観念したセクシャリティと人間的魅力の相関性を信じて

今回もいただいたマシュマロへの返答が長くなってしまったのでこっちでお答えしようと思います。

こちらがいただいたマシュマロ。めっちゃ元気なのでお答えしました。

こんばんは。いただいたマシュマロを読んだ限り、おそらくすでに自身の性的指向については“体感的”に自認できている方なのかなと感じましたが、まずは一応月並みですが私が性的指向の自覚について聞かれた際いつも答えている単純な自問自答の方法をお答えしておきます。自身の性的指向がもっとも明白に現れるのは、自慰行為など性的興奮を自身で煽るような(煽る必要性があるような)状態のとき、その興奮材料として想像するイメージや活用する(きっかけとなる)視覚的情報の主役(俗な言い方をするならメインモデル)となっている性別やジェンダーであると私は考えています。ですので“自発的”および“積極的”に夢想する性的妄想に現れる性別によって(少なくともその時点での)性的指向は判断できてしまうし、逆にいうと身体にビルトインされた“機能”である以上はごまかしがきかない自認だとも感じています。なお、私の場合は記憶している限りそういった夢想や妄想に女性が登場することはなかったですし、性的指向ではなく老人性愛という性的倒錯(精神医学における病理的な精神疾患と診断される症状)も重複していたため、性の目覚めと呼べるような時期からずっと自分が本望として夢想する性的観念には熟年男性があふれていました。女性は男性よりも視覚的情報(身体的形状の認識)が性的興奮に及ぼす影響力は少ないとされていることもあり、一概に性的興奮を引き起こすイメージがそのまま性的指向であるとは言い切れないものの、同性愛者にとっての性的指向自認の第一歩はどうしたって“エロ妄想における違和”なんだろうなと私は思っています。ちなみにバイセクシャルの場合はその妄想に登場する性別が気分・体調・その日の出来事・そのときの人間関係などによって流動的に変化し続けるらしく、バイセクシャルであることを自認するには時間や実体験がより多く必要なのではないかという話を当事者から聞いたことがあります。なので、同性のみが性的な対象であるという自認はある部分異性愛者における性的指向自認と近しいのかなと感じています。今回前もって「すでに自認できている方なのかな」と書いたのは、そうした脳の認知機能といった理由から“性欲がある以上自身の性的指向を自認しないことの方が難しい”という私自身の体験と体感があったからだったりします。前置きが長くなってしまいすみません。

さて、本題である「同性愛者であることを引き受ける時に葛藤はありませんでしたか?」についてのお答えですが、私もめちゃめちゃ葛藤した方の人間だと自分では思っています。これは私自身の感覚ではあるものの、多かれ少なかれ同性愛者の方には共感してもらえるであろう表現にもなると思うのですが、私の場合は“引き受ける”というよりかは“観念した”という感覚が一番強いです。今ではもう笑い話として何度かツイートしたりもしてきましたが、私は高校生のときバイトの先輩の女性から性的行為に誘われるという、ある意味同年代の男子たちからは羨ましがられるような状況に陥ったことがあります(私にとっては明確に“陥る”という表現の方がしっくりきます)。しかし私はそのときどうしても自分自身の忌避感のようなものに逆らえず、相手に対する申し訳なさや罪悪感、(相手の胸を触るよう促されるもののその感触を当時大好きだった原田◯雄の玉袋に置き換え必死に自身を奮い立たせようとするといった滑稽極まりない逼迫など)自身がゲイであるという逃げ場のない“知らしめ”的体験に半ばパニックを起こし、しつこいくらい謝罪を繰り返しながらその場から逃げ出して、びーびー泣きながら電車に乗って生きた心地がしないまま家に帰りました。これは自分の記憶の中でも群を抜いて無かったことにしたいような体験であり、カムアウトしてしばらく経ってからようやく人に話せるようになった思い出でもあります。今思うと、私が明確に“観念した”のはあのときだったと思います。今ではもう家族にも友人にも(以前は複数の職場でも)オープンリーゲイとして生活しておりますが、私は生まれて初めて自分のことをはっきりとゲイだと見抜いた男性と出会うまでは、今の自分からは考えられないくらい全力で同性愛者であることをひた隠しにしていたし、あなたのように“社会的”に自身のセクシャリティを認めてしまうのが怖くて仕方ありませんでした。身体的にはもう嫌というほど自覚しているのに、社会的には秘匿し続け取り繕いそれでも大事な友人たちにウソはつきたくないので恋愛や性愛についての話題を躱すことばかり上手くなる一方で、女友達も多く女性からのアプローチも多々あるのに一度もお付き合いすらしたことない童貞男という状態を二十歳過ぎまで必死にやりくりしていました。それでも多分、私はかなり“運がよく環境に恵まれていた”んだと思います。自分の性的指向や嗜好を隠さず、オタクであり腐女子であるゲイとしてこじんまりとした人生をおくれているのも、カムアウトしたタイミングの良さやそのとき身を置いていた芸術界隈の人間関係など、徐々に自分の心構えを変えていける環境があったからだと感謝もしています。ガールズクラブの居心地の良さを手放せないという気持ちも非常によくわかります。私もいわゆる絵に描いたようなホモソーシャル的付き合いではないにしろ、男友達との関係性すらも変わってしまうのではないかと恐れていました。結果、カムアウトしたことでどうなったかというと、中高時代からの“男子”という括りありきで付き合いのあった男友達とは疎遠になり、社会人になってから趣味や人格的相性で仲良くなった男友達とは変わらず友人関係のままです。そういった経緯もあって、私はホモソーシャル的面倒くささや、ホモセクシャルを忌避しながらも奥手のゲイなんかよりもよっぽどホモセクシャル的じゃれ合いをしている男たちの“わけわからなさ”を研究したい(理解してみたい)のかもしれません。

ホモフォビックな思考や警戒心は今の日本社会であれば心や頭から完全に追い出す方が難しいですし、(隠したくて隠しているわけではないにしろ)自覚的には自身のセクシャリティを隠しているという状態が続くと、何か悪いことをしているような気持ちになるのもきっと心の自然な反応(というよりかは適応)のようなものだと思います。実際私も自分ひとりだけで抱えているときは罪悪感が増すばかりでした。“一般的”とされる価値観が同性愛を異物として捉えてしまうことも、あなたの中にホモフォビアが根付いてしまっていることも、あなたのせいや責任ではありません。こんな社会の中で生きていれば、大なり小なり同性愛的感情には自己否定が付きまとうものです。そのことに関しては自分を責めたり無理に改める必要もないと私は思います。良くも悪くも、属する共同体から刷り込まれる通念や差別意識がその人本人の性的指向や生得的な素養を本質的に作り変えることなどできるがわけないと私は常々思っています。身体に組み込まれたものは身体をいじらない限り変わりはしない。私にとってその事実は呪いでもあり救いでもあります。ある意味、私の同性愛も老人性愛も他者の心無い言葉によって歪められることはないということでもあるので。

なるべく自分の体験が参考になればと事細かに長々と書いてきましたが、正味励ましや勇気付けになるような内容にならず恐縮です。ただ、どうあっても自身の中に同性が好きで同性相手に性的なスキンシップを介して愛情表現を交わしたいという願望(私はそれを本望と呼んでいます)があるのだとしたら、あなたにもいつかは“観念する”ときがくるかもしれません。そうして観念する瞬間までに自身の中でどの程度“同性愛者として行動を起こす自分”を具体的にイメージできているか、そしてそういった自分自身の話を打ち明けたときバカにしたり偏見だけでものを言ったりせずまずはこちらの話を遮らずじっくりと聞いてくれる人が近くにいるか、そういった“自分自身を開いていく”覚悟を持てるような人間関係作りや前もったシミュレーションができているかが大事になってくると思います。もちろんどんなに信用している人や仲のいい友人であっても、ことセクシャリティの問題に関しては誰だって打ち明けられた瞬間は戸惑うものだし、同性の友人から同性愛者であることを打ち明けられる側の立場であれば、「もしかして自分も“対象”なのかも」という考えがよぎるのも自然な反応なのかなと思います。とにかく大切なのは、打ち明ける際は打ち明けられる相手の心情も想像して話の流れや順序を考えておくことも必要になってくるかと思います。私自身、友人関係や職場におけるカムアウトにおいて、いささか乱暴だったなと後悔したことも少なくないし、そういう相手には困らせるような打ち明け方をしてしまったことをあとから改めて詫びたりもしましたし…。属している友人関係やコミュニティが性的な話題には一切触れない(意識的に話題にすら挙がらない)関係性であるのならばわざわざカムアウトする必要はないのかもしれないけれど、正直身体を持った生き物である以上、(性欲がなかったり性愛を必要としない人がいることも承知してはいるものの、“世間”と呼ばれるものの大部分を構成しているのは性欲を抱え性愛を必要とし性的な承認欲求を満たそうとする異性愛者たちなので)どんなコミュニティであれ深い仲になれば性的な話題に踏み込む瞬間や、そういった話題が関係値を底上げしたりするのが人間社会だと私は感じています。なので、全面的にオープンとなる必要はなくとも、実生活の中でそういった話題を共有できる相手が居れば精神的には相当“楽”になるとは思います。職場や家族など生活に密接した共同体の中で秘密にしているのであればなおさら、秘匿によるストレスを解放する場所が必要となってきますしね。私は当事者ゆえに客観的な是非について語る資格はもうなくなっているのかもしれません。なぜなら私はすでにカムアウトもしているし、何度も本望を果たしてきて今に至るわけですので…。ただ、私がいえることがあるとしたら、「セクシャリティについての自認やその本望に寄り添うための知恵や胆力は決して性的な事柄や体験だけに付随しているわけではない」ということです。送られてきたメッセージに目を通したとき、末尾にある「もしお答えいただける元気があれば、教えてください」という一文を読み、顔も名前もわからないあなたに対してただ漠然と直感的に好感を覚えました(だからこそ下手なこと言えないなと長々と文章を書いてしまっています)。同時に、こういった気遣いや想像力、他者とのやり取りにおいてその一言を添えられることこそが、あなたの人としての大きな“強み”だと私は思います。現に私はその一言があったからこうして元気がある今、できる限り具体的かつ真剣に答えようと送られてきたマシュマロとにらめっこしながらこの文章を書いています。何事もとにかくまずは他人に優しく柔らかく接するための労力を支払うことができるかどうか以外に自分自身を受け入れてもらう着実な方法ってない気がします。それは性的な関係性の構築においても重要な“技能”となるはずです。身も蓋もない話になりますが、性的欲求だけの発散ということであればゲイやレズビアンの方が“さっぱり”とした慣習や出会いの方法が整っていたりします。今はネット上のゲイコミュニティも需要に合わせて様々な形態で存在しているし、生活をある程度きっぱりとノンケとして生きる自分とレズとして発散する自分に分断してしまうのもひとつのライフスタイルなのかもしれません。まだまだクローゼットのままで生活している人だってたくさんいますしね。ただ、匿名であれこうした問いかけをカムアウト済みのゲイである私に送ってくるということは、実生活の中で打ち明けられる相手を求めている気持ちが少なからずあるんだろうなと私は感じてしまいました(見当違いであればごめんなさい)。自分が通ってきた道だからこそ軽率なことは言えないし、私自身かなり自我も負けん気も強く恥ずかしいところまで自己分析し続ける人間なので参考にはならないかもしれませんが、それでもこうして問われたことには(元気があるときに)自分ができる限りの範囲で答えていきますので、ネット上にある魔除けのようなものだと思って気軽に相談などしてください。あなたが他者とのやり取りに想像力を働かせたり労力を支払える人である限り、きっとあなたの人生は着実に良くなっていると思うし(私がそう願ってもいるし)、私は誠意を持って話せることは話していきたいと思っています。お互い、ほどほどに踏ん張っていきましょう。こういった質問をする相手に私を選んでくださり、ありがとうございました。拙い返答ではございますが、少しでも何かが届けば幸いです。

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