『Aセク(シュアリティ)の当事者』より

このツリーに対するAロマンティック、Aセクシュアル寄りの『Aセク』当事者の反論です。


「恋に落ちる可能性」


Aセクシュアルは、簡単に説明すると「他者に対して性的に惹かれない」セクシュアリティである。そう言うと、そんなセクシュアリティの存在を信じられないと、「私はAセクシュアルである」と名乗る人に対しこう言う人が表れるかもしれない。

「ぴったりな人にまだ出会っていないだけじゃないの?」-『見えない性的指向 アセクシュアルのすべて』裏表紙、P172

「ないことを証明する」のはとても難しい。証拠が見えない、もしくはとても見えにくいからだ。それでも、Aセクシュアルの人にとってこのような問いかけは不愉快な嘘で、苦しませるもので、腹立たせるものだ。


ところで、一度考えて欲しいことがある。仮にあなたが異性愛者だとして、こう言われたらどうするだろうか。


あなたが異性愛者だと自認しているとするよ。でもそれを言い切るのは生きているうちは無理だよね、だってまだ同性を好きになったことがないんだから。死ぬ直前で同性の人に惹かれる可能性がないって、あなたは同性愛者ではないって、どうして今言い切れるの?


こう言われたら、「異性愛者のあなた」はどう返すだろうか。どうやって証明するのだろうか。「まだ」と言われて戸惑わないだろうか。未来に開かれているかもしれないと言われる可能性を、今この瞬間に証明することはできるだろうか。Aセクシュアルに向けて言われる「恋に落ちる可能性」と、「異性愛者のあなた」に向けて言われる「恋に落ちる可能性」は全く同じだ。そう考えると見えてくるものがあるだろう。まだ出会っていない未来の可能性を確かなものとして証明するのは限りなく不可能に近い、非現実的なことのだ。ないことを証明するのは困難なことであり、それをしようとすると矛盾や行き詰まりなどにぶつかってしまう。これを「悪魔の証明」という。Aセクシュアリティ上にいる人たち、つまり性愛や恋愛を「持たない」人たちは、しばしばこの証明を迫られる。疑問に思う気持ちはわからなくもないが、どうして他人のセクシュアリティにそこまで首を突っ込みたがるのか、私には理解できない。少なくとも私の言う「性愛的・恋愛的文脈で人を好きにならない」というのは、「まだ好きにならない」のではなく、そのような感情が全く、もしくはほとんど湧き上がらない、それらが自分の中にないという今この瞬間の状態の説明であって、可能性の話ではない。

そして、【「まだ」性愛や恋愛のパートナーに出会っていない】というのは、人間は誰もが恋愛をし、恋愛によって出会った相手と性行為をすることで結ばれ、それによって幸せで成熟した立派な人間に成長する、という性愛規範性と恋愛伴侶規範によって支えられている。この規範自体が有害だということを信じられるだろうか。これらは婚姻制度と結託して絶対の権力を振るっているように見えるが、これらの規範を成立させ得る条件に当てはまる人のみが、規範が規定する幸福にたどり着くことができ、それ以外の人は一律不幸である、というメッセージを発している。現在は異性愛規範との結びつきが強いために、同性愛者であるというだけで、ポリアモリーであるというだけで、そして性行為をしたいと思わないだけで、恋愛感情を持たないだけで、不幸だと決めつける。幸福は恋愛と性愛によってでしか得られないとして、それ以外の存在をないことにするものに当てはめられることへの不快感や拒絶感を無視する規範に、どうして全ての人が当てはまるのだろうか。

誰かと恋に落ちる可能性があるなら、同じくらい恋に落ちない可能性もあるだろう。そして同じように、恋愛を経験したと確信できる可能性があるなら、恋愛を経験しないと確信できる可能性もあるのだ。「これまでの人生で恋愛を経験したことがない人」は、確かに「Aセクシュアル」以外にもいる。しかし、だからといって今いるAセクシュアルに「Aセクシュアルという『概念』は存在しない」と言って、何がしたいのだろう。我々は概念だけではなく、現実の社会をAセクシュアルとして生きているのだ。


また、「恋に落ちる可能性」と「Aセクシュアル」を結び付けているが、この2つを結びつけること自体がそもそも考えを変にさせてしまう。前提として、A-セクシュアルは「他者に性的魅力を感じない人」であり、A-ロマンティックが「他者に恋愛感情を抱かない人」である。sexualとromanticは全く別の軸だ。ここを混同している時点で既に事実から外れているのだが、それだけではない。セクシュアリティを「まだ経験していないから判断できない」と語ることのおかしさである。


というのも、セクシュアリティは未来に目を向けられてはいない。セクシュアリティとは、今自分がどう生きているか、どんな状態にいるかを、自分のために説明するものだ。必要に迫られれば他者にも説明するが、証明はしない。その必要がないからだ。そして説明材料は、これまでの自分の経験とそれに基づき自分が立てることができる予測、そして自分だけがわかる確信である。
「私はAロマンティック、かつAセクシュアル寄りの人間だ。これまで他者に恋愛感情を抱いたことはないし、他者に性的に惹かれるという経験もほとんどない。」確かに今この瞬間だけを切り取れば、今まさに恋愛していないことになる。だからと言って将来は恋愛するかもと言われても、少なくとも私にとっては全く現実的ではない。将来足がもう一本増えるかもしれない、と言われているのと同義だ。まだ経験したことがないし、そりゃあ100%自信を持ってありえないとは言えないかもしれない。でもそんなファンタジーみたいなことを現実として捉える努力をしなくてはならないのか?という戸惑いしかない。今後自分のセクシュアリティが変わるのか変わらないのかは、確かに私にもわからない。だからといって自分のセクシュアリティと、そのラベルを選び取るに至るまでの歩みを、他者に否定させる気は一切ないし、そのようなことは許さない。これを論理的かつ簡潔に説明したのが、

『変わるかもしれない』という可能性を、他者の将来の恋愛関係やライフスタイルに課すのは現実的ではありません。」ー『見えない性的指向 アセクシュアルのすべて』p173

の一文である。



「少なくとも生きている間に確認する方法はありません」


そのとおりだ。少なくとも、あなたにわかるように確認する方法はないし、その義務もない。


Aセクシュアリティは、自分自身にでさえ目に見える形で「そうであること」を証明することはあまりに難しい。ましてや他者に目に見える形で証明することなどできるのか、正直無理なんじゃないかとも思う。

ところで、セクシュアリティを生きている間に確認することはできないと言ってしまったら、Aセクシュアル同様に全てのセクシュアリティは死んでから過去を振り返る形でしか証明できなくなってしまわないだろうか。そうなると現世にはセクシュアリティそのものが存在しなくなってしまうが、果たしてそれは現実的だろうか。シンプルに、あなたが認めようが認めまいがAセクシュアルは存在している。それだけのことだ。「確認」だなんて、Aセクシュアルは実験対象とでも言うような言葉遣いだが、他者に性的に惹かれない人々、他者に恋愛感情を抱かないの人々は、ごくごく当たり前に生活している。

Aロマンティックで、Aセクシュアル寄りであると公表してから、時折恋愛感情がないってどういうこと?と聞かれることがある。これに対して、どう答えればいいのか散々悩んできたが、私の最適解は「あなたが恋愛感情を持っているとしたら、そう感じる根拠を持ち合わせていないということだよ」だ。いくら自分の経験を語っても、その感覚は私も持っていないのにどうしてあなたはAロマンティックと名乗るの?と言われることがある。例えば、穏やかな恋愛をする人に「会いたくてドキドキしたり、ときめいたりすることがない」と言っても、「それは自分も経験しないのに、どうしてそれがないだけで恋愛感情を持っていないと言えるの?」と返ってくることがある。相手の立場に立って想像する力が大切です、と教わることが多いが、最も大切なのは「相手の話を聞くこと」だ。自分の経験に引き寄せることも大事だが、相手の話す相手に現実をそのまま聞くことで、相手の現実に最も近づける。相手の話や当事者の語りを聞かずに自分だけの現実を見ていると、簡単にナイーブ・リアリズムに陥ってしまう。その論を振りまいた先に、それによって自分の存在を否定されたように感じ、苦しむ人間がいるかもしれない。名乗るという行為は、そのラベルを選び取った経緯、葛藤、居場所がなくなることの息苦しさ、恐怖、怒り、そうである自分を受け入れなかったりないものとして決めつける社会への抵抗、様々なものが絡み合っている。自分のために名乗っているのであって、世間への説明やわかりやすさのために名乗っているのではない。

そして、確認する方法がないからいない、妄想であるというのは、Aセクシュアルのみならずその論の矢先に挙げられる対象に対して、あまりにも敬意がなさすぎではないだろうか。自分の盲目さを、他者の存在を踏み台にして正当化しようとする態度に、強く怒りを感じる。



「10代のAセク」のあなたへ


私は自分の今のこの状態に「Aロマンティック」、そして「Aセクシュアル寄り」という名前を付けられたのは19歳の時だ。こう名乗ることができたのは、「Aセクシュアル」「Aロマンティック」という言葉を知ったのが19歳だったからだ。そして、Aセクシュアルというものを知るまで私は自分のことをシスヘテロの人間だと思っていた。でも、シスヘテロにしては、周りの友達と比べて恋愛の話に興味を持たない。恋人ができるということがわからない。恋愛感情が誰に対しても湧かない。ドラマや漫画の中では登場人物が「恋に落ちている」らしいシチュエーションで、自分はそのようにならない。でも、LGBTの本を読んでも自分と同じような人は出てこない。果たしてこれはセクシュアリティなのか?それとも単なる個人の特性、発達の問題なのか?


何か周りの人と違かった気がする、という違和感を振り返ったとき、それらを「Aロマンティック」だから、という一言で簡単に、なによりピッタリの説明ができることに気づいた。そしてそう考えると、もしその当時からAロマンティックという言葉を知っており、Aセクシュアリティに関する知識が十分にあったとして、経験に対してAロマンティックゆえにこのようなことが起こるのだ、と初めて自覚できたのは10歳の頃になる。「好意」を寄せいていた2学年上のお兄ちゃんと手をつなぐ機会があり、確かに嬉しかったが、そこにはドラマや物語や友だちの恋バナで言われるような、ロマンティックを持ち合わせている人が「これがあるから自分は恋愛感情を持っている」と確信する要素、おそらく恋愛的な喜びやときめきなどが全くなかったのだ。10年以上前のことだが、その経験はAセクシュアル、Aロマンティックという言葉を知らなかった中高生の頃も、強烈な出来事としてずっと覚えていた。
また中高生の頃も、一般的に性愛と恋愛感情は結びついているらしいけれど、自分はそうではないのかもしれない。みんな自然に恋愛を経験しているけど、自分の中にその自然はないのかもしれない。月9で恋愛モノをやると翌日「誰が好きか」という話をするけれど、みんなの言う「好き」の尺度と自分の尺度はどうやら違うらしい。みんな「モテたい」とか「恋人がほしい」とか「リア充爆発しろ」とかいって恋愛的文脈で恵まれることに価値を置き、それを熱望しているらしいけど、あれはその場のノリではなく本気だったらしい。思春期には恋愛への関心が高まると教科書にあるけれど、あれはどうやら10代の当然の発達段階の事例らしい。でも自分はそれらが全く理解できない。そんな目には見えない「Aロマンティックとしての経験」を積み重ねてきた。好きな人とは恋愛関係を結ぶものだよ、そのうち好きな人ができるよ、というメッセージにさらされ続けて10年以上だ。その中で「自分はそうではない」と確信し続けてきた私にとっては、これまでの経験も含めて今の自分が最もリアルだ。

Aセクシュアルの10代も、Aロマンティックの10代も存在する。彼らがいなくなるとすれば、それはこの世から性愛や恋愛がなくなった時だ。そして10年以上前から、私は確かに存在している。もし自分はAセクシュアリティのどこかにいるのでは、と不安になったり疑ったりするあなたがいたとしたら、少なくともこんな経験を経てきた人間がいるから安心してほしい。大丈夫、あなたをいないことにはさせない。


終わりに


Aセクシュアルと記述していながら恋愛感情や経験を持ち出されている時点で、こういうふうに書く人は当事者のこと、ひいてはAセクシュアリティのことを知ろうとしてない人なんだろうなと思ってしまうので、別にお前に言われてもな...感があった。ただ、このようなケースはかなり多く世に溢れているだろうし、このように言われたというAceの言葉も度々目にする。テンプレートでしかないので、私はいちいち傷つきはしないが、非常に面倒だと思うし、何よりも物凄く腹が立つ。ひたすら腹が立つ。
私はAセク寄りAロマです!と言って発信してる時点で、その前にAセク寄りAロマと自認して色々考えて生きている時点で私は何も間違ってない。Aセクシュアルなど存在しないという人にわかるだろうか。Aセクは現実に存在し、あなたと同じ社会を生きている。