ホモソーシャルにおける“通例”的スキンシップと男性間に発生するグロテスクな性的イニシアチブ

フォロワーのいいね欄をぼーっと眺めていたら目に入った記事なのだが、非常に生々しくすごみを感じる内容であり、身につまされる思いで読み入ってしまった。

これはすでに私の中で自身の生活を急激に乱すほどの脅威ではなくなり、ある程度冷静に言語化できるところまで鎮まっていることなのでここで自己開示させてもらうのだが、かくいう私も成人して間もない学生の頃、人に物を教える立場の男性から性的暴行を受けた経験がある。とはいっても先の記事のように悪質極まりない大人による凄惨かつ長期に渡るような暴行ではなく、私が体験したのはアルコールを伴ったいわゆる“痴情のもつれ”とも呼べる刹那的なものなので、当時の状況や痛手の色はまったく別物ではある。それでも先の記事が示す“男性間に発生するグロテスクな性的イニシアチブ”については思うところが多々あったので、自分のためにも雑感を垂れ流しておこうと思う。(前述した通り私はすでにある程度整理が付いた状況にあり、だからこそ当事者としての視点から言語化しておけることはないかと当記事をしたためております。ですので、当記事は現在進行系で暴行被害と正面から向き合っている当事者に対してどんな影響があるのかは正直わかりません。各自ご自身の責任においてお読みください)

そもそも性的暴行の事実というのはとにかく第三者に内情を打ち明けにくい(伝え辛い)ものだが、それが男性同士の間で起きたこととなると輪をかけて公にされにくいのが実情だと思う。加害者側が(既婚者であることや職場の地位など“崩すわけにはいかない”社会的立場を理由に)同性愛者および両性愛者であることを徹底して隠蔽しようと画策するケースが多いことや、男性同士のスキンシップがその度合に関わらずホモソーシャルという閉じられた環境下で暗黙の了解的に(ときには通過儀礼として)処理されてしまうといった“通例”がそういった隠蔽体質的な“構造”を維持してしまっているというのが、成人するまで必死にゲイであることを隠し続けた後カムアウト済みのゲイとして15年以上社会に揉まれてきた私の個人的見解だ。というよりも、後者のホモソーシャルにおける慣習的要因については、思春期における分別の付きにくい同性同士のスキンシップ体験を秘匿し、自身の内に潜む同性愛的感情の存在を有耶無耶にし続けている自称ノンケ男性たちにとっても、ある程度察しが付くことなのではないだろうか。また、この手の内情を吐露することが心身ともに何かしらの“情けなさ”として取り扱われてしまうことこそが、男性が性被害を誰にも詳しく打ち明けられずに抱え込み、歪んでいく大きな原因なのではないかという実感もある。自身が性的暴行の被害者であるという事実を打ち明けることそのものがセカンドレイプになってしまう可能性というか、そういった抑圧的通念による懸念や不安が男には(男性というジェンダーには)付きまとっているように感じる。

そしてそういった要因を背景とした環境や状況の中で加害者が被害者の未熟さや良心に付け入り、個人間における性的暴行についての訴えや事実確認を社会的立場を利用して無視したり巧みに封殺したりし続けることで、被害者側が「これはもう受け入れる(自分の方が赦す)しかないのではないか」という諦観を植え付けられ、泣き寝入りしたままフェードアウトしてしまう場合が多いのではなかろうか。自分の場合も完全にその流れだったので、記事内の「加害者が口頭弁論の際に一切姿を見せなかった」というくだりには「まあ、そうだよね」という失望を伴った納得を覚えてしまった。どういう形であれ、一度損なった性的な自尊心というものは“真実”と向き合えない限り一生損なったままであり、加害者が少しでも誠意を見せてくれない限り、被害者にとっての泥沼は目に見えたものであれ水面下に秘匿されたものであれ死ぬまでずっと続くのだろうなという悲しい予感は拭えない。性的な(身体的な)尊厳というのは、それくらい不可逆的なものなのだと常々思う。性的暴行を受けた後、どれだけ別の相手と幸福や安堵に満ちた性体験を共有できたとしても、自分にとって自分の身体はひとつしかないため、自身の人生にひとりでも性的な尊厳を深刻に損なうような相手が存在し続ける限り、その呪いは一生拭うことはできないのかもしれない。こういった呪いは無意識下に刷り込まれているというか、自身で制御できるようなところに記憶されていないようにも思う。だから頭ではもう克服できていると考えていても、いざ身体的にそういった行為や現象にふと触れた瞬間唐突に「やあ、また会ったね」と“負の体感”を引きずる自分自身が現れたりするのが困りものだ。私の場合は事が起こるに至るまでの経緯がかなり入り組んでいたこともあって、自身が“被害者”であることを正当に自覚するだけでも結構な時間がかかってしまったのだが、この歳になってようやく多少は解氷してきたとはいえ、それでも性的な快楽や興奮に付きまとう名状し難い閉塞感を拭いきれてはいないのが正直なところだ。

性的被害に対して「そんなに追求しても(正面から向き合っても)自分自身が傷つくだけじゃ…」という同情が向けられたりもするが、当事者としては“一生傷つき続けるからこそ少しでも痛みの反芻をせき止めようと必死にダムの構築を目指している”のであって、自身の惨めさと深すぎる憤りを相手(加害者)に理解させるという意味での“事実確認”は必要不可欠だとも思う。「私はなぜあんなことをされなければならなかったのか」という疑問や悲しみ、そして強烈な悔しさや怨嗟をなだめるためにも、「あれは一体なんだったのか」と具体的な内情について納得がいくまで加害者と対話する(自身の内情を突きつける)という体験でしか報われない何かが確実にあるのだ。相手(加害者)が暴行の記憶を曖昧にぼかして自身の当事者性を放棄しようとしている場合はなおさら、(たとえ本当に忘れていたとしても)相手が逃げ出せない状況下で対峙し、相手が能動的に吐き出す言葉を確認するという“儀式”のようなやり取りを経た方が、まだ少しは心が軽くなったというのが自身の体験から得た私の切実な体感だ。身体が保管する深刻な惨めさは(被害が深刻な場合直接的な対面は避けた方が賢明であるという前提は当然だと思いつつも)、損なう原因を作った張本人と対峙しない限り緩和することはできないのではないかという思いがどうしても自分の中にはあったりする。その対峙は被害者にとってかなりのリスクを伴うものであり、大いに博打でもあるのだけれど、それは今後同じような思いをする人を減らしていくための“祈り”のような思いでもあると感じている。

ちなみに同性同士の性的なイニシアチブが暴力的かつ暴発的に発生してしまう場において、体の大きさや腕力差といった条件は加害者と被害者の力関係をはかるための材料としては弱いようにも思う。暴力的優位性というのは精神的にも肉体的にもより身勝手に暴れた方に宿ってしまうものであり、被害者の体格や年齢に言及するのは少々見当違いではないかと個人的には感じている。同性同士だとむしろ自身の方が体格的にその場を制圧できたとしても、相手の暴れ方によってはその身体的優位性の自覚が故に「受け入れてあげないと相手が壊れてしまうのではないか」といった良心を人質に取られるようなパニックを起こしたりもするので、とにかく体格差を理由に被害者の訴えが疑われてしまうケースを見かけるたびに、あまりにも実情を知らなすぎるのではないかと腹が立ったりもする。人情がはらむ性的な観念というものは、その場でより自分勝手に暴れた方に軍配があがってしまったりするものなのだ。

こういった同性同士における性的暴行の生々しい実情はなかなかディティールが想像しにくく、だからこそ言及されづらいアンタッチャブルなものになりがちなので、先の記事のように当事者が語り継ぐことは少なからず“情報の共有”という意味で大切なのではないかと感じている。だから、相手(加害者)が寿命を迎えたあと、自身の体験をひとつの“実例”として具体的にアウトプットしてみるのも、ある種の社会貢献なのかなと思ったりもする。そしてこういった考えに至るとき、相手(加害者)のつつがない生活や社会的な立場を脅かさないよう、「相手が寿命を迎えたあと」などと反射的に気を遣ってしまっている自分の“間抜けな被害者”ムーブに、改めて自尊心の喪失と“取り返しのつかなさ”を痛感させられてしまうのである。


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