「売れたい」と願う身体機能とおじさんブームという名の幻影

私事ながら、去年の末よりとある漫才師のコンビにダダハマりしている。ハマっているというよりも、堕ちたといった方が適切な状態かもしれない。そのコンビ間にたゆたう情念の複雑怪奇さに魅了され過ぎて、よこしまな考察や妄想を吐き出すためのクローズドアカウントをこしらえる始末である。

そんな状況なので、最近は以前にも増して様々な“芸人”たちのYouTubeチャンネルを頻繁に視聴している。特にコンビ間での何気ない雑談動画(いわゆるラジオ動画)が好きで、その手の動画をひたすら作業用に流しながら日々仕事をやっつけている。

そうして芸人という生業や生き様を見つめていると、彼らの世界に根付いた弱点とも取れる特徴に触れることが少なくない。漫才を含め“お笑い”という芸は観客との共通認識を活用したビジネスであるため、業界にはただでさえ刷新の遅い日本国内の大衆的価値観よりもさらに2歩3歩出遅れた時代錯誤な価値観や通念が残りやすく、いまだに業種そのものがどっぷりと前時代的なホモソーシャルに浸かっていることは素人目に見ても否めない。容姿や人種に関する偏見的表現や男性を接待するような性表現(下ネタ)がいまだに払拭されておらず、“傷つけないお笑い”や女性芸人が容姿で笑いを誘うことの是非が社会に問われる形で度々話題に上がるほど凝り固まった分野であることは、お笑いに明るくない人間にもひしひしと伝わってくる。若く青い駆け出し芸人の中には、異性をプライズ扱いする男尊女卑マインドやある程度の差別的発言が許容される旧時代的環境に居心地の良さを感じてしまっている男性も少なからず見受けられる。

かと思えば彼らはふとした瞬間に、勤め人などの堅実な道を選び地道に財を成し安定を獲得した同性たちに対する憧憬や敵意に見せかけた畏怖を無防備に露呈させたりもする。自分自身の価値を信じていないと壊れてしまうような業界の中で、彼らはあっちこっちに慢心を振りまきながらも度々足をすくめる。その様は“脆弱性としての男性性”に強い執着を持っている性格の悪い私のような人間にとっては非常に興味深い姿に見えてしまう。

そんなホモソーシャルの権化とも呼べる彼らは事あるごとに「売れる」「売れた」「売れたい」といった言葉を口にする。人気が物を言う商売である以上、願望や嫉妬の代替となるそれらの発言はとても実直かつ他に言いようのない言葉だということは理解できる。ただ、私はその言葉を聞くたびにまったく別のある意味彼らとは真逆のコミュニティの中でその言い回しが使用されている事実を思い出し、複雑な感情を覚えてしまうのである。自信満々のようでいて実のところ非常に心もとなく生きている彼らが常日頃から抱いている“自身の価値を決めるのは他者であり、自身はその他者の承認によってようやく赦される”という息苦しい認識を、私はよく知っている。それはもう身に覚えしかないというくらい深々と。

大成を夢みる芸人たちが口にする「売れる」という言い回しは、奇しくも男性同性愛者たちが“性的需要の高いこと”を言及する際にも使われている。

“売れるゲイ”を目指して体を鍛えたり、モテるゲイに対し半ばねたみを込めて「あの人は売れ筋だから」と揶揄したり、より男体を客体化した例だと「今の売れ筋は○○(体型など身体的特徴)」といった感じに男性の性的な特徴を移り変わる流行のように語るときもある。その中でも特に芸人の使う「売れる」に通じるような印象を受けるのが、ハッテン場における“成果”を語る際に用いられる「売れる」である。ハッテン場とは何かということについてはネットで調べればすぐにわかることなのでここでは説明を省くが、とにかく“ハッテン場においてあくまで受動的に誰かのお眼鏡にかない性行為を獲得すること”を、ゲイの人たちはあまりにも当然のように「売れる」と表現する。これは“売り専”に由来する文化なのかもしれないが、詳しい系譜はわからない。ただ、目的や手段はまるで別物でありながらも“他者の評価や承認を通して自身に価値を見い出す”ことを前提として使われるその「売れたい」という言葉が、自分の中でどうしても芸人たちが使う「売れたい」と重なるときがあるのである。

そうして男たちが発露する「売れたい」という願望の重なりをぼんやりと感じつつ、連日“推し”の漫才師コンビにまつわるよこしまな妄言を鍵アカでせっせと吐き出していた。するとつい先日、ツイッターのトレンドからもはや第何次なのかもわからない“おじさんブーム”の再来を知った。

私のような重度のおじさんフリークが苦言を呈するのもおかしな話ではあるが、毎回まことしやかに“流行っている”とマスメディアから通達されるこのおじさんブームというものに、日常生活レベルで実感できるほどの“実態”が宿っていた試しはない。なぜか定期的に“若い女性たちの間で”という体で話題に上がり、音もなく消えていくのがお約束となりつつある。幻影とも呼べるこのブームは毎度誰かしら“その時期実際に認知度を高め人気を獲得した中高年男性”が生贄に捧げられることで発生する。しかも、そうして“中高年男性そのものに価値が見い出されたという体裁”を捏造したい一部の厄介で空虚なおじさんたちの暗躍によって、日々を地道に過ごしささやかな生きがいを自分自身の手で見い出している何者でもないおじさんたちまで巻き込まれては不必要な気遣いや緊張、時には傷つきを強いられるのだから困ったものである。

また、昨今のSNSではトレンドに上がったおじさんブームに対して“勘違いするおじさんが増えることを懸念し警戒を強める普段厄介おじさんたちのケアを強いられているであろう女性たち”や“謙虚なふりをしながらも自身のような出来の良いエリートこそがブームにふさわしいという慢心を隠しきれずにマウント合戦を繰り広げるおじさんたち”の意見があふれ、それこそ“ただ巻き込まれただけ”のおじさんたちが見たくないものを見るという物悲しさまで引き起こされている。

私も従来であれば「またか…」とやるせない気持ちを抱きつつもスルーしていたところだが、今回は事情が大きく違っていた。なぜなら今回のおじさんブームに捧げられた供物が、今自分がもっとも強い執着を向けている芸人コンビのふたりだったからだ。

私はその芸人コンビが見せてくれるホモソーシャルの呪縛に対する健康的な距離感や社会からの視線を意に介さないどこか風穴が空いているような佇まいに惚れ込み、目が離せなくなっていた。それなのにそんなふたりがホモソーシャルの呪いでしかないおじさんブームの火付け役として取り沙汰されている姿を見せられるというのは本当にやるせないものがあった。漫才のネタを真摯に磨き続けるという漫才師として普遍的な努力を選んだ人たちに対して、おじさんブームという言葉を充てがう失礼さというか、彼らのキャラクターに対する敬意のなさを感じ、ただただ悲しかった。若い女性たちの間で人気が急上昇しているという事実は、彼らの振る舞いとにじみ出る人となりによるものであり、その威をなんの代償もなく借りようというのはあまりにも欲が深いとも思った。彼ら自身がどう思ったかは正直わからないけれど、いちにわかファンにとってこの出来事はなんとも嫌な気持ちにさせられるものだった。

そんな怒りにも近い気持ちで悶々としているうちに「おじさんブームも結局自分だけでは自身に価値を見い出せない男たちによる“売れたい”願望なのではないか」という思いに至った。そして、幻影でしかないおじさんブームの実情や「売れたい」という言葉が使われるコミュニティの性質を鑑みているうちに「他者(特に性的対象)からの承認ありきでしか自尊心や自己肯定感が成り立たないという認知は、雌が雄を“選別”することで有性生殖を行う生物の雄に備わった生殖本能を高めるための身体機能なのではないか」という考えに行き着いてふと腑に落ちた。

芸人が漏らす「売れたい」とゲイの性的需要に関する「売れたい」を同列で語り全てを性的な承認欲求に結びつけるのは邪推が過ぎるとは思う。そもそも社会的な承認欲求と生物的な承認欲求を別口に扱うこと自体お門違いなのかもしれないし、この発想には提示できる科学的根拠はほぼない(あるにはあるかもしれないが参考文献などは探していない)。しかし、生物的な役割を煽るために課せられた身体機能が文明の発展によって少しずつ社会的な願望や欲求に成り代わったのだとしたら「売れたい」という商売の体をなした言葉に置き換えられることにも納得がいく。爆発的な人気を得た特別なおじさんに便乗しておじさんブームの幻影が繰り返し捏造される現象からはもっとはっきりとした性的な呪縛も感じられる。社会的にはある程度余裕を持てる立場や経験値を得ているはずの中高年男性たちですら「売れたい」という願望を理性で抑えきれないのだとしたら、それは社会性の向上だけでは男性が抱く承認欲求は満たしきれないという実情の露呈なのではないだろうか。「売れたい」と願う身体機能との付き合い方を見直さない限り、他者、特に性的対象である他者の承認なしでは生きられないという呪縛はいつまでも断ち切れないのかもしれない。それは男の体を持って生まれた者にとって由々しき事態だと思う。こうして身体に閉じ込められているという恐怖と諦めを覚えることは多く、せめてそういった原始的な機能を任意で切ることができたならと、男体に備わったあらゆる不手際な仕様にため息をついてしまう。自身がおじさんと呼ばれる年齢になった今、われわれおじさんはおじさんブームの幻影に囚われず、おじさんたちだけで完結するライフスタイルを真剣に練らなければならないとあらためて強く感じるのだった。


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?