枚焼けるのはなかなかなくてね」茂じいは誇らしげだ。だが、こんなの方便に決まっている。大金を出さずとも2枚焼きを2台買えばいいじゃないか。趣味の置物なのだ、これは。そもそも4枚同時に焼くほど客がいたためしがない。

「ちわっす、カナリヤパンです」
 午前10時を過ぎると、パンの配達が来る。毎日2斤。正四面体が4つ繋がった様はテトリスの棒みたいだ。
「毎度ありがとうございます」カナリヤパンの若い衆が深々と頭を下げる。
「いや、助かるよ」偽らざる本音。青年の背中を見送りながら、パンに鼻を近づけるとほのかに小麦が香る。プロの仕事だ。
 
 厨房にオーブンが納入されて以来、いつかパンを焼けと言われるのではとビクビクしていた。お菓子は作れるがパンは無理だ。使う技術が全然違う。茂じいや恵未叔母さんはそんなことお構いなしだろうと予見していたが、声はかからなかった。

「パンはカナリヤパンが一番よ」恵未叔母さんはキッパリと言い放つ。ブランド志向の強い惠美叔母さんなら、ヴィロンだのルヴァンだのカイザーだのポールだのといった名前を挙げそうなものだから意外だった。近所の、徒歩5分くらいのパン屋が一番らしい。

「ソウルフードってやつ?」マイちゃんが恵未叔母さんと入れ違うように首をつっこんできた。言わんとしていることは分かるけれど、違うと思う。
「私は超熟かな」
「パン屋行かないの?」
「食パンは買わない。だいたいあんパンかクリームパンかなあ」ずいぶんと保守的だ。

 カナリヤパンを厚めにスライスしてトースターにかける。3枚分の空白に寂しさを覚えて1枚足す。
「マイちゃん食べたことないでしょ?」
「カナリヤパン? ないよ。いつも残らないじゃん」マイちゃんには申し訳ないが、残りは恵未叔母さんが持ち帰ってしまうのだ。
「バター出してよ、あと岩塩」
「いいの? 開店準備もまだなのに」
「いいの。賄いだよ」
「食べちゃったら、足りなくならない?」
「足りなくなったら売り切れです」

 トースターがチンと鳴ってパンが跳ねた。ステンレスのボディに焼けたパンの色が歪んで映る。取り出して、さっとバターを塗れば音もなく染みこんでいく。塩を振る。モンゴルの岩塩、だそうだ。うっすらとピンクがかっている。
 マイちゃんは「美味しそう」と呟くとパンに齧りついた。2、3度咀嚼すると「美味しい」に、間もなく「美味しかった」へ感想は変遷をたどる。
 表面のカリッとした歯触り。一転して中はもっちり。生地の持つほのかな甘み。プロの仕事だ。

「こんなの毎日食べていたらソウルフードになるね」相変わらずちょっと意味が違うけれど、気にしないでおく。
「毎日は食べないだろうけれどね」
「パン党かもしれないじゃん」マイちゃんは食器を回収すると、開店前に洗い物を溜めておけないよ、とぼやきながら洗浄する。
「ヒロシ君はさ、美味しいパン屋さんと、ケーキ屋さん、どっちか一軒だけ近所にあるならどっちがいい?」
「なにそれ」うーん、なんとなく。マイちゃんは時々本当になんとなく質問してくる。
「うーん、俺はパン屋さんだな。マイちゃんは?」
「え、どっちだろ。考えてなかった」そしていつも自分の答えを用意していない。
「なんでパン屋さんなの?」
「ケーキは時々しか買わないけれど、パンは日常的に食べるじゃない」
 そんなもんかな。マイちゃんはたちまち思案顔になる。
「パンの方が日常に根差してるってこと?」
「そう。パンは日常を、ケーキはひとときを彩るって感じかな?」
 なるほどねえ。マイちゃんは納得したように見えたけれど、そうではなかった。
「じゃあ、なんでパティシェになったの?」
「さあ、なんでだろうね?」
 俺は分かりやすく遠い目をして答えた。

表紙イラスト 凪沙さん #短編小説  #小説

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