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人生において重要なのは、「嫌われる勇気」ではななく、「嫌いになる勇気」だと思う。

人生において重要なのは、「嫌われる勇気」ではななく、「嫌いになる勇気」だと思う。

 研究室の自分の席の後ろ側には、大きな本棚があって、専門書から漫画まで、色々な種類の本が陳列されている。研究データの整理にも飽きたので、自分の後ろで、天井まで広がる本棚を眺めていると、「嫌いわれる勇気」という本が見つかった。少し前に発売された物で、アドラー心理学を解説した書籍だ。大学関連のお金で購入された痕跡がなかったため、おそらく、知らない時代の先輩が購入して置いて行ったものだろう。その先輩はこれを読んだのだろうか?。流行っていたとは言え、人間関係に悩んでいたから購入したのだと思う。悩みは解決したのだろうか。

 そんなことを想像しながら、パラパラと中身を確認する。自己啓発本で書かれていそうな内容を、哲学者と学生が会話している場面を想定して、ストーリーが進んでいくみたいだ。読書前の勝手な感想を言えば、正直、読みにくそうだ。哲学者と学生の物語が、会話口調で描かれているためだ。自分は会話形式で書かれている本は読みにくいからキライ。多分、この本は今後も読まないだろう。

 そんなことはどうでもよくて、「嫌われる勇気」が持つ言葉の意味を考えみようかと思う。先に言っておくが、僕は本のタイトルを見ただけなので、実際の書籍とは何の関係もない。

 僕が思うに、「嫌われる勇気」には、「自分が嫌いなヤツに」という枕言葉が付くと思う。人生において、人間関係を良好に保つのは、とても大事だ。誰にでも嫌われてしまう人は、人間が元々持っている帰属意識や、社会的欲求が満たされないから不幸になる。勿論、例外もいるかもしれないが、ほとんどの人は、他人との関りがないと生きて行けない。当たり前のように嫌われることは不幸なのだ。

 でも、自分が嫌いなヤツに嫌われることは、不幸にはならない。むしろ幸福になる。一緒にいて、不快感しか感じないヤツだったり、自分に敵意むき出してくるヤツとは、今後の人生関わる必要はないのだ。嫌われて万々歳。

 だから、「嫌われる勇気」を持つ前に、こいつには嫌われても良い相手を見つける必要がある。対象者が明確じゃないと、勇気もクソもないのだ。

 そして、キライは主観だ。どうしたとしても、客観視できない。だから、嫌いになる理由なんて自分の心の中にしかない。もしくは、理由なんてなくていいと思っている。僕が読んでいない「嫌いになる勇気」を読みにくいと批評したように適当でいい。言語化できなかったとしても、全身全霊で嫌ってやればいいし、身勝手に関係を断ち切ってやれば良いのだ。

 しかし、現代社会において、人を嫌うことはリスキーでもある。それは、嫌いなヤツ認定した人であっても、生活から切り離すことができないからだ。例えば、会社の上司が嫌いであるとする。しかし、嫌われるわけにはいかない。明日からも仕事は続くので、コミュニケーションを正常にとれる状態でないと生活に支障があるから。けれど、一度覚えた嫌悪感は消えることはない。しかも、顔を合わせるたびに負の感情が増幅していく。キリキリと胃が痛くなるのを我慢しながら言葉を交わさなくてはいけない。これは不幸だ。実際には、仕事を辞める選択肢もあるのだけれど、失うものがデカすぎる。

 だとすると、嫌いにならないことが重要なのかもしれない。そんなことができれば初めから苦労しないのだけれど、人を嫌わないためにはどうすれば良いのだろうか。実際に可能な手段なのかもわからない。自分の中に答えはないので、だれか教えてくれないかなぁ。

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