水着ガチャとオジサンキャラの逆説的な性的消費

早いもので2021年も折り返しとなり7月に入った。そして今年もまた、あらゆるソーシャルゲームが腕によりをかけた水着仕様の美少女キャラや美男子キャラたちのガチャを実装し、様々なキャンペーンを打ち出しては新規プレイヤーの獲得を目論む、そんな日本のオタク文化に根付いた性的消費意識がこれでもかというほど利用されるイベントシーズンが到来した。しかし、大手を振って2次元キャラクターの性的消費に勤しめる季節であるにも関わらず、私は毎年この水着ガチャというものが実装されるたびに、どこかしょんぼりとした気持ちになってしまうのだ。

日本で生産されるフィクション作品には、もはやすべてを避けて通ることは不可能なくらい“廉価版ポルノ表現”が組み込まれている。水着描写を餌に数を稼ごうとする手法も廉価版ポルノ表現のひとつであるということは言うまでもない。こういった日本のオタク文化に根付いた女性蔑視(というよりも女性敵視や女性畏怖視)の意識や女体へのマウンティングなどについては、ネトウヨ文化も含め私なんかよりもずっと専門的な知識を有した方々が国内外問わず研究や分析の結果をネット上に公開してくれているのでそちらを参考にしてほしい。ここではネットの片隅でひっそりとオジサンポルノを生産し続けるひとりの老け専ゲイが長年ためこんできた個人的なぼやきを聞いていただけたらと思う。

国内のアニメやゲームに登場するオジサンキャラの描写の中で私がとりわけ残念だと思う表現のひとつに、壮年期に差し掛かった男性キャラの“色気”がネタ枠や嫌悪の対象として消費されてしまうというものがある。意識的であれ無意識的であれオジサンが発露する(本人の性欲ではなく客観的特徴としての)性的な要素が周囲からギャグとして扱われたり自他ともに認める嘲笑の対象とされたりする描写は、容姿に対する“いじり”が段々と減ってきた現代においてもなお続いている。男であれば全員が通る道に立つ先人の性的需要をあえておとしめるといったそれらの表現手法を見ていると、女体のプライズ化に反比例するようにだだ下がりしていく男性にとっての(自身も含めた)男体の価値について様々な懸念を抱かずにはいられない。すでにオジサンと呼ばれる年齢の男たちがあえて男体の性的魅力を嘲笑するような表現を繰り返し、それを見た若い男の子たちも自身の肉体に一定の否定感を育んでしまうという負の連鎖的構造があるように思えるし、それらが半ば慣例や通念という思考停止の上に成り立っているとしたらそれほど有害なものもないなと思ってしまう。水着ガチャの存在はそういった日本の男オタクたちが内包する自罰的とも言える感性を色濃く発露しており、毎年ソシャゲの夏のイベントにはどこか切ない気持ちを抱いてしまう。

おそらくあれらの表現は旧時代の野蛮な男らしさの否定という側面を担っていたりもするのだろう。実際、ルッキズムに敏感な某D社の作品の中にも、熟年男性がライバル関係にある同性を不快にさせる意図で「目の保養だ!」と自身の下半身を晒すシーンがあったりする。あれだけ人の見た目に対する尊厳のケアに注意深い制作スタジオですら、オジサンの肉体であれば嘲笑や嫌悪として表現してもいいというバイアスを消しきれていないのだから、世のオジサンたちは一体どれだけ創作物に肉体を傷付けられているのだろうと胸が締め付けられる瞬間も多々ある。これは女体のプライズ化とは真逆にある冒涜であり、世間への反論がしにくい分問題の根幹にたどり着きにくい複雑さを感じてしまう。

また、一般的な芸術美とされている筋肉やスタイルの良さといった特徴以外を用いて男性の肉体を好意的に描くという行為自体が、必要以上にホモセクシャルな感性に連想されてしまうことも問題の背景にはあるのだと思う。そしてこの“ホモセクシュアルな感性を持っていると疑われること”を過剰に避けようとする思考態度は、未だ解体し切れていない日本の時代遅れなホモソーシャルの抑圧から発生したある種の取り越し苦労である場合がほとんどだと私は感じている。

男性間のホモソーシャルは往々にしてミソジニーおよびホモフォビアが伴う。基本的に生物は淘汰される可能性の高い(という自覚がある)個体ほど群れて身を守る必要性が生じるため、拙い者同士が結束すること自体はまったく不自然な挙動ではない。ただ、同性間で緊密な関係を築くからには大なり小なりホモセクシャル的な感情が見え隠れする可能性を切り離せないのが人間である。なぜなら人間の性的指向は切れ目のないグラデーションの中に存在しているため、同性への性的憧憬を肯定するよりも、絶対的なヘテロセクシャルであるという揺るぎない自覚を持つことの方が困難だったりするからだ。だからこそ、濃密なホモソーシャルに属する者には形式的なホモフォビックアピールが課せられてしまう。「俺たちめっちゃ仲良いけど、当然、一切、これっぽちも、絶対絶対にホモではないでーす!」と宣言し続けないと、ホモソーシャル内での瞬間的な性的衝動やスキンシップによる安堵を享受できない状態が継続してしまうというのも結構な異常事態だなと思う。そしてただでさえ脆弱個体である彼らは“裏切り者”や“告発者”を発生させないために、より強固なシステムや風潮といった外的な要因によって自身らを統制しようとする。その結果、周囲が意識するよりもずっと過剰に“非ホモ宣言”をしなければならなくなり、結果的に“ホモフォビックな感性のアピール=模範的男性として見てもらえる安堵”といった体感が根付いてしまうのかもしれない。

そういった長年のホモソーシャル活動で培われた過剰自衛としてのホモフォビックな感性を、オタク文化やオタク構文に落とし込んだ結果が“壮年男性の性的特徴を描写する際は茶化す及び嘲笑、場合によっては嫌悪感を明示しなければならない”という強迫観念に近い感性なのではないかと個人的には勘ぐっている。国民的お茶の間アニメの中ですら、筋骨隆々のオジサンキャラが暑苦しくうっとおしい属性を持って描かれ、彼らの筋肉がギャグシーンのトリガーとして利用されることも珍しくない。そういった男体が持つ性的魅力が不自然なほど逆説的に消費されてしまうシーンというのは、どうあっても壮年男性の色気をポジティブな要素として受け入れられてしまう老け専ゲイにとっては見ていて居たたまれないものがある。そういった描写は制作サイドからの「ホモセクシャルな要素のように見えますが私は違います」といった複雑怪奇な主張をはらんでおり、なおかつそれらの描写をネタとして消化するためには実際に一定以上のホモセクシャル描写が必要となってしまうため、「ホモではありません!」と絶叫しながらホモが好む男体の特徴を熱心に描写している男たちの姿が脳裏にちらついてしまうのだ。

意地悪な言い方になってしまうかもしれないが、本来男が男に対して性的な“欲求”を介さないまま性的な“魅力”を知性や知識を通して見い出すなんてことはいくらでも起き得る現象だろうし、逆にそれらを極端に恥じ入り伏せようとすることの方がよっぽどホモセクシャル的な挙動だと思えてならないのだけれど、なぜ世の自称ヘテロセクシャル男性たちはあそこまで自分自身を“警戒”しているんだろうか。それってまるで、常にホモセクシャルな自身を想像できているかのような怯えにも思えてならない。ホモソーシャル特有の「あの先輩になら抱かれてもいい」といったおちょけた意思表示も「その発言をあえてする必要性ってなに?」と思ってしまうし、やはりゲイにとって自称ノンケ男性というのは謎多き生き物である。

そういった気不味さも含めて、オジサンキャラが逆説的な性的消費を受けている現状の風潮に対しては、これからも神妙な面持ちを示し続けていきたいと思う。

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