欲望に流される羊の群れどもよ:劇団ド・パールシム『流れる羊』評(書き手:綾門優季)

あまり普段から考えたくないことのひとつに、欲望を肉体から完全に抜いて、生きていくことは出来ない、という事実がある。食欲も睡眠欲も性欲も、欲望を全く感じない人間は、原理的に、やがて、死んでしまうだろう。しかし、ふと思うのだった。食欲と睡眠欲が、人間の命を続けるために必要な欲望なのはよくわかる。ただし、性欲はどうか。性欲の発散のほとんどは、無意味に行われている行為なのではないか。と。
 
オナ禁宣言、と書かれている、目立つ看板が、常に舞台奥に置かれている。手前には布団がふたつ。絶対にこのあと何かが起きることを匂わせる。そもそもオナニーに欲望を感じていない人間は、オナ禁宣言をしない。それはあえて大きく言えば、戦争反対とたえず唱えられている世界で、たえず戦争が起きてしまうことと似ている。反対を唱え続けなければならないことは、阻止することのままならないことであると示している。
 
ド・パールシムの前回公演『邪教』でも示された男性の愚かさは『流れる羊』にも健在で、男性が愚かでなければ、物語は前に進んでいかないとさえ思う。衝動のままに行われる、数々の最低な性行為が、事態をより複雑に、すべての登場人物が脱出不可能な混迷した状況へと追い込んでしまう作劇を得意としているからである。ただし、『邪教』では、宗教にまつわる問題と性的な誘惑が合体し、得も言われぬ気持ち悪さを醸し出していたのに対して、『流れる羊』はその点、出来事の絡み合い方が若干、単純化してしまったことは否めなかった。男性の性欲はここまで単純に出来ているものなのだろうか、という疑問もわいた。そうだ、と言われれば、話はここでおしまいになるが、性欲という謎の欲望の得体のしれなさについて、もう少し先へ進むことの可能な作風だとも考える。
 
想像の及ばない他者の欲望と直に対面するときに絶句してしまうこと。恐れずに踏み込んでいったとき、新しい傑作が生まれるだろう。それは単純な解説を、拒む形に変わるだろう。
 

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