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絵画から見る“因果律の逆転”とは



美術館とは、あらゆる美術品が展示されている場所である。
美術館に陳列する作品は、作者の手により“完成”したものがほとんどだ。


楽曲の舞台は、未完成の絵画が飾られる架空の美術館“Museum Zero”である。

これら未完成の絵画たちは、己を完成させたいと思っている。
「幸せ」という完成を手に入れたい。あるいは「完成」という幸せを手に入れたい。最高傑作になりたい。

では、未完成の彼らは、一体どのように自身を完成させようというのか。

未完成の絵画たちは観客に話しかける。
オーディエンスを巻き込んで完成させようとするのである。

二次元の絵画たちは、結界で隔たれたはずの三次元の人間を「どうぞ、傍に寄って」と呼び寄せる。絶対に交わるはずのない世界同士が交わろうとする。

未完成な絵画が意思を持ち、2次元と3次元が絡み合った先の「完成」とは。



さて、
これら未完成の絵画たちとは、言わずもがな、原因は自分にある。のことである。

「原因は自分にある。」というややこしいグループ名を付けられた彼らは、そのややこしい名前と常に対峙してきた。

「グループが引き起こすコト・作り出すモノが”原因”となり、世界に新たなものが生まれる契機になる」というコンセプトに真正面から向き合い、「誰かの何かの原因になりたい」と追及し、ステージに立ち続けている。今までも、現在もずっと。

その一方で、昨年「原因は君にもある。」をリリース。
ステージに立つことで何かの原因になろうとしている彼らだが、ステージに立つ原因の一つにファンの存在がある、と歌ったのである。
今やお互いがお互いの原因となり作用し合っているということらしい。



私たち観客はいつも、“既に完成”した絵画を眺めているだけのつもりだった。
完成した絵画を傍観し、絵画から一方的に影響を受けていると思っていた。

しかし、絵画にとっては必ずしもそうではない。
立場が逆転し、観客が絵画に何らかの影響を与えている。

それは、観客である私たちが“絵画を完成”させることができるということだ。“完成”とは、私たちが絵画に直接手を加えるという、物理的意味での完成ではない。

私たちが絵画を見ることが、“絵画”の完成となるのである。

絵画は見られて初めて、絵画として意味を持つ。
誰も存在を知りえない絵画は無、しかし誰かに見られる瞬間にそれは“絵画”となる。“1”となる。

絵画があるから観客がいるのでなく、観客がいるからこそ絵画になる。因果律の、逆転だ。
(因果律…全ての事象は、ある原因から生じた結果であること。)

つまるところ、げんじぶを眺め観測しているだけのつもりであった私たちも、げんじぶにとってはただの傍観者に終わらないのだ。

そしてげんじぶは、げんじぶと私たちで“完成”させた1枚が大成功でも大後悔でもどっちだって愛し合おうと歌う。



「原因は自分にある。」は、やっぱりややこしくて難解なアイドルだと思う。
それでもげんじぶは、「原因は自分にある。」を健気に模索し続けている。「何処にもないなら 描いてしまえばいい」と歌う。

これから原因は自分にある。は、どんな絵画を描こうとしているのか。Museum Zeroをどのように完成させようとしているのか。

その答えのひとつは、2023年11月5日ぴあアリーナMMにて行われる、「原因は自分にある。ARENA LIVE 2023 因果律の逆転」にある。げんじぶにとって、初めてのアリーナワンマンライブ。

私たちはそれを観測する。
そうして彼らの絵画がまた、きっと完成する。

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