性自認公表と過度なセンセーショナリズム

以前から尊敬してやまない宇多田ヒカルさんが、先日のインスタライブにて自身の性自認がノンバイナリーであることをさらりと公表していた。あの発言はプライドマンスについての話題から流れで出てきたものであり、本人も性自認そのものに関してはそこまでセンセーショナルなイメージを抱いていないのかなぁといった印象を受けた。というより自分の場合は「でしょうね」くらいの既知的な感覚で受け取ったし、優れた表現者である以上社会的性別という括りの心もとなさや曖昧さに関してはより深いレベルで体感を掘り下げているはずといった一方的な信頼もあったので、驚いたというよりは納得したという感覚の方が強かった。

そもそもノンバイナリーという概念はあえての表明や意思表示のときに必要なただの言葉でしかなく、それ以上の意味も効果もないと個人的には感じている。言ってしまえば社会からの洗脳を取り除けば人類皆ノンバイナリーであるとも言えるし、それこそ肉体的差異による区別を用いなければノンバイナリーではないことを明言することの方が難しいはずだ。だから自分としては「素敵なアーティストが誰とでも共有できる観念をあえて明言してくれた」程度のことだと感じていた。

しかし視聴者やメディアの反応は想像以上に過敏なものだった。グーグルやTwitterで宇多田さんの名前を検索してみると、今は率先してノンバイナリー公表の話題が表示されるのである。それはまるで“接し方やイメージの持ち方を変えなければならない!”という困惑のような、もっと乱暴な言い方をすれば“畏怖”のような反応のようにも感じられた。なぜ“世間”というものは毎度毎度こうして家族でも友人でもない相手の“性”に関して過剰に右往左往してしまうのだろうかと昔から疑問に思う。そしてなぜ“彼ら”は自身の性に関してだけは懐疑的にならずにいられるのだろうかと不思議でたまらない。他者の性の揺らぎにああも敏感なくせに自身の性をどうしようもなく無根拠に信じ続けられる彼らの思考態度というのは、ある種の集団ヒステリーが常態化してしまっているのではないのかとすら思えてしまう。それとも自身の性に言い知れない揺らぎを感じ取っているからこそ、あそこまで過敏な反応を示すのだろうか。心底謎である。私にとってはあれらの反応の方がよっぽど異様な光景に映ってしまう。

このような世間の反応に対して「なぜもっと自分自身の性には目を向けないのか?」という疑問を抱きがちな思考態度は、おそらく私がゲイであることと深く関係している。ゲイという性的指向でひと括りにするのも気が引けるが、自身の性的憧憬(これは精神科医の名越康文さんが使用していた言葉で、個人的にとてもしっくりくる言い回しだったので拝借させてもらった)の対象が“主流”から外れてしまう人間というのは、大なり小なり自己批判に近い感情と共に第二次性徴を通過しなければならない。そのため、いわゆる性的マジョリティとされる人たちよりも自分自身についての問答や考察に費やす時間が必然的に多くなってしまう。なので、何の備えもなしに他者の性に対して強い関心を抱ける人たちを見ると、ある種の習性として「怖くないの? 自分に跳ね返ってこないの?」という疑問が生じてしまうのだ。

これは36年間生きてきた私の体感でしかないのだが、正直なところ外への意識である性的指向の方が内への意識である性自認なんかよりもよっぽど明確なラインを引きやすい意識なのだと思う。性的指向というのは前提として身体から発生する性的憧憬の自覚がないと認識し難いものであり、良くも悪くも“相手が生まれ持った肉体”が決定的な判断材料になる場合が多い。それは想像力をもってしても介入できない領域であり、個人的には自身の性的指向に相手の性自認まで組み込んでしまうことは傲慢なような気もする。なぜなら人は他者の欲望や情熱の完全なる当事者にはなり得ないからだ。なので私は自身の性的指向についてははっきりと「熟年男性の肉体に惹かれます」と胸を張って答えられるし、そういった主張が礼儀として必要な場合はその体感的な確信を前もって公表した状態で関係を構築していく場合も多い。

しかしやはり性自認についてはいつだって疑問符が付いた状態でしか口にできないし、なんなら口に出したことで数日悩んでしまうことすらある。それくらい、自身の社会的(文化的)な性別をどちらかに属していると断言することに違和感を覚えるし、必要性も感じられない。本音を言えば、それをはっきりと断言してしまうことには高いリスクが付きまとうという感覚すらあったりする。逆に肉体に依存する事柄に限るのであれば男であると即答できるし、男でしかありえないやりきれなさのような感覚もある。どんなに魂の層を増やしてもこの肉体からは出られないし、この体を動かして生きていくしかないことに時々嫌気がさすときもある。それほど私は肉体的には男であり、肉体的仕様が変えられないうちは男以外には成り得ないという強い自覚、あえてネガティブな表現をするなら拘束感がある。自分の体を嫌ったり憎んだりしたことはないけれど、備わった機能を停止したりアップデートしたりできない仕様は窮屈だなと思うことは多い。それでも、それでも!である。思考態度や芸術的センスの領域に社会という他者の集合体から発生した思念や劣等感が無礼に侵入してくるということがどうしても受け入れられない。耐え難いのである。だからこれからも性自認に関してはずっと断言はしたくないし、それこそノンバイナリーという受け皿があるのであればそこに滞在していたいと思う。というか現段階では、ジェンダーなんて社会というシステムに寄り添っている瞬間にしか発現しないのだから、せめてパーソナルスペースでチルってるときくらいはノンバイナリーでいた方が健康的じゃんという結論に至ってもいる。

それ故に影響力の強い文化人たちが揺れ動く自身の性自認についてあえて公言してくれるムーブは、とてもありがたく意義のあることだと感じている。そういった人たちの健康的な態度が、小市民たちに肩の力を抜く時間を作る余裕をもたらしてくれたりするのだから。

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