正解至上主義という「害悪」を再び主張する
2016年に僕は、「正解至上主義という『害悪』」という題で問題集を発行し、その中に「正解至上主義」という記事を載せました。
ただ、僕の思いとは裏腹に競技クイズ界隈において、「正解至上主義という『害悪』」が加速していっています。
それとともに自身の考え方にも変化が見られましたので、2016年時点の主張は一旦リセットした上で、再度「正解至上主義という『害悪』」を取り上げていこうと思い、再度主張させていただきます。
1.正解至上主義とは
「正解至上主義」というのは、早押しクイズにおいて「解答権を取った解答者をできるだけ正解させるように、出題者が必要以上の努力をする。」主義のことです。
また、解答者側から見た時には「解答権を取った解答者をできるだけ正解させるように、出題者に対し必要以上の忖度を要求する」主義になります。
それは、競技クイズにかかわる人が持ち合わせている、「解答者に正解することを願う」感情が根底にあると考えています。
2.正解至上主義を知る上での前提
「正解至上主義」を説明する前に、まず、早押しクイズとはどういう競技であるのか、そして、出題者と解答者がどのような課題を果たすのかについて書いていきます。
(1)競技クイズにおける早押しクイズの手続き
競技クイズとしての早押しクイズは、以下の5つの手続きを踏んで、どの解答者が正解のメリット(もしくは不正解のデメリット)を得るかを確定します。
①出題者が読む問題の結末を解答者が予測する。
②解答者は予測の結果、「正解できる」と判断した時点で意思表示を行
う。(意思表示の手段が通常「ボタンを押す」ことになる。)
③出題者は一番早く意思表示をした人に解答権を与える。
(もしくは早い物順で解答権を回していく。)
④解答者は一定のシンキングタイムの間に解答を発する。
⑤出題者は解答者が発した解答に対して、問題文全体を正しく解釈した
場合に導き出される正解とを照らし合わせて正誤判定を行う。
この手続を説明する目的は、「解答者にとっては、結末の予測という不確定な要素があるので、解答権を取った解答者は必ずしも『正解というメリット』を与えられるわけではない。」ことの明示です。
(2)早押しクイズに課せられる出題者と解答者の課題
早押しクイズにおいて、出題者と解答者の果たすべき役割は以下のとおりだと考えています。
①出題者の課題
出題者の課題については、「早押しクイズというゲームを成立させるため、解答者全員を平等に取り扱うこと。」と考えています。具体的には以下のことが挙げられます。
1) 解答者全員が誤解しないよう、瑕疵のない問題を出題すること
・問題文が、自然な日本語の文体で成立されていること。
・解答者全員が問題文の意図を正しく認識が出来るよう、ニュアンス
に気を配ること。
・事実関係に齟齬がないこと。
・早く押すことに何らかのメリットがあるよう、問題文の構成に気を
配ること。
・解答に直結しない情報を最小限にすること。
・解答が一意に定まること。限定が効いていること。
2) 特定の解答者に肩入れしない厳正な正誤判定の遂行
3) 1)、2)において解答者からの疑義の指摘があればそれを認め、「解答
者全員に対して平等に取り扱う」適切な判断をすること。
②解答者の課題
解答者の課題については、「出題された問題文をできるだけ早く・正確に予測することで、『正解というメリット』を得る確率を限界にまで高めた状態で解答権を獲得し、正解すること」と考えています。
1)出題者が呈示する問題の結末の予測
2)解答権を取るための、他の解答者より早い意思表示
3)解答権を取った問題に対する、出題者が用意した正解の解答
この課題を説明する目的は「出題者、解答者の課題は境界線を引いて分離することが出来る」ことの明示になります。
出題者は瑕疵のない問題の出題、厳正な判定については自身の課題になりますが、解答権を取ること、正解することは解答者の課題です。したがって、「正解してほしい」と思う感情のもと、出題者が解答者の課題に立ち入るべきではありません。
また、解答者についても、問題文や正誤判定の瑕疵の指摘は正当な行為ですが、瑕疵があるかどうかの判断は出題者が行います。単に誤答したからと言って、解答者はその責任を出題者に負わせることは出来ないのです。
そして「正解至上主義」というのは、本来であれば明確になっている出題者と解答者の課題の境界線が合間になり、お互いの課題に立ち入ってしまうことによって生じる、考え方のクセなのではないかと思います。
3.正解至上主義が生まれる背景
では、こうした「正解至上主義」と言われる考え方のクセがどうして生まれるのか、その背景となる事象を5つ書いていきます。
(1)正解することで生まれる喜び
クイズをしている人の大半は「知っていることが出題されて、その問題の解答権を取って、正解できたことの喜び」を感じるのではないでしょうか?
僕もその喜びを感じます。正解できれば喜びますし、正解を積み重ねて勝てたときはなおさらです。
(2)誤答で生まれるネガティブな感情
一方、解答権がなかなか取れなかったり、解答権を取っても答えが誤答になったりした時に、喜びが得られないと不快感や不甲斐なさ、焦りなどのネガティブな感情が生まれます。それは時に怒りの感情にも繋がります。
特に勝ち負けに直結する時に不利になってしまうことで、ネガティブな感情が増幅します。さらに言うと、ネガティブな感情を一人が持ってしまうと、その場全体の雰囲気も悪くなります。
したがって、その場全体の雰囲気を悪くならないために、出題者も誤答を避けようとしてしまいがちになります。
(3)同一人物が出題者にも解答者にもなる
基本的に、競技クイズでは普段解答者の立場にある人間が、例会の企画、オープン大会などの場面で出題者の立場になります。なので、正解することで生まれる喜びも、誤答で生まれるネガティブな感情も共有しています。
その共感度の高さが「出題者が解答者にできるだけ正解させるように努力する。」動機につながっているように思います。
(4)ネガティブなものへの許容度の低さ
これはあくまで個人の主観なのですが、近年の若手を中心に競技クイズに対する許容度が狭まっているような気がします。特に「解答者が正解するために、出題される問題はこうあるべき」というべき思考が強いことで、自身のやるべきことを棚上げにして、出題者を批判する傾向があるように感じます。
これが、「出題者は解答者に正解させるよう、最大限の努力をすることを求める」態度につながっていると考えています。
(5)曖昧な基本ルール
競技クイズには問題文に課せられている条件、正誤判定基準など、基本的な早押しクイズのルールが、競技クイズ界隈で共有されていません。
特に2022年現在、競技クイズには統括団体がないことで、共通のルールが存在しません。よって個々の出題者が、基本的なルールを設定しなければなりません。そのような環境のもとでは、出題者の個々の価値観、解釈で基本ルールが変わるのは当然のことです。
厳格で不変な基本ルールが共有されていれば、「解答権を取った解答者をできるだけ正解させる」出題者の忖度も解答者の要求も出来ませんので、「正解至上主義」という概念が生まれることはないと思います。
4.正解至上主義の具体例
ここでは、僕が「正解至上主義」が害悪と映る具体的なシーンについて5つ取り上げます。
(1)問題文に瑕疵が見られないのに、誤答が出たら出題者が
解答者に謝罪表明する行為
早押しクイズは、読まれている問題の結末を予測し、参加者は「正解できる」と自身で判断して解答権を取りに行く競技です。その判断は解答者の課題であり、結果の最終責任も解答者が負います。(もちろん、出題者の課題を遂行するのに瑕疵があれば別ですが、その指摘も解答者の課題です。)
ただ、出題者の課題を遂行しているにも関わらず、誤答が出た時に出題者が謝罪表明する行為をよく目にします。
出題者が謝罪表明すると、無意識のまま「解答者>出題者」という力関係が出来てしまいます。その結果として解答者は「出題者に対し正解できるような忖度を要求する。」態度が出来上がってしまうことになります。
一方、「相手の気を悪くしたことに対して、ごめんなさいという言葉で共感を示す。」という考え方もあるので、賛否分かれるます。しかし、個人としては出題者自身の課題ではないことに対し謝罪の意をのは、適切な行為ではないと思います。
(2)「なるべく正解していただく」という観点からの問題文
を推敲する行為
早押しクイズにおいて、瑕疵のない問題を出題する責任は出題者の課題です。そして、問題文のニュアンスに気を配るのも出題者の課題です。その意味で、問題文を推敲して磨き上げていくのは出題者の課題として重要な行動と思っています。
しかし、その目的は「問題文の内容を正確に伝える」という、自身の課題に注力するべきであって、「なるべく正解していただく」という解答者への配慮を目的にしてはいけないと思っています。
「問題文の内容を正確に伝える」ことは出題者の課題ですが、「正解する」ことは解答者の課題だからです。
「問題文の内容を正確に伝える」という課題が達成されていると出題者が判断すれば、その時点で出題された問題は正当だと思います。また解答者が疑義を問う時には、出題者の瑕疵をきちんと表明する必要があると考えます。
言い換えると「解答者基準ではなく、出題者基準で問題を推敲しましょう。」ということになります。
(3)解答権を取った解答者に有利な正誤判定基準の設定
早押しクイズにおいて、正誤判定基準の設定は出題者側の課題です。したがって、「どのような解答を正解とするか」は出題者側の判断に委ねられます。
正誤判定基準については、近年特に「解答権を取った解答者をできるだけ正解させるようにする」思想が働いているように見えます。結果として解答権を取った解答者がより有利になるよう、正誤判定基準が設定されていると感じています。
例えば、正誤判定基準について、以下のような傾向が見られます。
①複数のものから一つだけを答える問題の場合、その一つを答えた場合
のみを正解とするのではなく、問題文のままの順序で全てを答えた場合も
正解とする判定基準が認められている。
→正誤判定のダブルスタンダードと思います。出題者が設定する一つ
を答えた場合のみ正解とする裁定が妥当だと思っています。
②惜しい誤答に対する「もう一度」の判定が広く取られるようになった。
→明らかに誤答と思えるような場面でも、もう一度を取られて嫌な思い
をすることが結構あります。
③出題後、瑕疵が見つかった問題について、正解が出れば正解扱いとする
が、不正解の場合はノーカウントとする裁定が多い。
→出題者の瑕疵によって特定の解答者に有利に働くので、基本的には
瑕疵があった時点でノーカウントにする裁定が望ましいと思います。
また、いわゆるチャレンジルール(出題者の問題・正誤判定の瑕疵を
指摘し、判定に疑義を呈するルール)の適用について、「不備がなかっ
たら解答権を取ることが出来た」などの、他者の正解に対する疑義をつけ
ない傾向を感じます。
これも「解答権を取った解答者をできるだけ正解させるようにする」
思想の一種だと思います。
(4)既出問題と似ていて紛らわしい新作問題の出題を批判
する行為
まず、具体例で説明します。
(既出)Q:蚊の中で人の血を吸うのはオス、メスどちらでしょう?
A:メス
(新作)Q:蚊の中で人の血を吸うのは、どのような行為をした後の
メスでしょう?
A:交尾(産卵にエネルギーを使うため)
この例のように、クイズ界で既出の出題の切り口を尊重するあまり、
さらに突っ込んだ知識を問う問題を批判をすることを言います。
この新作の問題について、大部分の人が「蚊の中で人の血を吸うのは」というところで解答権を取りに行って誤答になるのですが、
・「蚊の中で人の血を吸うのは」というところで、「オス」か「メス」か
しか聞かれないという「思い込み」
・「メスの蚊全部が人の血を吸うわけでない」ということを知らない
「知識不足」
などの、解答者側の力量不足が背景にあると思います。したがって出題者側の責任ではありません。
ところが「解答権を取った解答者をできるだけ正解させるように、出題者に対し自身の課題を超えた忖度を要求する」という正解至上主義がはびこってしまうことで、解答者側の力量をあえて問う出題はタブー視され、何の責任もない出題者側が批判を受けることになります。
本来であれば、このような解答者の力量を問う問題こそ優先して出題されるべき問題と僕は考えています。
5.なぜ「正解至上主義」は問題か?
これまで、正解至上主義とはどういうものかということを説明してきました。ここでは、正解至上主義がなぜ「害悪」なのかについて書いていきます。具体的には、以下の5点が考えられます。
(1)解答者が上、出題者が下という上下関係の形成
「出題者に対し正解できるような忖度を要求する。」態度を取る人は、解答者の立場で誤答をした場合、自身の力量不足を棚に上げて、出題者の批判をしているように感じます。
さらに言うと、解答者>出題者の力関係を作り出そうとする目的も感じます。
解答者と出題者の立場は本来同等であるはずなのに、解答者の立場が上、出題者の立場が下というような扱いが垣間見えることに僕は違和感を感じますし、「正解至上主義」の弊害だと思っています。
(2)メンタルの強さの軽視
「出題者に対し正解できるような忖度を要求する。」態度を取る人は、誤答にした後のプレイングが崩れる印象があります。
メンタルの強さはあらゆる競技に勝つためのみならず、社会生活を安定して過ごすために必要な要素です。しかし、競技クイズ界隈では「できるだけ正解させる環境を整える」ことで、メンタルの要素を排除するような傾向が見られます。
競技ということを名乗っている以上、「誤答を解答者自身の責任として受け入れる」「誤答を引きずらず割り切って切り替える」というメンタルの強さも問われるべきだと思います。
(3)解答者の間に生まれる不公平感
早押しクイズは出題者と解答者が1対1になる関係ではありません。
特に競技クイズにおいては、解答者同士を競わせる競技であるため、出題者と解答者は必ず1対複数という関係になります。
そして、出題者の課題は、「解答者全員に対する平等に扱うこと」です。
「解答権を取った解答者をできるだけ正解させるようにする」行為は「特定の解答者に対する忖度」であり、「解答者全員に対する平等に扱うこと」に反します。
しかも、出題者が自身の判断で「特定の解答者に対する忖度」をしてしまう行為は、出題者と特定の解答者だけが関係を結ぶ行為になります。しかも、その関係に他の解答者が立ち入ることが出来ません。
自身のコントロール出来ないところで不利になってしまうので、解答者が不公平感を感じ、不満を溜め込む懸念があります。
(4)新しい切り口の出題のためらい
出題者は自身の課題を達成していれば、どのような問題でも、出題するのは自由です。(一応、コンセプトは告知する必要はありますが。。。)
ただ、「解答権を取った解答者をできるだけ正解させるようにしなければいけない」と出題者側が思ってしまうと、解答者が誤答をしてしまうことを恐れてしまいます。その結果、「どのような問題でも出題してもよい」という権利を、自分の手で放棄してしまいます。
その結果生まれるのが「既存問題重視」の傾向です。既存問題のほうが正解が出やすいのは事実だからです。さらには先に述べたように「既出問題と似ていて紛らわしい新作問題の出題」についても、解答者側からの批判を避けるために、出題をためらう傾向があります。
既存問題が重視されると、以下のような新しい切り口の出題がためらわれるように感じます。
・突っ込んだ知識を問う問題
・有識者にとってはメジャーなことであっても、競技クイズ界隈では
聞かれない問題
・競技クイズ界隈で広まっているイメージとは違う解答になる問題
僕は上記の新しい切り口の出題はむしろ積極的に取り入れるべきと思っています。単に今までの常識から外れたことを発見する面白さもあります。そして、たかだか思考回路が似通っている数万人程度の狭い見識を破って、世界を広げていく面白さも感じます。このような面白さ、世界の広がりが既存問題重視の傾向で潰されるのは、やっぱり害悪だと思います。
(5)内輪感が強くなり、外部から理解されない
競技クイズは真剣勝負です。八百長は一切ありません。(そもそも、そんなのやるメリットがない。)それは最初に言っておきます。
ただ、競技クイズにおいては、同一人物が出題者側の立場にも解答者側の立場にもなります。そして、当然、出題者と解答者には同じ競技クイズ界隈にいることで、仲間意識もあります。よって、出題者と解答者の間に明確な境界線が引きにくい環境です。
そのような環境で、出題者が「解答権を取った解答者をできるだけ正解させるようにする」行為をしてしまうことで、競技クイズ界隈の外部からは「暗黙の了解によって成り立つ、内輪感が強い世界」と思われてしまいます。
せっかく真剣勝負をしているのに、外部からそういうふうに捉えられているのは悲しいことだと思います。だからといって、外部を批判するのも違います。そういう印象を与え続けていることは認識しないといけないと思っています。
また、新しい切り口の出題が少なくなることで、競技クイズの出題傾向がガラパゴス化してしまいます。出題面からも世間一般の傾向から外れ、たかだか思考回路が似通っている数万人程度の狭い見識による常識が構築されてしまい、出題傾向という意味からも、外部から理解されない世界が形成されてしまいます。
(6)競技クイズの価値を自ら貶める
以上、正解至上主義がなぜ「害悪」なのかということを5点あげました。これらに共通するのは「競技クイズの価値を自ら貶める。」ということです。
早押しクイズは本来、
・問題を読まれている一瞬の間に正解できるかどうかを判断する。
・他の解答者より先んじて解答権を取り、少ないシンキングタイムで
正解を導き出す。
という、深い知識や思考力ばかりではなく、リスク判断、文章理解、反射神経、冷静なメンタルなど多くの能力を必要とする、非常に高度な頭の格闘技です。
ただ、それが「解答権を取った解答者をできるだけ正解させるように、出題者に対し必要以上の忖度を要求する」ことに成り立っていたとしたら、上記の能力を発揮する機会を削いでしまう気がします。代わりに必要なのは、「競技クイズ界隈の暗黙の了解を理解する。」くらいでしょうか?
今はクイズ界隈の外側にいる一般人は競技クイズ界隈の暗黙の了解を理解していないので、「すごいこと」と受け止めるのでしょう。
ただ、このような正解至上主義の考え方が一般の人に広まると「すごいこと」して扱われるのではなく、「何か訳の分からない暗黙の了解で成り立っている競技もどき」と取られ、その価値は否定されるのではないでしょうか?
「すごいことをやっているのに、認められないよなぁ。。。」と思って「もったいない」という感情を僕はいだきます。
6.出題者・解答者に望む態度
では、害悪とも言える「正解至上主義」に陥らない態度はどういうものでしょうか。ここでは出題者・解答者に臨む態度を5つ取り上げます。
(1)出題者側の立場では「解答者に正解してほしい」願望を
切り捨てる。
出題者側の立場に立った時に、僕が一番邪魔だと思う感情が「解答者に正解してほしい」という願望です。なぜなら、「解答者を平等に取り扱わず、特定の解答者に忖度する」ことにつながってしまう考え方だからです。
「解答者に正解してほしい」という願望を出題者が持ってしまうと、厳正な正誤判定が難しくなります。出題についても、解答者に対する忖度を過剰に行うことで、いらんストレスをためてしまいます。
また、「特定の解答者に忖度」することで、他の解答者の立場を切り捨ててしまいます。特に他の解答者は結果のコントロールは出来ないですから、他の解答者にとってもストレスが溜まります。
出題者の立場に立ったら「俺は、お前らに正解を与える道具ではない」というくらいの不遜な態度でちょうどいいと僕は思います。
(2)解答者側の立場では「出題者が正解に導く手助け」を
期待しない。
出題者の課題に「解答者が正解に導けるよう手助けをする」責務はありません。
そのようなことを理解せずにいると、解答者側の立場で誤答をした時に、「正解させてもらえなかった」という気持ちが残ります。結果として不満がくすぶったり、焦りが出たりして、その後のプレイングに影響が出ます。
でも、それは解答者側の力量がないだけです。そして、解答した結果の責任を自ら背負わない態度です。
解答者の立場に立ったら「誤答の結果は割り切って受け止め、次の問題に備えて切り替える」姿勢が必要だと思います。
(3)出題者、解答者とも自身の課題達成のため、自ら出来る
ことに専心する。
アドラー心理学を考え方の一つに「課題の分離」というのがあります。
この考え方は、人間関係のトラブルについて、「最終的な結果を引き受けるのはだれか?」という観点で、「自分の課題(自分がコントロールできること)」と、「他人の課題(自分がコントロールできないこと)」を切り分ける考え方です。
その根拠にあるのは「過去と他人は変えられないが、自分と未来は変えられる。」ということです。過去に起こったことは変えることは出来ませんし、他人の価値観を自分の力だけで変えることは出来ません。
他人の価値観を変えようとすると、他人の課題に自分が踏み込むことになり、人間関係のトラブルが発生します。これは、競技クイズにおける出題者と解答者の関係でも当てはまることです。
したがって、競技クイズにおいても、出題者は「早押しクイズというゲームを成立させるため、解答者全員を平等に取り扱う」課題を達成するために自ら出来ることに、そして、解答者は「出題された早押しクイズにおいて、正解というメリットを得る」課題を達成するために自ら出来ることに先進する態度が望ましいです。
出題者、解答者の両方の立場において、「他人を変えようと批判をする前に、自身の課題に対し出来る努力をする。」姿勢が必要だと思います。
(4)理不尽な事は一旦受け入れ、必要に応じて疑義を問う。
それでも、出題者側、解答者側の立場で見た時に、理不尽な意見や判定があるのは事実です。
出題者側、解答者側で価値観が全く同じということはありえないため、価値観のぶつかり合いが生じ、受け入れられないことが発生するからです。
ただ、理不尽なことに対して感情的になるのではなく、一旦受け入れて、本当に理不尽なことなのかどうか、自分で考える必要があると思っています。
自分は自身が出来る努力を本当に全うしていたのか、自身の改善点は本当にないのか、もし、自分が相手の立場になったらどう思うのかとか。
そうしたことを考えた上で、それでも理不尽だと思ったら、相手を責めるのではなく、疑義を問う形で指摘すればいいと思います。
出題者、解答者の両方の立場において、「理不尽なことを受け止めて、内省する」姿勢が必要だと思います。
(5)出題者、解答者とも自身の判断を説明出来るように準備
する。
また、疑義を問われた時に自身の判断を説明することも必要な態度です。
自分の行動に対し責任を持つために、常に他者に対して説明をできることが必要です。また、説明出来ないことが出てきたり、行動に対し瑕疵があると思った場合には速やかに非を認め、適切な対応をする必要もあります。
出題者、解答者の両方の立場において「自身の判断の正当性を裏付けるため、説明する準備をする」姿勢が必要だと思います。
7.ベタ問否定と正解至上主義
正解至上主義は「害悪」という主張をしていると、自分は「ベタ問」の存在を否定したいのかなぁと悩むことがあります。
結論から言うと、「ベタ問」の存在を否定することはありません。
「ベタ問」という問題は、解答者が「出題された早押しクイズにおいて、正解というメリットを得ること」という課題を達成するために研究された、いわば「競技クイズの定跡」と言えるものだからです。
それは出題者、解答者それぞれの立場に立った時に、自身の課題を全うする努力をした結果生まれたものだと僕は考えます。
(ただ、「正解させたいから」という態度でベタ問を出題させることは僕は嫌います。それは解答者に対する忖度です。だから、すべてベタ問になるような構成は避け、いろいろな問題を出題するようにしています。)
しかし、その「ベタ問」を安易に取り扱ったりすることで忘れてしまうことがあります。それは「出題者がどんなに努力しても、解答者の誤答の可能性は0にはならない。」ということです。
いくら定跡化された「ベタ問」でも、それはたかだか思考回路が似通っている数万人程度の狭い見識によって構築された定跡です。新しい切り口が見つかれば、誤答の可能性が0であることはあっけなく崩れます。
そのことを理解していないプレイヤーが競技クイズ界隈でも多いと感じます。正解至上主義の弊害の一つではないでしょうか?
逆に、「ただ、ベタ問を否定するだけの外野」もうざったい、迷惑な存在です。否定するのだったら、例会、オープン大会などで出題・公開して、解答者の落ち度や自身の正当性を堂々と主張・公開すればいいと思うのです。それをやらない外野の声は説得力に欠けるだけですね。
8.正解至上主義のメリット?
以上、正解至上主義の「害悪」について、僕が思うことを書いていきました。
最後になるのですが、「害悪」というくらいであれば、その反対に何らかのメリットがあるのでは?と思うのですが、正直僕は以下のことしか思いつきませんでした。
①内輪でやっている分には「正解至上主義」のほうが誰も気分を害さない。
②暗黙の了解を外部に魅せないことで、能力があると自分で思いたい。
どちらも、僕は意味を感じません。メリットと言いつつ僕には無益なものと思います。
別に、競技クイズが、内輪で楽しむことを目的としているのであれば特に何も言うことはないのです。しかし、外側の人にも魅力を知ってもらおうといろいろと発信している段階においては、正解至上主義はそれを阻害する「害悪」にしかならないことをぜひ認識していただきたいと思っています。
9.最後に
~観戦者は「正解至上主義」でいい。~
最後になりますが、僕は正解至上主義による競技クイズ界隈の「出題者は解答者に正解することを願う」感情からくる、考え方の悪いクセから来ていると思っています。
もちろん、出題者、解答者以外の、いわゆる観戦している立場から見た時に、「解答者に正解することを願う」のは当然の感情ですし、それは僕も持っています。だから、観戦している立場からでは素直に応援していますし、良いプレイングについては感銘させられることも多いです。
ただ、「解答者に正解することを願う」感情を出題者や解答者になった時に持ち込まないでほしいと思います。
観戦している立場と競技に直接従事する立場は違うことを認識する必要があるのではないでしょうか?
この問いかけが「正解至上主義」を害悪として批判する源泉だと思っていただければと思います。
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