甘くない歌

この曲以上の出会いは、私の人生にはもうないだろうな。そんな曲がある。


中学生の頃、思春期特有のもやもやした感覚、元々持っている一人が好きという気質、それに対しなかなか集団生活から逃れられない環境、(今思えば)Aceであるが故に理解できない、当時の自分にとって困惑を招くのには大きすぎた性愛、恋愛というルールと、あらゆるものから逃げられないでいた。それらから解放されるために、家族が寝静まってから、鍵とウォークマンだけ持ってこっそり家を抜け出しては近所の川に散歩しにいったり、唯一DVD再生機能が付いているPCのあった父の書斎に忍び込み、ある円盤を見たりすることを夜な夜な繰り返していた。


サカナクションの「ドキュメント」という曲がある。中学生の時、ラジオが縁で知ったバンドの曲だ。アルバムの最後に入っているこの曲を初めて聴いた時、どうしようもなく泣けてきてしまった。弾き語りの音も、キーボードの音も、歌詞も何もかも全てが完璧で、これ以上の出会いはもうないな、と悟った。出会いからおそらく6、7年になるが、その予感は未だに外れていないし、多分今後もこれを超える出会いはない。


全く甘くない曲だ。切ないにコーティングされた微かな甘さすらないほど、ただ「君」をまなざす「僕」の見ている情景がずっと流れていく。「僕」自身の葛藤から、ふと顔を上げた先にいる「君」は僕に似ていて、まるで僕をまなざすように君を描く。この視線の優しさに固まっていた心を解いてもいいかな、と思った。

そして最後に歌われる、

愛の歌 歌ってもいいかなって思い始めてる  愛の歌 歌ってもいいかなって思い始めてる

この言葉が聴こえてきたの衝撃、理由のよくわからない涙、漠然と感じた肯定と救い。この時感じた肯定は、その後も私のお守りのような存在だ。


今になってようやく言語化できたことだが、愛する、ということを語るのに恋や性の要素を排除するのはなかなか困難だ。厳密に言えば、恋や性を排除した状態でも愛を語れるということを理解してくれる、受容してくれる人を見つけるのは困難だ。この人を守りたい、恋も性もない、それらの欲求の対象ではなく寄り添いたい、辛くならないでほしい、いっそ自分を預けてしまいたい、一つにならなくていいからそこにいさせてほしい。そういうものを受け入れてほしい時に受け取ってくれる人が必ずいるわけではない。そのしんどさをないことにせず、受け止めてくれたのがこの曲だった。

この曲の中で、君と僕は交わらない。多分「君」は「僕」の思っている脳内にしかいない。そのことは全く無力でもないし虚しいことでもない。交わらなくても孤独ではない。そのことにも救われっぱなしだ。葛藤は抱えているけど、想っている相手を大切にしたまま今いられるのは、面倒ごととして忘れるよりよっぽどいいことだ。


恋愛の文脈ではない歌で使われる「愛の歌」は、当時の私にはこんな感情を持てたらなあ、という憧れを、そして月日が経ってから聴くと、「恋」にまつわる色々なもので磨耗した私の存在を肯定する歌だった。今でこそツイッターで色々共有できる関係もできて、リアルでも信頼できる仲間もいるが、長いこと一人で葛藤してきた。そして仲間を得た上で、私は私でこの葛藤を引き受けなければならないのだ、と思うようになった。恋愛というものに苦しめられてきた辛さは私の経験でしかないのだし、たとえ同じような境遇の人にであっても、これらを明け渡すことはしたくない。私の存在、感じてきたことを失うようなことはしたくないからだ。

かつては「僕」のような他者が、わかってくれている存在が欲しかった。欲しかったから孤独だった。けれど今は、嘘を抱えていること、一人で眠る夜の静けさ、安寧、自分とどこか似ているような相手に対して慈しみを抱くこと、そしてそれをいつか届けたいと思うこと、それらを否定されないような世界がここにはあることを知った。改めて、タイトルに「記録」という事実を意味する言葉を持ってきたセンスに感服している。ないことにはならない様々なことを、忘れられないし忘れたくないと思う。愛の歌を歌いたくなったことは事実だ。そう思った自分ごと肯定してくれるこの曲は、だから私の人生のお守りともいえる大切な曲なのだ。


https://m.youtube.com/watch?v=YXJso0ALWvk