物語の中に未来を見つけられる日は来るのか

「Aセクシュアルが主人公で出てくる」と知り、李琴峰さんの『ポラリスが降り注ぐ夜』を買った。家に帰り、早速緊張と高揚との混じった思いでページをめくっていった。Aセクシュアルの主人公が出てくるのは『蝶々や鳥になれるわけでも』という話だ。(なんとこの小説、『蝶々や鳥になれるわけでも』以外の章にもいくつかの箇所でAセクが出てくる)


この話を読み終え、全章を読み終え、もう一度『蝶々や鳥になれるわけでも』を読んだ。それらを踏まえての感想、そして色々と考えたことを書いていく。

*これから書くことは、全て私の感想です。Aロマ代表でもAセク(寄り)代表でもAce全体の代表でもなく、羽田個人の感想です。また、内容にも触れますので、これから読む予定がありネタばれが嫌だ、という方は自己判断で読み進めてください。


・新宿二丁目という街

物理的距離という点でも、精神的な距離という点でも、私にとって新宿二丁目は近いものではない。私は自分がAceだと知る前は「私はセクマイ当事者ではないのだから」、そして知った後は「私は『LGBT』ではないのだから」という感じで、自分の居場所だと思ったことはない。でも捨てられない、大切にしたい思い出や経験がある場所だ。私にとって新宿二丁目は誰かを探しに行く場所だった。でもいわゆる「出会い」を求めているかというと、そうではない。必ずしも自分と重なる属性ではなくとも、感覚がわかるだろう、わかり合う部分があるだろうという、期待というには随分必死な願いが込められた、恐る恐るの仲間探しができる場所、というのが私にとっての二丁目だ。二丁目は不思議な場所で、LGBT以外の人、というとあまりにも乱暴すぎるけど、何かしらの曖昧さを抱えている人もいることを知っているから、孤独ではなくいられるのだと思う。私は個人的な感情として、レインボーフラッグを見るとイラッとするのだが、それでもイベントでもなんでもない日の店内、日常の中にレインボーフラッグが掲げられていた光景には感動させられるものがあった。同様に、自分の住んでいるところでは月1ペースの活動でしか会う機会のないセクマイの仲間たちとの集まりが、バーが立ち並ぶ二丁目では毎日どこかに誰かがいるのか、と思うと、バーの規模が大きかろうと小さかろうと、居場所として心強いのだろうな、と思った。

私は若干拗らせの入った、捻くれた伴侶規範を憎む思いが強く、時折恋愛だろうと友愛だろうと親愛だろうとあらゆるパートナーシップを育もうとすることを善とする規範を猛烈に払い除けたくなる。それでも利穂と蘇雪の友情、仲間意識はとても自然に受け入れられた。それは私が実際に新宿二丁目で仲間を探した経験があるからなのかもしれない。楽しめるものの幅が広がった、マイナスの感情を向けるものが減ったのは楽になった。


・Aceとしての経験

(また後で詳しく後述するがとりあえず)Aセクの蘇雪の人生も、ノンセクシュアルの利穂の人生も、そのままと言えるほどAceの人生に起こりうる衝突の歴史を見ているようだった。何ならリアルすぎてしんどくなるような、これまで巻き込まれてきた、そしてこれから巻き込まれていくであろう出来事を、二人もまた歩んでいた。


利穂の、恋人にキスされたことが性的行動へのどうしようもない嫌悪感があることを知ったきっかけになったこと、行為が自分のセクシュアリティを確固たるものとして気づくきっかけになる経験も、ラベルを自分のものにするのにとても時間が必要だったという言葉も、蘇雪の抱き締めてキスしてみた結果、というかキスしてみても結局恋愛がわからないという経験も、恋愛関係が色々な関係を奪い最高の幸せの顔をしていると感じているのも、「言ったって分からないだろうから、結局説明しないといけない」そして説明した結果、最後までAceというセクシュアリティへの理解が得られないまま、という経験も、とてもよくわかるものだった。特に蘇雪の経験は私にとってとても深い共感のあるものだった。行為ではなく感情を恋愛に持っていく方法は誰も教えてくれないし(そして別に私は知りたいとも思わないから押し付けられるのは迷惑でしかないし)、でも知らなければならない、知らないと困るかもしれない、知っておかないとうまくいかないのだ、というところに思い至ってしまう。私自身、証明するために突拍子もない、振り返った時に滑稽にすら映るようなことを経験してきた。(ここで重要なのは、滑稽=マイナスと結ぶのは安易すぎるということだ。)例え人に言いづらい経験でも、それを経ないとわからない、それがなければ今このように居れない、ということはある。だって、性愛も恋愛も普通にするものとしか聞いてこないから。それに当てはまらないなら答えを探すためにサバイブするしかないよね、と蘇雪と利穂を労いたくなった。これらが物語の中に、Aceの経験として描かれているのは、存在を掬い上げられたような、生きていることを見つけられて嬉しいものだった。


・Aロマンティックの不可視化

たとえニュートラルに「セクシュアリティは何ですか」と訊かれても、多くの場合、それは相手が自分にとって性の対象になり得るかどうか確認するための質問であり、同じセクシュアリティの回答を暗に期待されていることが多い。そこで「恋愛感情を持たない」ということを意味する「Aセクシュアル」を答えると、話題をぶった切ったような気まずさが残ってしまう。(『蝶々や鳥になれるわけでも』P85)



この一文を見たとき、「蘇雪はAロマンティックじゃないの??」と困惑した。まさにAロマンティックの説明文で見るような文の後に「Aセクシュアル」と続いていて、どういうことなのかわからなくなってしまった。読み進めても一向に「Aロマンティック」という単語は出てこず、そのままこの章が終わってしまった。動揺を引きずったままこの本を読み終え、ページを閉じたとき、怒る間もなく悲しくなってしまった。この本の評価が高いことはツイッターで見ていたし、紹介文に「Aセクシュアル」と書いてあったのも見かけていた。それらを見て、期待してこの本を買った。小説にAセクが登場するなんて!小説に出てくるほどAセクシュアルは認知度が上がっているのか!どんな描かれ方をしているんだろう!と、かなり期待していた。だからこそ、ああ、またAロマンティックはないことにされたのか、とダメージを受けた。不可視化に幾度となくぶちあたって来てるんだから期待を持つのは控えれば、という思いと、作品に期待するななんていうのは失礼だし、期待したっていいじゃないか、そもそも期待は止められるものではない、という複雑な思いだ。

「Aロマンティック」というワードが出てこない理由は何なのだろう。書き手側にとって知名度が低いからなのか、書き手が知っていたとしても読者側の社会の認知度が低いからなのか。どれにしろ、私はそんなことは理由にならないと思う。私にはAロマンティックという名前があるのに、なぜそれが使われず、違う説明文と名前が結び付けられているのだろうか。

物語の中で、蘇雪は自らのセクシュアリティをカテゴライズし、Aセクシュアルと名乗ることに、積極的ではない姿勢をとっている。私は積極的にAロマでAセク寄りと名乗りたい人間だが、だからこそラベルを決めたくない人のことを踏みたくない、踏まないようにと意識しているつもりだ。ラベルを持つことを選ばない人も自分と同じようにその選択を尊重されなければならないと、恥ずかしながらAceであることに気づいてしばらくしてから思えるようになった。というのは、以前はラベルを持たないことを選ぶ、セクシュアリティを名乗らない人の気持ちが理解できなかったからだ。どうして自分は自分というだけで十分と思うのかがわからなかった。それは自分の中にある曖昧さ、割り切れなさを、そのまま表明するのだ、というのを他人事ではなく理解してから、ラベルに拘らない、ある種の決めつけに抗うという選択をすることの意味を知った。
だからこそ私はセクシュアリティというラベルを選び、名乗る行為を大切にしている。当てはまらないラベルをあてがわれるくらいなら名乗らないで個でいることは、強くなければできない。それくらい名乗るという行為には引き受けの覚悟が伴うと思っている。だから誤ったラベリングにはそれは違うと言う。

私は自分のことを「AロマンティックかつAセクシュアル寄りの、Aというセクシュアリティの一員である」という意味を込めて自分のことを「Ace」と呼ぶことが多くある。Aセク「寄り」であることはどうしても動かせないこと、そして私のいるツイッター上では、感覚ではあるがAroよりもAceの規模の方がずっと大きく仲間が見つけやすいことなどを考えた結果、私のアイデンティティの最も大きな核になっているのはAロマンティックだが、「Ace」という名前を借りることがある。し、Aceという言葉の持つものに対し、借りるという言葉では表せられないほどの帰属意識を感じている。Aセクシュアリティの総称としての「Ace」は、私のラベルだと思っている。

また、Aセクシュアリティの総称に「Aセクシュアル」が使われることが多いのも事実であるし、そのような意味でこの「Aセク」の使い方は「間違いではない」と言えるかもしれない。

Aロマンティックの不可視化は、誤ったラベリング付けとは微妙に違うものだと思っている。Aロマは確かにAセクシュアリティの一ジャンルではあるけれど、軸はそれぞれ性的指向と恋愛的指向と別物で、それぞれ別の経験を経るものだ。その別物を一つにまとめられるという点で、AロマンティックとAセクシュアルを分けないのは乱暴だ。「あなたはAセクだ」と差し出されたら私は「それは違う、私はAセクではない」と言うと思う。「Aセクではない」の前には「厳密には」という言葉がつく。AロマンティックAセクシュアルをAセクと呼ばれる時、私もその中に含まれてはいるが、素直には頷けないのだ。それこそさえが「曉虹」を選び取ったように、私は私の名前を呼ばれたいし、私の呼ばれるべき名前はいつだって「Aロマンティック」なのに、と不満に、そして腹立たしく思ってしまう。


・物語にどこまでを求めていいのか

この本が、例えばAセクシュアリティ、ひいてはセクシュアリティの専門書と呼ばれるものだったら、もっと怒っていた。しかし、この本はフィクション、物語である。

フィクションの中にどれだけの事実を求めていいのか?というのは、アセクシャル漫画の時からずっと考えている。セクシュアリティに関する記事であっても、「Aセクシュアル=AロマンティックAセクシュアル現象」はしょっちゅう目にする、よくあることだからだ。Aセクという言葉は、Aセクシュアリティ当事者の中でも人によって使い方、Aセクシュアル(ロマンティック)、もしくはノンセクシュアルという言葉の中に幅がある界隈でもある。実際に、Aセクシュアル=AロマンティックAセクシュアルという意味で使う当事者も存在する。おそらくこの微妙で繊細で、曖昧ともいえる文化は(私が見ているのは日本語圏のツイッターコミュニティのみだが)、スペクトラムで表現されるAセクシュアリティ特有のものなのだと思う。

また、Aセクシュアルのことが書かれた記事や例のアセクシャル漫画からは、筆者のAセク啓発(とまではいかなくともAセクというものがあるんだよ、と言っているような)意識を感じた(もちろん真意はわかりません。ただAセクシュアルを全体のテーマとして扱っておいて「広く知られることは意識/想定していません」と言われたら、それはふざけるなと言いたい)。しかしこの本は、舞台がレズビアンバーで、その中のワンシーンとしてAセクの主人公が登場している。この本において、Aセクシュアルを扱うことは、全体の目的であるとは言えないだろう。また、蘇雪は物語の中で恋愛と性愛の両方をわからない、つまりAロマかつAセクであるような描写がある。この「嘘は言っていないが事実だと言われると頷きかねる」状態を、どのように言えばいいのだろう。蘇雪の「二丁目が自分の居場所だとは別に思ってはいない」という言葉は、少なくとも私にとっての事実であり、だからこそこう書いた作者はリアリティを理解しており、丁寧だと思う。それに傷ついたのはあくまで私だし、物語の本筋に傷ついたわけではない。悲しいかな、世の中の一般常識的な部分の話だ。
でも、私の感覚を私が無視する必要はないし、それをしてはいけない。だから私はAセクシュアルとAロマンティック、性愛と恋愛は別だと言い続けるし、ロマンティックはロマンティックとして存在し、描き、表明していくべきだと言う。それが私がAロマでAセク寄りだと名乗る理由だからだ。


・人生と物語

これは、本の内容とは距離を置いても、常々考えていることだ。
人を恋愛的に愛せないことが原因で、自分は欠落した人間だと思っている、もしくは思ったことがある人って、Aロマンティックの中では多数派なのだろうか。私はそんなこと一度も思ったことがない。Aロマンティックであると気付くずっと前から、ただ恋愛をしない人間なんだな、と思っていたときでさえも、私はAロマである自分に対して劣等感も不安も悔しさも抱いたことは、全くない。(これは私の強さの誇示とか優劣とかではなく、私を守るための私なりのプライドだ。それにそのことで苦しむ人をツイッターで何人も知っているし、どう考えても苦しめてくる社会規範の方が悪い。)自分の好きという感覚をどうしたらこのまま受け取ってもらえるのか、もしかしたらそんな相手はいないのではないか、と絶望したことはあったけれど、その絶望は自分の欠落のせいだとは思ったことは一度もない。結局物語に恋愛は必要なのか。Aロマは恋愛できない自分に苦しむ経験をするものなのか。現実だけでなく物語であっても、結局恋愛からは逃れられないのか。どうして?


しかしこう書いているものの、恋愛感情を持たないことを言うには、恋愛の中で測らなければ分からない、というシステムは仕方のないことだとも思う。それはわかっている。「ない」ことを証明するには「ある」の尺度に身を置いて、その中でない(状態に近いことも含めて)ことを証明しなければ、少なくとも自分以外には分かりにくいものなのだ。恋愛の文脈では自らを語れない、語られたくない、そこに存在していないことを証明するのに、恋愛を通らないとできないというのは、どうしようもないことなのかもしれないが、私にとってかなりストレスを感じるものだ。異性愛規範よりももっと大きい性愛規範、恋愛伴侶規範の弊害がこれだ。Aロマは物語の中でどう生きていけばいいのだろう。恋愛の文脈に巻き込まれることなく、苦しめられることなく、Aロマの主人公は物語の中に存在できるのだろうか。生活の中では、私は恋愛自体にはほぼ関わらずに生きている(恋愛、そして性愛規範に対しては呪うという形で大いに関与しているが)。そして、人生においては、別に私のセクシュアリティを表明する必要はないのだ。キャラクターづけが求められる場は限られているし、そもそも私はAロマだと表明(=カミングアウト)しなくても生きていけるのだ。
でも物語においては、読者に伝えるために、特に主要な登場人物ほど説明が必要で、そしてそのためには証明をしなければならない。そうすると、物語の中では悪魔の証明をせざる得なくなり、恋愛の文脈の中からでないと存在できなくなってしまう。でも恋愛の中に身を置く(置かざるを得ない)Aロマを見て、自分もそうするしかないのかと思わされるのは、辛い。このジレンマはいつか解消できるのだろうか。


・私は物語に何を望むのか

では私は、AロマンティックやAセクシュアルが登場する物語に何を望んでいるのか。

物語は主に蘇雪の人生がメインで進むが、蘇雪はかつて一人で困惑し、苦しみ、焦っていた。そして今現在はレズビアンバー『ポラリス』で利穂という仲間と共に過去を思い返し、今も葛藤を抱え、そしてかつて自分に(物理的ではないにせよ)暴力的な言葉をぶつけて来た士豪という男を(現時点だけなのか、これきっかけに今後も向き合うのかは描かれていないが)受け入れようと、同性愛者が集まるという二丁目に行き、そこで迷子になった士豪を迎えに行く、という場面で終わる。

私は、士豪(蘇雪に告白を断られ恋愛に興味がないんだ、と至極真っ当に事実を伝えた蘇雪に対し「ふざけんなよ」と怒鳴り、そうではないと伝えたことに対し蘇雪はレズビアンなのだ、と解釈した男)を現時点では受け入れることはできない。蘇雪にもそうして欲しくなかった。蘇雪がこれまで、もっと小さい子どもの頃から経験してきたことを見せられて、それでも尚受けとめるなんて、相手が士豪でなくても私にはできない。

もしかしたら、蘇雪は士豪を迎えに行った後に、改めてAセク(そしてAロマの)説明をするのかもしれない。和解し、よき仲間になるのかもしれない。かつて言えなかった怒りをぶつけて、もう金輪際会わない、と別れるのかもしれない。士豪は、もしかしたらAセクシュアリティのことを調べていて、かつてしたことを謝るのかもしれない。蘇雪のことをもっと知りたいから、Aセクシュアルのことを教えてくれと言うのかもしれない。どれだけ考えても、やっぱりあんな嘘は信じられないと言うのかもしれない。どんな未来が待っているにせよ、私は蘇雪の未来を知りたかった。これからどうやってこの世界を生きていく方法があるのか、専門書ではなく物語の中にある道の一つを見てみたかった。

蘇雪や利穂が経験してきたこと、そしてそれらへの感じ方は、私という一当事者にとってものすごくリアルなものだ。嫌悪の感覚、わからないという感覚、わからないものを受け入れるのが苦痛で反発したくなる、そして反発する感覚、跳ね除けて相手から返ってくる感覚、その時の自分の感情、どれも肌感覚レベルで馴染みのあるものだった。描写がリアルである故にしんどくなり、だからこそこの後どう生きているのかが提示されていないことに、私もこう生きるしかないのかと思ってしまった。私はそのリアルから解放されたかった。蘇雪にお伽話のような明るい未来が待っていようと、また傷つけられる未来が待っていようと、この先の人生でどんな選択をして、どのような思いで生きていくのかを見てみたかった。

また、私は「恋愛感情を持たないことは、人生に何の負の出来事や感情をもたらさない」と表明する主人公に会ってみたかった。恋愛や性愛がある世界であっても、それらに当事者として巻き込まれることなく、意識すらしない、自然に存在しない人生を生きる主人公のこれからが見てみたい。今の世界で恋愛や性愛に巻き込まれないで生きていくのはとても困難だ。だからこそ、それらを跳ね除けて生きている主人公に憧れ、自分を重ね合わせてみたかった。そんな理想というにはかなり遠いであろう夢物語を、せめて物語の中に追いかけたかった。





『蝶々や鳥になれるわけでも』は、私のこれまでの経験を肯定する、なかったことにはさせない、そして多分私と同じように生きてきた人はいる、まだ会ったことはなくても蘇雪はどこかにいる、仲間はどこかにいると思わせてくれた話だった。仲間の存在とその人生を見ることができる経験は、強い安心感を与えてくれるものだ。また、恋愛と性愛が分けられて書かれているというのは、それだけで私にとってエンパワメントになる。
でも同時に、AロマンティックがAセクシュアルという大きな括りに覆われ、私の存在が消されかけた経験にもなった。


ここまで色々と書いてきたが、これはあくまでも私の感想だ。全ての人がこのような感想を抱くわけではないのだから、もしこのnoteを読んで何か思うのならこの本を読んで欲しい。正直この記事を書きながら、こんなただのわがままのような批評をどうするのだ、と思っている。

ただ、間違いないのは、私が悲しみたくなかったということだ。Aロマンティックかもしれない存在にAロマンティックという言葉がつかなかった、名乗らなかったこと、「Aセクシュアル=AロマンティックAセクシュアル」による不可視化で、またいないことにされてしまったと感じたことは誰にも否定できない。蘇雪や利穂のこれからの人生に幸あれと願うように、私もこれからの人生の支えになるものを、物語の中に見つけたかった。まだ私は物語の中では生きていけないのかもしれない。私のための物語が見つからないうちは、まだまだ闘う必要があるのだな、と再確認した。