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第20回② 中西 智之先生 うつ病を機にキャリア転向。遠隔診療で起業した集中治療医 

「医師100人カイギ」について

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本連載では登壇者の「想い」「活動」を、医学生などがインタビューし、伝えていきます。是非イベントの参加もお待ちしております!
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発起人:やまと診療所武蔵小杉 木村一貴
記事編集責任者:産業医/産婦人科医/医療ライター 平野翔大

 心臓血管外科医、麻酔科医、救急医として臨床現場でキャリアを積んだ後、「遠隔ICU」を普及するため40歳で起業した医師がいる。質の良い医療を、日本中の力を結集して支えたい――そのために奔走する中西智之先生にお話を伺った。

中西 智之 先生
京都府立医科大学医学部卒業。心臓血管外科医として6年、麻酔科医として2年の現場経験後、都内救命救急センターに勤務。その後、集中治療専門医の存在の有無による病院間の診療格差に課題を感じ、2016年に遠隔集中治療の普及に取り組む株式会社Vitaars(旧社名:T-ICU) を設立。Doctor to Doctor/Nurse to Doctorの遠隔医療の確立と普及に努め、遠隔医療を広めるシステム開発にも注力している。

「中西さんは起業しそうな気がしていた」

 「僕が伝えられることって、何があるでしょうね?」

 インタビューは中西先生のそんな一言で始まった。中西先生は日本で「遠隔ICU」の普及を目指す第一人者だ。手術後や重病で状態が不安定な患者を治療する「集中治療室(ICU:Intensive Care Unit)」。そんなICUの現場を、24時間365日遠隔モニタリングすることで、質の高い集中治療が受けられる環境を整備するのが、中西先生が立ち上げた株式会社Vitaarsの事業だ。

 「現場の力を支えることが患者を救うことにつながると考え、仲間とともに2016年に遠隔集中治療の事業をスタートさせました。ICUにいる患者さんの治療方針を早期に提案し、診療をサポートすることはもちろん、中長期的な観点からICU現場スタッフの教育にも力を入れています。近年では、日本だけでなく発展途上国の医療従事者を遠隔で支援する事業としても展開しています。」

 革新的な事業を推し進める中西先生だが、和やかな印象を受けた。率直にお伝えすると、「ああ、でしょうね」と吹き出されてしまった。

 「起業して社長になるなんて僕自身、今も不思議な気持ちになることがあります。この前、大学時代の野球部の後輩に『中西さんは起業しそうな気がしていました』と言われましたが、僕は思いもしませんでした。」

 なにせ、医師になった理由もやや後ろ向きであったという。

 「深く考えるのはあまり得意じゃなかったですから。いい大学に入っていい会社に入れば、人生なんとかなるだろうと思っていました。」

 家族に医療職は一人もいない。どこまで遡っても医師のいない家系で生まれ育った中西先生は、予備校の講師に医学部を勧められたことをきっかけに、医の道へ進んだ。

 「医学部に入って医師になって、その後は心臓血管外科へまっしぐらです。これは同級生の影響ですね。出席番号が前後だった女の子が心臓血管外科志望だったんです。」

 「別にその女の子のことが好きだったとかそんな話ではなくて」と先手を打っては、くすりと笑う。

 「もともと体育が好きで、内科か外科の2択なら体を動かす外科かなと思っていました。心臓血管外科の手術は複雑なものが多く、技術が問われますが、その分本当にかっこいいんです。」

 そうして中西先生は、心臓血管外科医としてキャリアをスタートさせた。

「まさか自分が」医師5年目でうつ病に

  医師5年目、医局人事で赴任した東北の病院は教育熱心な病院だった。実力次第で若手医師にもチャンスがどんどん巡ってくる。みんなが前のめりになる中、中西先生は自分の体が日に日に重くなっていくのを感じたという。

 「うつ病でした。まさか自分がなるとは驚きました。そんなキャラでもないだろうって家族も友だちもびっくりしていました。でも本当は誰だってなる可能性のある病気なんですよね。」

 療養のため仕事を中断し、今後の人生や働き方について本気で考えたという。若気の至りと言えばそうですが、という語り口で当時の想いを振り返ってくださった。

 「それまでは、一度やると決めたことはやりきったほうがいいと思っていました。というか、うつ病になるまではやりきれなかったときのことを想定していなかったように思います。キャリアの定説で、“迷ったときは険しいほうを選ぶといい”というものがありますが、いわば当時の僕は『険しいほうを選んでも自分はやりきれる人間だ』と信じて疑っていませんでした。」

 そして、中西先生は心臓血管外科を離れる決意をする。

 「一旦離れてみようと。戻りたくなったらまた帰らせてもらおう、一度違う道へ進んでみようと思いました。」

病院を渡り歩く中から得た気づき

  心臓血管外科医として6年、麻酔科医として2年、その後都内の救命救急センターへ。フリーランスの医師としてさまざまな病院を渡り歩いた。250床前後で救急医は数名、ICUはあるが管理までは手が回らない。よくある日本の中規模病院の現状だ。

 「ICUはあるけれど常勤の集中治療専門医はおらず、他の診療科の医師が当番制でICUを担当している病院がいくつもありました。僕は集中治療専門医も持っていたのでよく相談に乗っていたのですが、専門医の必要性を切実に感じました。」

 集中治療専門医はそもそも絶対数が少ない。この状況下で医療の質を担保するには、抜本的な改革が必要だった。

 「心臓血管外科医だった頃から付き合いのあった先輩と、どうにかならないかと語り合いました。僕たちは現場の努力より、持続可能なシステムで解決したかった。そんな中これだ!と思えたのが遠隔ICUでした。」

 アメリカでは、日本より15年以上先んじて遠隔ICUが広まりつつあった。地域偏在に起因する医療格差も解決できるかもしれない――。当時は臨床医として働いていた中西先生。一企業としてやってみようと覚悟を決め、約1年かけて情報収集を行ったり仲間を集めたりしながら起業に踏み出した。

 「こんなサービスがあったら便利なのに、まだ誰もやっていない。そんな想いを形にしたのが株式会社T-ICU(2023年3月社名変更、現在は株式会社Vitaars)です。自分が起業するなんて考えたこともなかったので、ここまで大変だとは思いませんでした。」

 給料は減り、休みと仕事の境目は曖昧になり、ネットの検索では自分の名前がヒットするようになる――。勤務医の時にはなかった苦労が降りかかったが、何物にも代えがたいやりがいにも出会えたという。

 「ICUは難しくて面白いんです。遠隔ICUはうまくやっても、普及までに10年ほどかかると考えています。 でも絶対にできる。そして僕らがやらないと進まない。僕らだからこそできることがあると信じています。」

もし「やり直し」できるなら?

 「僕は『自分のやりたいことをしましょう』という言葉はあまり親切ではないと思います。自分が本当にやりたいことは何か、誰も教えてくれないからです。」

 自分はいったい、何がしたいのだろうか――この問いにぶつかるのは、未熟だからではない。弱いからではない。そして、なにもあなただけではないと中西先生は続ける。

 「僕もずっと迷いながらやっています。会社は7年間なんとかやってこられたけど、この先うまくいかなかったらどうしようか、いつまで続けていけるか、なんて考える日もあります。プライベートのことも悩みますよ。僕の今やっていることは本当に僕がやりたいことか、とか毎日いろいろです。」

 うつになったことは辛かったけれど、あんなに悩めることは人生でもそう多くはないかもしれないと朗らかにおっしゃる中西先生。では迷ったときにはどう対処しているのか、こぼれた疑問にも寄り添ってくださった。

 「僕はそのときにやりたいと思えたことをやります。まず、やってみます。」

 「今の世の中は特に、何が正解か誰にもわかりません。Aの技術を極めた人が素晴らしいかもしれないし、AからBに挑戦するときにAの経験が成功につながるかもしれないし、AとBの経験をバランスよく積んでいる人が両方に良い影響を与えられるかもしれない。そもそも正解を求めることが野暮なのかもしれません。それでも僕に言えることがあるとしたら『だめでもいいよ、やめてもいいよ。別にやり直しはきくよ』ということですかね。」

 時間は巻き戻せなくとも、やり直しはできると背中を押してくださる中西先生。
 最後にもし「やり直し」をするなら何がしたいか尋ねてみた。

 「どこからやり直すんだろう? いやでも、やっぱり心臓血管外科医に憧れてしまう気がします。かっこいいですから。そうして、またいろいろあって、起業しているかもしれませんよね。」

取材・文:筧みなみ(総合病院南生協病院 臨床研修医)

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