アルコールとオジサンたちの砦

時世柄、公私ともに酒が入った状態で音声通話をする機会が増えた。

直に対面した状態での紹介がしにくい分、友人の友人や知人の知人といったまだ面識のない相手とアルコールを交えて話をする(しなくてはならない)場面もそこそこあり、極稀に初対面の相手が大なり小なり酒による失態や失言をやらかす気不味い状況に立ち会うこともある。そしてそういった失態は形式上立場のある中年以上の男たちが赦しを乞うような形で発揮する場合も多く、年配者への気遣いとある意味残酷な無関心により周りが渋々“接待”することも少なくない。これは私事に限らずYouTuberなどのオンライン飲み会配信などを視聴していてもたびたび出くわす状況でもあるのだが、角を立てないためとはいえ「酔っぱらいオジサンだから叱らないで、傷付けないで」という彼らの甘えや怯えを見て見ぬ振りしなくてはならない状況というのは非常に気不味く、一体ああいった赦しを乞う習慣というのはどういった生活や環境が構築するのだろうと考えさせられてしまう。

最近はようやく“酒の席という体裁に乗じて自身のよりパーソナルな部分を相手に知らしめようとする人間”のことを“狡猾な人間”ではなく“脆弱な人間”だと腑に落とすに至ったため、そういった繊細で打たれ弱い人間が提唱する“酒の席での出来事を素面のときに持ち出すのは野暮”という意味不明で無理のある暴論を断固として拒否し、相手が素面のときに「なぜ酒が入ったときにだけしか人に甘えられないのか」というわりと重大な精神的問題について面と向かって問うということができるようになってきた。

そうして若い頃であれば憎さと嫌悪の対象でしかなかった“ズルい人”たちのことを“助けが必要な人たち”だと認識することができるようになったことで、“依存する対象を排除した状態での対話”の必要性というか、悪い意味での緩衝材を取っ払ったやり取りの重要性をより強く感じるようになってきた。私自身、きちんとカムアウトできるまでは様々な自己矛盾を外的要因の所為にして自分を過度に許そうと努める思考態度にあったこともあり、“酒に頼る”ことで素面のときの自分の心を守る人たちと向き合い、ようやく自身の弱さや傷つくことへの恐れを相手が口にしたときは正直耳が痛かったりもするのだが、それでもそういった対話は健康的な人間関係においては必要な“儀式”なのだとここ数年は特に強く思うようになった。

昨今、家父長制や男尊女卑の通念におんぶに抱っこで生きてきたオジサンたちの鎧があっけなく剥がれるような出来事が日常的に散見されるようになってきており、自身の“特典”に後ろ暗いナニカがあることを薄々勘付いていた彼らの異常な抵抗や悪あがきがいたるところで発生している。結局のところ、そういった世の“取り残されたオジサンたち”が抱える問題というのは、自身を過度に甘やかしてくれる依存先を失う恐怖に打ち勝つことができないという弱さに集約していて、飲みニケーションなどという悪習を用いて自身の接待を周囲に強いるようなオジサンは特にこの“脆弱な自身との対話”から全力で逃げようとする傾向にあるなと日々感じている。

だからこそ、そういった脆弱さをただ指差して弱虫だの惨めだの糾弾するだけでは彼らを悪い方向に追い詰めるだけで何の解決にもならないのかなと最近は思うようになってきた。確かに当人がまいた種であることは確実だし、世の中そんな脆弱さを鼻で笑ってしまうような苦労人もたくさんいる。だからといって“麻薬”的な拠り所なしでは自身の内面を晒せない彼らの弱さをただ嗤うというのも気が引けるし、そういう弱さを延々と切り捨て見捨て続けてしまうというのはあまりにも人情に欠けているようにも思える。おそらく脆弱な人間が発揮する悪手や逃避を改善するためには、相手が“観念”して“白状”するまで根気強く寄り添い耐え忍ぶ以外ないのかもしれないと思ったりもする。実際問題、待っていられるわけねえだろとなることの方が多いとしても、“相手が自身の脆弱さを直視する状況”を作り続け、甘えや接待の強要という事実ときちんと向き合ってもらう以外に“本質的成長”があるとは思えない。しかもそれは早ければ(若いうちであれば)早いだけ、膿が少なくて済むんだろうなとも思う。とにかく、「あいつらはどうしようもないから早く死んでほしい」以外の処遇がなくなるのだとしたら、それはあまりにも残念無念でならない。

連日の政治ニュースを見ているだけでも嫌というほど思い知らされるこの“接待に慣れたオジサンたちに対するお手上げ状態”。なぜ彼らは“黙り”、そして“逃避”するのか。その原因や改善策についてより具体的かつ現実的に考えていかないと、もっともっと悲惨な世の中が待っているような気がして空恐ろしくなってしまう。彼らを“見限る”のでも“見過ごす”のでもなく、しかと“見つめる”こと以外に手立てがないというのもしんどいところだが、当人たちに内省する勇気がないのだとしたら、少なくとも身の回りのバグくらいは自分が介入して解消するという努力を重ねていきたいと、ため息交じりに腹を据えたりしている今日この頃である。

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