アニメ『ケムリクサ』と「好き」ということ
※この記事にはアニメ『ケムリクサ』のネタバレと、筆者の頭の悪さによる考察不足の内容と、視聴不足による微妙な話があります。予めご了承ください。
※これから『ケムリクサ』を視聴する人は絶対に読まないでください。私からのお願いです。
※視聴する予定がない人は先へお進みください。でも、この記事で興味を持ってくださったなら、ぜひ視聴していただきたい。これも私からのお願いです。
※4/19 追記 書き忘れがあったので多少の追記。
「好きな異性のタイプは?」という問いに、私は答えることができません。
考えても答えが見つからないからです。
もっと言えば生理的に答えることができません。
この質問から得られるのは、被質問者が異性に求める要素です。
世間一般で「好きな異性のタイプ」という質問に対する回答として考えられるのは、「おおらか」とか「優しい」とかいった性格に関するもの、「目」「鼻」「体型」などの体や顔に関するものが挙げられると思われます。
これらを包括した回答として更に考えられるのは、「誰それのような」といった、自らの理想に似通ったある特定の人を挙げるもの。
私はこの3つ目に挙げた「誰それのような」という回答が、質問の回答としては最も理にかなっているのではないのかと思います。
おそらくば、その人はまさにその時、その誰それが現れたならば狂喜乱舞するでしょうから。
一方1つ目と2つ目に挙げたものに関しては、不確定要素を含むと言わざるを得ません。
仮にそれらの概念を包括した人が現れたとして、その人を「好き」になるかどうかは、実際に触れ合わないとわかりません。
その要素をすべて満たした異性がいたとして、その異性を好きになるかどうかは別問題です。
こう言えばもっとわかるかもしれません。
「誰それの」というその誰それの、人間としての要素を仮にすべて分解し、概念化できたとしましょう。
性格から全身の骨格、顔のパーツなどに至るまで、それらを言葉にして形容できたということです。
さて、その形容されたものを人間として再構築します。
この時作り上げられた人間は、果たしてその誰それになり得るのか?ということです。
なり得ないと私は思います。というか、なり得ません。
なぜならば、実際に存在している人を概念化し、形容することは可能であっても、その形容詞から具体的な特定個人を作り上げることは不可能であると考えられるからです。
その形容詞が「誰それのような何々」というものならば可能のように思われるかもしれませんが、それはそもそも概念化・抽象化できていない上に、その誰それに対する共通認識が必要です。
ですから、この時使われる形容詞は、すでに存在していて、広く使われているものでなければなりません。
ここで議論しているのは、その分割された概念から、必ず誰それが生まれるかどうかということだからです。
作る人によって異なるのではいけませんから。
一般的に使われる形容詞で誰それを分割し、人間を再構築したとしても、その形容詞から受ける印象は人によって異なります。
したがって、要素の分割からはある特定個人は生み出せないことがわかります。
ですから、誰それが好きな人に対して、その誰それの要素を分割し、再構築した人間を見せたところで、必ず好きかどうかはわからないということです。
はじめに述べましたが、「好きな異性のタイプは?」という問いに、私は答えることができません。
その理由はここにあります。
平凡に要素を並べたところで、それが相手に伝えるのはとても曖昧な形容詞だけ。
先程の「誰それのような」は、一般的に芸能人・有名人を挙げて回答されます。
そもそも私が芸能に疎いというのも原因の一つ…というか主原因なのですが、仮に知識があったとして、その誰それと同じ要素をもった人間を好きになるとは限らないというのは先述の通りです。
考えても答えが見つからないのは芸能に疎いから、生理的に答えることができないのは、好きになるとは限らない女性のことを、好みとして回答することに激しい抵抗を覚えるからなのです。
要素を述べるのも同じこと。
それは曖昧な形容詞の集まりでしかないのです。
その要素を包括した人が現れたとして、好きになる自信がない。
そういったわけで、その質問に答えること自体がとても不埒なことのように思われて仕方がないのです。
さて。
「好き」と繰り返し述べて来ましたが、これこそ非常に曖昧な概念です。
あまりにも多くの内容を含みすぎている。
言語によって、同じ意味の言葉であっても区分けが違うことがあります。
同じ障害という言葉であっても、英語ならばdisability,barrier,injury…等々、様々な表現があり、この全てのニュアンスは微妙に異なります。
逆のパターンもありますが、一部の日本の単語は、英語で表されている微妙なニュアンスの違いを包括してしまうことがあります。
好き、という言葉もそうですね。
人にはいろいろな好きがあります。
少しこの話を置いておきましょう。
ところで、先日、私はふとしたことからアニメ『ケムリクサ』を視聴しました。
ほとんどアニメは視聴しないのですが、本当になんとなく視聴を開始。
廃墟が好きな私は、その見た目にまず惹かれて、世界にのめり込んでいきます。
あらすじを引用します。
”赤い霧に包まれた、
荒廃した建造物に囲まれた人気の無い世界を舞台に
3人の姉妹が生き抜く物語。
物語の中心的人物でまとめ髪の特徴的なりん、
猫耳でいつもおっとりしているお姉さんキャラのりつ、
メイド調の服に身を包み天真爛漫なムードメーカーりな。
謎多き世界で
この姉妹が目指すものは一体…”
公式ホームページより。
この文章のみでは、3人の姉妹の冒険が始まりそうな予感がします。
まず視聴者が面食らうのは、りなという女の子は出てこず、りなこと呼ばれる女の子が、りんと共にいるということ。
開始早々あらすじ詐欺です。
更にりなこは、1話開始数分で、赤虫と呼ばれる敵性生物にやられて命を落とします。
私はあらすじを全く読まずに視聴を始めたので混乱しませんでしたが、あらすじをきちんと読んだ立派な視聴者は開始数分で頭が混乱してしまいますね。
更に。りんとりつが悲しみに暮れていると、先ほどのりなこと同じ見た目をした女の子が4人も現れます。
もとは一人だったりなが分割されて、彼女らになったということが会話からなんとなく読み取れます。
彼女たちは、水を求めて島と呼ばれる場所を転々としています。
その水を守ろうとりなこは消滅してしまうのですが。
発見した水を回収している途中に、この物語の新たな登場人物、わかばが突然水槽の中から現れます。
わかばの血の色を見るなり、りんたちはわかばに襲いかかります。
赤い血を流したわかばを、赤虫だと勘違いしたのです。
私達が見れば彼らは皆同じ人間に見えるかもしれませんが、姉妹の目には新たな脅威として映ったのですね。
りんはわかばを処理しようと試みますが、それまで使ってきた手段が通用しません。
緑のケムリクサを使う方法です。
しかもわかばに対しては、処理するどころかむしろ傷が治癒してしまう始末。
姉妹はわかばの処理を諦めて、彼を縛って旅を続けることにします。
さて、視聴者は更にあることに気が付きます。
彼女たちはある特定の五感に長けていて、それ以外は鈍いということです。
赤霧と呼ばれる赤い霧は、熱くて独特な匂いがする、とわかばは話しますが、姉妹にはよくわからない様子。
1話の時点でも、りつは聴覚、りんは視覚、りなたちは味覚に長けているということが、よく見るとわかります。
残りの感覚は、ということなのですが、実は彼女たちは6人姉妹であったことが会話の中から読み取ることができます。
残りの3人は戦闘で命を落としていたのです。
これは監督であるたつき監督がツイッターにて投稿した『趣味のアニメ』0.5話~0.9話でもわかりますが、これを見るとりょうが嗅覚、りくが触覚を司ることが読み取れるはずです。
残るりょうなのですが、もともとはりょうが視覚を司っていたようで、りんがそれを継承した形になります。
では、6人姉妹だった時のりんは、何を司っていたのでしょう。
もう一つ、『趣味のアニメ』と、本編序盤から読み取れることとして、彼女たちが司る五感と関連して、自らの”好き”を感じる時、キラキラとしたエフェクトがかけられているということです。
りょうは戦うことが、りつはミドリを育てることが、りくはなにかに触れることが(後にわかりますが彼女は痛いのが一番好きなようです)、りょくは新しいことを知ることが、りなは何かを食べることが好きなのです。
これは非常にわかりやすい演出で、あまりにもあからさまなので最初は一体何の意味があるのかと疑問にすら思いました。
嗅覚で敵を感じるりょう、「キラキラした音」を感じるりつ、触覚に興奮を覚えるりく、見て新しいことを知るりょく、何かを食べるのが好きなりな、といった具合です。
これは普通に視聴していてもわかることだと思います。
さて視聴を進めると、姉妹のうち、りんだけがキラキラしたエフェクトがかけられていないことに気づくはずです。他の姉妹は何回もかけられているにもかかわらず。
何回も言及されるのですが、りんは好きなことが見つけられていません。
りんは自分の好きなことよりも、姉妹の好きを優先して戦っているのです。
りつはそのことを気にかけていますし、りなこも消滅寸前で好き放題すればいい、と言い残しています。他の姉妹も同様。
しかしりんはなかなか好きなことを見つけられずにいた、ということ。
ところがわかばとの出会いがそれに変化をもたらします。
もともとりんは冒険が好きでした。
しかし姉妹を失っていくにつれて不安が募り、ついにりんは故郷の一島に残ることを決めてしまっていたのです。
わかばは、あらゆることに興味を示します。
そんな知的好奇心にあふれるわかばに感化されて、りんは一島を出、冒険を始めることを決意したのでした。
そんな中、りんはそれまで経験してこなかったことを体験します。
1話でもすでに描写がなされていることです。
「距離や時間によって、顔のあたりが熱くなる気がする…他にも胸元がどくどくしたり、視界が少し眩しく曇ることもある…気がする 今までになかった現象だ」
以上、りん談。
視聴者はすぐにわかり微笑みます。
これは恋だ、と。
しかしりんたちはそのことを知りません。
りょくの知識から、その現象のことを毒と呼び始めます。
その現象は以降も何回も起こり、りんを悩ませます。
そんなことは気にも留めず、世界のことや様々なことに興味を示すわかば。
特にケムリクサに対しては異常な程の執着を見せます。そのせいで迷子になるほどに。
その迷子の道中、命を落としたはずのりくが現れます。
りくにケムリクサの使い方を教えてもらったわかばは、ケムリクサをうまく使うことができるように。
意外にもガサツなりくは厭世的にも見えます。
今をどう生きるか、むしろどう終わるか、ということに重きを置いているようです。この意味は終盤でわかります。
更に旅を続けると、水が豊富にあるエリアにたどり着きます。
喜ぶ姉妹たちですが、それまでに何回か経験した地震に不信感を覚え、りんとわかばで探索をすることに。
青い障壁をわかばが操作することで中に立ち入ると、なんとあたりを埋め尽くすほどの赤虫が。
そこには赤い根があり、そこから赤虫が湧いてきていたのです。
地震の正体は、そこの赤虫が土台部分を食い散らしていたことによるもの。
りんは応戦しますが、数の多さにやむなく撤退。旅を続けることに。
その道中で、わかばはまたも死んだはずの姉妹に出会います。りょうです。
しかしここで不思議な現象を目の当たりにします。
りょうとりょくが交互に現れるのです。
これは実は6話にも伏線が張ってあって、りくが通信を試みるようにりょうを呼び出すシーンが有るのですが、つまり彼女らは1つの存在になっているということなんですね。
先に進むわかばと姉妹たち。ついに赤い木にたどり着き、最終決戦に臨みます。
その前に有益な情報が得られるかもしれないから、といってわかばはりんの記憶の葉を見せるようにせがみます。
なんとか見せてもらったそこには、衝撃の事実が。
りりという1人の少女。
彼女はワカバ(わかばと区別します)を慕っていましたが、ワカバは仕事が忙しく、なかなか帰ってこれないようで、久々に帰ってきた様子。
ワカバは地球の文化財を釣り上げ、再構築する仕事をしています。
その時に偶然複写されてしまったのが人間のりりです。
ワカバはケムリクサの研究もしています。
りりもケムリクサが好きなのですが、大人にしか使えないように制限がかけられていて、不満げ。
それでもワカバも知らないことを次々と発見していくりり。
微笑ましい光景ですが、ワカバは仕事に精を出しすぎてしまい、りりと再び別れてしまいます。
なんとかワカバに休んでほしいりり。
ケムリクサの効果を消すケムリクサを自ら生み出します。
その色は、赤。
赤色のケムリクサは異常なスピードで成長し、全てを蝕んでしまいます。
ワカバの持つケムリクサもすべて効果を失ってしまい、打つ手なしと思われました。
その時ワカバは赤色の方に向かっていき、自らを犠牲にして、緑色のケムリクサを発芽させます。
その時言い残した言葉は。
「好きなことして、楽しく生きて」
青色の障壁に守られていたりり、ワカバの帰りを待ちますが、やがてその青色すら突破して、赤色のケムリクサが侵食を続けてきました。
そしてりりは走り、決意します。
私がやるんだ、と。
ケムリクサが大人にしか使えないのならすぐに大人になればいい、失敗したときのために分割を、そして記憶の葉を。
りりはワカバに会うために、自らをケムリクサにして分割することでそれを成し遂げようとします。
というのが、11話の内容。
最終話は赤い木との最終決戦です。
わかばは瀕死になりますが、緑のケムリクサのおかげで一命を取り留めます。
戦力になるのはりんだけですが、赤い木の圧倒的な戦力に絶体絶命。
わかばはついに赤い根の下敷きになってしまいます。
りんはその名を叫ぶ。
と、その時、死んだはずの姉妹たちが現れます。
りんの記憶の葉の中にいたと話す彼女たち。
記憶の葉はバックアップの機能もあったのです。
しかしもう一度戦うと消滅してしまう、と話します。
りくが最後をどうするか、と言っていたのはこういうわけだったのです。
その少し前に、りつとりなは、命をかけて戦うことを決意していました。
りつの好きなものであるはずのミドリの本体をりんに託し、りんのもとへは行かせまいと。
姉妹は皆、りんの好きを守るために戦うことを決意したのです。
そして、りんは最後の力を振り絞り、ついに赤い木を倒すことに成功します。
すべてが終わったかのようですが、水は尽き、姉妹たちは消滅を待つばかりかと思われましたが。
突如藍色のケムリクサが現れ、大量の水がある場所に行きつきます。
安堵したりんは涙を流します。
そして、良かったです、本当にと言うわかばに。
満面の笑みで。キラキラしながら。
「わかば。 好きだ。」
と。
これがケムリクサのあらゆる場所を端折った全容になります。
まとめに入ります。
すべての始まりは、りりの好きから。
好きが赤色のケムリクサを生み出し、悲劇が始まります。
そこで6姉妹が生まれますが、実はりりは記憶の葉を見ることで、ワカバがすでに死んでいることを知ってしまいます。
どうしようもなくなったりりは、ワカバのために。という記録を消し、残された姉妹たちにショックを与えないようにします。
旅の中で姉妹たちは、様々な好きを見つけます。
文字通り、好きに生きていたのです。
しかも、それは互いに干渉せず、尊重しあって共存していました。
しかし、りんだけは自分の好きを見つけることができませんでした。
りんにはわかばに出会うことで変化が訪れます。
しかし自分の好きを見つけることには至りませんでした。
そんな中、最終決戦寸前で、姉妹に気が付かされるのです。
わかばこそが、自分の好きだと。
姉妹たちもりんの好きを全力で守ろうとします。
そして最後には、姉妹たちと同様にキラキラを浮かべながら、愛の告白をすると。
そういうお話です。
『ケムリクサ』という作品は、人間の「好き」ということを真っ向から肯定してくれる作品です。
そこにあるのは、互いの好きを尊重し合う世界。
様々な好きがあって、それを求め続ける。
とっても優しい世界。
机上の空論かもしれない。
それでも、自分の好きを追求することを肯定してくれるというのは、とても嬉しいことです。
さて。
最初の話に戻ります。
いろいろな好きがあると言いました。
りんの好きはおそらく、loveの方の好き、それ以外の姉妹の好きはlikeに当たるのではないかと思っています。
視聴者も同じことを思ったのではないでしょうか。
同じ好きですが、何が違うのでしょう。
私は『ケムリクサ』を視聴する前、このように考えていました。
要素の話をしましたよね。
人を好きになる時、要素を取り上げるならば、その要素そのものが好き(like)なのであって、loveではないと。
あるいは、何かをすることが好きなのはlikeだとか。
ではloveとはなにか。
条件なしに、それそのものが好きであるということ。
なぜだかわからないけど心がうずく。
心惹かれる。
そういうものがloveだと。
そう思っていたのです。
私が「好きな異性のタイプは?」と聞かれて答えられないのは、一途なloveを心に抱えているから。
それに安易に答えることは、loveを低俗なlikeへ貶めることだと。
そう思っていたのです。
likeとloveの違いに関しては、私の考えも的を外してはいないのではないかと思います。
周りが見えなくなるくらいに好きだからこそ、loveなんじゃないかなとは今でも思っています。
でも。
『ケムリクサ』を見た私は気が付かされました。
likeだろうが、loveだろうが、同じ好きで、尊重されるべきで、尊いものなんだと。
【人間の「好き」は、どんな形であれ、どのようなものであれ、尊いものである】
これが私が『ケムリクサ』から受け取ったメッセージです。
実は1話を一通り見たあとに見返すと、わかばがりんを見た時、わかばはキラキラと光っています。
このキラキラは、きっと知的好奇心からのキラキラではありません。
記憶の葉を持つりんを、無意識のうちにりりと重ね合わせ、再開を喜んでいたのだと私は思います。
りんも、わかばのこれこれが好きだったというわけではないはずです。
きっと、「わかばだから」好きだったのです。
私の恋愛観で、最も好きなものです。
理由はわからないけど、好きだ。
そういう感情を私はloveと呼びます。
恋愛観においてはそうです。
けれど、それをlikeを貶めるような免罪符にしてはならなかった。
『ケムリクサ』の世界の彼女たちは、自分の好きも、他人の好きも、大切にしていた。
それでよかったのです。
どんな好きであれ、尊重するべきだったのです。
『ケムリクサ』は、私の価値観をガラリと変えてしまいました。
りんの告白シーンは、最終話のたった20秒ほどでした。
けれど、その20秒は私にとって、今でもとても大切な時間です。
ひょっとしたら、likeとloveの違いなんかなくて、私の恋愛観すら壊されてしまうということがあるかもしれない。
けれど。
この作品が日本語で作られていて本当に良かったと思います。
りんがわかばに伝えたことは、愛している、ではなく、好きだ、です。
好きなんです。
愛しているのでもなく、求めているのでもなく、好きなんです。
「好き」という曖昧な概念を、ここまでうまく利用するというのは、本当に感銘を受けました。
いろいろな好きがあって、それでいいんだ。
『ケムリクサ』は、どこまでもどこまでも人間を、人間の「好き」を肯定してくれて、それを尊重することの大切さを教えてくれた、優しい作品でした。
こんな形でケムリクサの感想を終わらせてしまうのはとてももったいないと思っています。
いつかまた書くかもしれませんが、ここで一旦幕引きにしたいと思います。
長々とありがとうございました。
間違い・誤字・意見等ありましたら、ぜひコメントへお願いします。
※追記
問いを投げっぱなしでした。
結局りんは何を司っていたのでしょう。
憶測でしかありませんが、私の意見としては。
六姉妹のうち、五人が五感を司っていました。
五感は人間の構成要素の一つです。
もう一つはなんでしょうか。
きっと生物学的な話ではないはずです。
人間を人間たらしめるもの。
「愛」です。
彼女たちは皆、好きを持っていました。
その好きは、特出した部分と関連があったのも見たとおりです。
では、りんは。
愛を持っていたからこそ、他の姉妹とはちょっと違う好きになったのでしょう。
みんな同じ好きなんだ、とは言いましたが、好きというジャンルの中に”人を”愛するということが含まれていても何ら不自然ではないでしょう。
ということです。
短いですが補足。
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