先人たちの醜態アーカイブスと細切れにした主体性の引き出し

反応がだいぶ遅くなってしまいましたが、いただいたマシュマロの内容が大変興味深かったので、今回はこちらでご返答することにしました。

こちらがいただいたマシュマロ。反応遅くなりすみません!

こんにちは。結局バービーまだ見れていなくてあの作品がどういった形で男性の生きづらさや抑圧を描いているのかわからない状態でお答えするので恐縮なのですが、文中の“受容器”という表現がとてもしっくりきたので、紛れもなく男性である私自身の受容器を踏まえた上で今回は長くなりそうなのでnoteにひとつ投稿を設けることにしました。

これは今生ではもう自身に宿すことができない感覚なので想像でしかないのですが、私自身性的指向におけるマイノリティ当事者であり、なおかつ老人性愛という性的倒錯を持ち合わせた男体でなければ、自分が生きてきた時代の中で男の生きづらさやジェンダー的抑圧が“構造によって秘匿されもみ消されている”という感覚を得ることはかなり難しかったんじゃないかなと思います。それくらい、構造や仕組みの渦中で生きている男性が(男体を生まれ持った個体が)辛さや痛みといった“自身の中に発生した(社会的な通念やルールを原因とした)ネガティブな観念を言語化および具象化する技能”を養うことって難しいことだと個人的には感じています。

私の場合はその構造に身を委ねるということが“やりたくなかった”というよりかは“できなかったので結果的にやらずに済んだ”というのが正直な体感なので、結局私も“世間一般”とされる素養の揃った男体として生まれていればSNS上で自称弱者男性を謳うモンスターになっていたかもしれないと身が縮こまることは多々あります。こちらのマシュマロを送ってくださった方の年齢を仮に私のプラスマイナス10歳前後の範疇だと想定して話をしますが、私たちが子供の頃って父親が外で仕事をして母親が家の中で子育てをするという社会的通念がまだまだ色濃く残っていた世代だと思います(というか今でも余裕で残り続けているモノだとも思いますが…)。そういった“男が家庭外で金を稼ぐ”という形状の共同体の場合、多くの男の子たちは一番身近な同性のお手本である父親の“実態”に触れる機会そのものがとても少ない生活の中で生きることになります。個人対個人として最も近しい大人の同性との触れ合いの時間が少ないまま日々を過ごすことになってしまう。この“自身の延長線上にいるはずの父親というひとりの壮年男性の生態をつぶさに観察できる頻度の少なさ”に男子が自身のジェンダー的抑圧や痛みを具体的に推し量る技能を培えない理由の大きなひとつがあるのではないかと私は強く感じています。

子供は成長の過程で自身の生活の外側にもより大きな世界があるということを漠然と知覚していきますよね。その感覚の成長に必要なのは本やテレビ、現代だとインターネット(YouTube等)といったまだ見ぬ外の世界から家庭内に送られる断片的で専門的な情報と、結局は“家の外で何かをしているらしい身近な大人たち”の言動や習慣から得る情報に依るところが大きいと思います。そうして子供は日常に滞在している大人たちの実態に触れることで社会に対する“傾向と対策”を積み重ねていくものだと思うのですが、その主たる情報源であるはずの父親の実態に触れた記憶って大人になった今考えると本当に“少ない”んですよね。これは私個人の体感でしかないので同世代の男の子たちが同様だとは限らないのですが、職場での(家庭外に存在する個人としての)父親の立ち振る舞い(身体的挙動や反射)をほとんど知らないまま大人になってしまった男性って結構な数いるんじゃないかなと思うし、そういう構造(状態)の家庭が多いから男の子たちが“父親という属性や通念をまとっている状態の壮年男性”の言動ばかり取り込み、結果もっとも手本となる父親像から痛みや惨めさが排除されてしまったんだろうなと自身が壮年男性となった今はひしひしと痛感しています。

創作物に出てくる男性のジェンダー的抑圧としての描写のひとつに、今ではもうだいぶオールドタイプとなってしまった“男の子は泣いちゃダメ”という表現がありますが、こうした弱さや辛さをアウトプットする儀式的行為に対して男性が身体的なレベルで得体のしれない忌避感や強烈な羞恥心を抱いてしまうのって、おそらくは自身が育ってきた環境の中にそういった“実例”が目の前で起こった体験自体が極端に少ないからだと思うんですよね。人間は自身の幼少体験に組み込まれていないものを警戒するようにできているため、“大人の男が辛さや痛みから声を漏らし涙を流して泣いている”という状態を実際に目にした経験が少なければ少ないほどそれは“異物”となり、体感的には“何か良からぬモノ”となってしまうのかもしれない。だからこそ自分自身が声を出して泣くという身体的(生理的)な反応で感情を外に出すしかないようなダメージを受けたときも、“他人(とくに自身のパーソナルスペースに内在する大人たち)が実際に行っているところを見たことない”という極端な“体験不足”がそのもっとも合理的かつ他の手段では代替できない感情の整理方法を反射的に避けてしまうんじゃないかなというのが、私自身が大人になってから人前で泣かざるを得ない瞬間にぐっと体を引き戻されるような“ためらい”を抱いてしまう理由を繰り返し自問自答してみてもっとも腑に落ちた要因です。

これは私の信仰のようなものでもあるのですが、人間の“成熟”とは視点が増えるというよりも痛みが増えることだと思うんですよね。様々な現象を体験してその当事者性を実感する際、その立場に立った人にしかわからない心地の悪さ、気まずさ、孤立、寄る辺のなさ、そしてそこから湧き上がる嘆きが自身の中でいっぱいいっぱいになったとき、他者を思い労るための引き出しがようやくひとつ増えるんだろうなと。だから“有害な男性性”について男性自身が気づくことって“自傷行為”の様相を呈すると思うし、そうでなくてはならないのかなとも思っています。そういう意味では先代のオジサンたちが次世代に痛みや弱みを開示できなかったのは、自身の傷に塩を塗る勇気が足りなかったとも言えるのかもしれない。存続年数の長いホモソーシャルにおいて未だ“痛みや悲しみの相互的ケア”が一向に促進されないことに対し、“男性の身体的(性的)な惨めさや未熟な欲求の隠蔽”ばかりが顕在化し暴かれつつある昨今の流れを見ていても、やはりそこには“心身含めた健康的なケアの手法や身体的儀式をしかと体現してくれた親・師・先輩たちがいない(健康的な模範解答を見たことがない)”という致命的な“不在”を感じてしまいます。現代を生きる男性たちの“受容器”には、そもそも“実例を見たことがない(体験が乏しい)”という意味で“痛みの癒やし方や惨めさに寄り添う手法”のプラットフォームが用意されていないんだろうなと悲しくなる場面は同性から見ても多いように感じます。というよりも私自身、自分の受容器の精度をあまり信頼できていないですし…。

私たち男が弱さや惨めさと寄り添う本質的な強さを培うためには、情けなく自身の脆弱性や惨めさに泣きわめき自身の身体に仕様として据え付けられた性欲という不気味な承認欲求にはしたなくもんどり打つ先人たちの姿を直視する機会がどうしても必要なのだと個人的には思っています。大人には子供に対して安心と安全を確保する責任がありますが、おそらくはそれ“だけ”では不健全になりかねなくて、子供に直接危害を加える形を避けながらも自身に起きた事柄に対して見せるべき時と状況を選びつつ“エラーを吐いている姿”も見せていかなきゃならないんだと最近は事あるごとに思います。オジサンもめっちゃ失敗するし食が細くなるくらいくじけるしうずくまってむせび泣くときもあるということをもっと自然に見せていけるようになれば、次世代の賢い子供たちはその姿を観察することで自分なりの傾向と対策を考え、受容器を強化していくんじゃないかなと思ったりします。人の親になったことのない自分がこういうことを言うのも眉唾ではありますが…。「男の子だって泣いてもいいんだよ」と口でいうのは簡単ですが、それにプラスアルファで実際に泣いているオジサンたちの姿をさらすことでより“弱さや辛さ、惨めさを吐露することもときには必要であり重要である”ということを“体現”していくことが“男の子は泣いちゃダメ”の呪縛を解く手っ取り早い方法のような気がします。私自身、甥と姪の前であっても映画やゲームで悲しかったり胸を締め付けられたときは顔を伏せることなく大泣きしてしまうし、そうすると甥も姪もひっついてきて「どうしたの?」と聞いてくれるんですよね。そこで叔父に起きた内情をわかりやすい言葉を選んで泣きながら説明すると、たとえその意味を頭ですべて理解できていなくてもしばらく寄り添ってくれる。“大人も泣くときは泣くし、そんなとき子供の自分でも一緒に過ごすことに癒やしの効果はあるしちゃんと意味はある”という“体感”て、きっとそういう実体験における感応や同調でしか身に着けていけないと思うんですよね。だから私はこれまでもこれからもふたりのそばで“学校の先生や友達の親といるときにはあまり発生しないこと”を状況を鑑みながらできるだけ隠さず起こしていこうと思っているし、大人の男の人の中にもこんなにも感性がしっちゃかめっちゃかなオジサンもいるんだという驚きを度々提供していきたいと思っていたりします。単純にかわいくて仕方ない彼らの記憶に少しでも自分を残したいというおぞましい欲求でもありますが…。

あと、これはもっと漠然とした感覚なのですが、男の人って“自身の問題や感情を既存の概念で説明しようとしがち”じゃないですか? まるで自分が男の人じゃないみたいな入り口になってしまいましたが、男性性が持つ特性の大きなひとつに競争とか闘争がある以上、現存する“ルール”の中に収まった思考に支配されてしまうのはありがちな話だとは思うんですけど、自分の置かれた状況、自覚している問題、抱えている痛みや惨めさといったものを形容詞を駆使してもっと固有の症状をゼロから言語化することはできないのだろうかともどかしくなる場面があまりにも多いんですよね。自分のことなのに他人の病状で置き換えてるみたいな、「さっきから同じみたいに話してるけど問題の根幹は全然別物じゃない!?」みたいなことがしょっちゅうあって。これも結局は自分の中に細かい引き出しを増やせてないから粗雑な作りのバカデカい引き出しを引っ張り出すしかないんだろうなと思えてなりません。自分の中に具体的な“事例”がないから、その事例から学んだ細やかな体感を細切れにして自分なりに再構築するみたいな技能がお粗末になってしまっているんだとは思うんですけど。自身の痛みを言語化するのって物事を整理するロジカルな思考だけじゃなくて、体が感じていることをそのまま外に出すための“言葉選びのセンス”もかなり必要になってくるので、“既存の概念を充てがう癖”は自身の言葉のセンスを信じて開示する勇気を阻んでしまっているように感じます。でもやっぱりこれも問題のルーツとしては“実例をストックできてないことにより自分の言葉で語ることを躊躇している”という実体験不足と繋がっているのかもしれません。

拙い乱文で心もとないですが、以上が私自身が実体験と自身の身体的感性を元に考えた“男性自身が男性ゆえの生きづらさや抑圧を知覚できない(しにくい)理由”とその問題に対して自分なりに心がけていることの一例になります。この受容器の精度って獲得してきた痛みと失敗の数と実例の深さが物を言うような気もしていて、オジサンたちの背中から学ぶことができなかった場合、自身に傷を作りまくらないと得られない情報や知見ばかりだと思うし、だからこそ今の子供たちにはひどい目に合わない形で体得していってほしいなと心から思います。大人になってしまった男の子たちのことは正直もう知らんし、ゲイがひとり頑張ったところでできることは限られるので、個人的に力になりたいと思った相手以外は見て見ぬ振りするしかないような気もしています。私にそこまでのキャパシティは無い…!それでも、世の男性たちの呪縛と内にも外にも向いている攻撃性が和らぐことを願ってやみません。教えてもらってないんだからできないのは仕方ないけど、いい加減必要だってことはわかったでしょう? ほら、めげずに頑張んな!といった感情が正直なところかもしれない。そして私自身、あたかも自分はできているみたいな顔してないで、これからも頭が割れるくらい想像力を膨らまして、男であることでため込んでしまった毒素を体から抜いていければと思います。日々、精進いたしますので、道を踏み外したときはうなじをトンッとやって強制的に動きを止めるといった対処をしていただければ幸いです…。

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